第162話 黒 白 紫
「アルトリグムは将来素晴らしい人と結婚するんだよ」
「ふ~ん」
大好きだった父が幼少の頃から度々言っていた言葉。
小さな村の小さな家。物心つくころから度々聞かされた言葉を少女は信じて育っていった。
まるで御伽噺のお姫様のように、自分を迎えに来てくれるであろう王子様を夢見て……。
妻を――少女の母を早くに亡くした父は、少女を大事に大事に扱ってくれていた。
村の他の子達のように畑仕事にも駆り出されることもなく、平穏に、平和に、健やかに少女は育つ。
小さな村の小さな教会の司祭であった父は、人々から信頼される良い父だった。
黒の神を祀る教会の司祭であった父。
黒の神、『黒の綴り手』グレアモルは夜と命、そして死を司る神。同時に廻りゆく運命の神でもあった。
厳しい地域では特に死を恐れ遠ざけようと願う。死を乗り越える術、命を紡ぐ教えを謳う黒の教会は、当時数多くの村で信仰されていた。だがその頃の少女にはどうでも良いことだった。
長い冬を持つ退屈な生活の中、少女は父のしてくれる話に胸を躍らせ、楽しみを見出していた。
「今晩のお話はどうして聞いちゃ駄目なの?」
「アルトリグムには少し早いからね」
当時の少女の不満と言えば、数々の物語を説法として伝える父の話の中で、少女には聞かせられない類の話があった事だ。
――結婚できる年頃にならなければ聞かせられない――そう諭されても、子供心に納得できるものでもない。
(大人だけが知っていい話なんて意味が分かんない)
少女は純粋な好奇心で夜の説法に潜り込み、そして知ってしまう。
――夜の営み。愛の作法。命の作り方を。
夜と命の教会では、子の宿し方。夜の営みについての様々な事を教えていた。
それは夜の誘い方、愛し方、手管と言い換えて良い淫靡で猥雑な話しだった。
物陰に隠れてジッと耳を欹てていた少女は、自らの内に宿る羞恥の心に戸惑い身悶える。
しかしそれと共に興味も覚える。
下腹に疼く熱のような感情。こそばゆいような焦れるような焦燥。
訳も分からず戸惑いながらも、少女は好奇心を傾けていく。
そして魅かれたもう一つの言葉。
その熱に浮かされる感情の先に『命』が生まれるという真理。
生まれて来たなら死にゆくだけ……そう思う程度には村には死が溢れていた。それが命を生み出せると知り少女の胸は高鳴った。
命の成し方を知るのに、山はすこぶる良い教材だった。
虫も獣も鳥たちも、厳しい冬を越えると一斉に愛を囁くようになる。彼女は命の育み方を早々と知る事になっていた。少女は山に入り浸り、命の誕生に胸躍らせた。
だから少女は気付かなかった。村人達が少女を見る目に気付く事は無かった。
☠ ☠ ☠
「綺麗になってきたねぇ、アルト」
「えへへ。ありがとう、ハンス」
「こ、今度俺と街に行ってみないか?」
「ごめんね~。父さんの仕事があるからさ」
14を過ぎた頃、少女は村娘とは思えない程美しく育っていた。
街の淑女のように洗練されたものでは無いが、健やかにのびのびと成長した少女は、自然の中でこそ輝く大輪の花のように、健康的な美を宿していた。
それに加えて豊かな胸の膨らみが村の男達を魅了した。彼女の胸は村一番の大きさを誇り、村の男衆の垂涎の的となっていた。
(ボクの王子様はどんな人だろう……ああ、早くシテみたいなぁ……)
歳より早く熟れた体と心。少女の中で沸き立つ興味は、生に関する事柄と性に関する事柄。
数多の愛を囁く動物の営みに少女の心は期待に膨らみ、その内に妖艶な色気を含むようになっていく。
内に秘めた妖艶さを隠しながら少女は育つ。性に興味しんしんだった彼女は少し……いやかなり好色に育っていた。
しかしそこは、閉ざされた村。しかも司祭の娘の立場もある。子供を成せる年ごろにはなっていたが、興味のままに試す事も出来ず、悶々とした日々を送る事を余儀なくされる。
いつか来るであろう結婚の日を夢見て、少女は自分を慰め日々を過ごす。
耽る少女は分からなかった。誰もが少女に触れない訳をずっと知らずに育っていた。
☠ ☠ ☠
美しく成長した少女が成人を迎えた15歳の冬。
この年は厳しい寒さと飢饉に見舞われた年だった。
もとよりあまり貯蓄も出来ない、寂れた山間の村である。弱い者、持たぬ者から死んでいき、村の人口は瞬く間に半減した。
司祭であった父も、日々人々の埋葬に追われ、憔悴しきったまま教会で夜を明かす事も増えていた。
「ボクも父さんの手伝いするよ?」
度々父に申し出てみても、父は困ったような顔を浮かべて少女の申し出を躱す。
「大丈夫だよ、アルトリグム。アルトリグムは偉大な人と結婚する身だからね。そんな事はさせられないよ」
意味の分からぬ言葉。その頃の少女には、幼少の頃より聞かされていた言葉が、酷く不吉に聞こえていた。
その時少女は思い出す。母が亡くなった時もこんな冬だったと……。
いつの間にかいなくなっていた母。物心も朧気な少女が、悲しむ間もなく姿を消した母。
(そう言えば母さんはボクの事なんて呼んでたっけ?)
少女の心に浮かんだ微かな疑問。自分の名はアルトリグム。父しか呼ばない名ではあったが、少女の記憶の中で小さな齟齬が生まれていた。
悩む少女は知りえなかった。父しか呼ばない名の意味を。そこに隠されていた秘密に気付きたくは無かった。
☠ ☠ ☠
その疑問も解けぬ、ある凍える吹雪が舞った夜。
「アルトリグム。お前の結婚の日取りが決まったよ」
「ホント!?」
突然の父の言葉に少女は戸惑い、そして喜んだ。
薄暗く淀んだ冬の寒村の中では明るい話は聞こえてこない。日々、誰が死んだ。次はあそこだ。そんな暗い話だけが満ち溢れている。
そんな中に舞い込んできた自身の結婚の話は少女を再び明るく彩る。
待ちに待った結婚。相手の顔も知らないが、少女は素直に喜びを表す。
父が言っていた話が本当ならば、相手は高貴な身分の人だと思えた。だから直前まで顔を知らないのも無理からぬことだと納得した。
そう自分に言い聞かせ、少女は小さな不安を押し込めた。
それに何より自分の興味はその先にある。
結婚の後に続く睦事と新たな命を孕む事に少女の胸は高鳴っていた。
顔も知らない夫の事より、少女の興味は先へと進んでいた。
(ハジメテって痛いんだよね? うぅ……不安だなぁ……。でも気持ちいいって聞くし……どっちなんだろ? 自分でするより気持ちいいのかなぁ……)
不安や疑問は小さく萎み、性に憧れた少女の心は、間近に迫る夜の営みに期待し焦がれた。
愚かな少女は気付かなかった。暗く淀んだ父の瞳に何が宿っていたかなど、ずっとその父を見て育った少女が気付けるはずが無かった。
☠ ☠ ☠
少女の婚礼の日は、その冬一番の吹雪に見舞われていた。
吹き荒ぶ吹雪は夜の暗闇すら白く染める。
黒の教会での婚礼の儀は夜に執り行われる。
夜に交じり命が生まれると説く黒の神に因んだ風習だ。
「とても綺麗だよ。アルトリグム」
「へへ~ん、そぉ? ふふん」
花嫁衣装に身を包んだ少女は、父の言葉に大きく育った胸を張る。
雪のような純白の衣装。手を伸ばしても指先も見えない長い袖。足首すら覆い隠し広がるスカートの裾に戸惑いながら少女は輝く笑顔を浮かべる。
「ああ、偉大なお方も喜んで貰えそうだ」
「もうっ! 父さんったら! こんな時は『お嫁に行っちゃうボクと離れたくない』って泣くものじゃないの?」
花嫁衣装の襟元に付けられたフードを、ヴェールのように被りながら少女は薄っすら浮かんだ涙を隠す。
嫁に行くということは父と離れる事を意味している。
大好きだった父との別れに、少女は涙を滲ませる。
ポタリポタリと落ちる涙は白い衣装に溶け落ちていく。
「アルトリグム……。良くここまで育ってくれた」
少女の父は慰めともつかない不器用な言葉と共に、少女の頭を撫でてくる。
少女は俯き涙を流す。
泣いた少女は気付けなかった。父の瞳に宿る狂気に最期まで気付けなかった。
☠ ☠ ☠
(ボクの旦那様はどんな人かな?)
一時緩まった夜の雪道をアルトリアは一人歩く。
畦道も畑も全てが白に塗り込められた景色の中、アルトリアの歩く後ろに黒い小さな影が落ちる。
純白を一人汚しているかのような錯覚。快感と後ろめたさを同時に覚える。
父は司祭でもあるから先に教会へと入っている。教会で行う行事の中では一番の慶事だし、一人娘の婚礼だ。さぞ気合も入ってる事だろうと笑みを溢す。
村の人々も既に教会に集まっているのだろう。婚礼の儀は食べ物も振る舞われる為、村中が詰めかけるイベントだ。
しんと静まり返った雪の夜は、白い闇とも思える不気味さを孕んでいた。
その中を歩く純白の花嫁衣装を着た自分は、輝く白い闇の中に溶け込んでいる様な奇妙な錯覚を覚える。
しかし結婚に浮足立っているアルトリアには、その闇さえ自分を照らす光に思えていた。
しんしんと降り積もる雪に僅かに除いた紫色の月が差す。
「わぁ……」
思わずアルトリアは感嘆の声を溢す。
今まで白一色であった景色が、にわかに妖しく彩られた。
自分の瞳と同じ色に染まった景色を見ながら、アルトリアはその幻想的な光景に酔いしれる。
(きっと神様もボクを祝福してくれてるんだ! これから新しい命を産むんだからきっとそうだよねっ)
なんとも気が早い……そう思わなくも無かったが、アルトリアは信じて疑わなかった。
手練手管は充分調べた。大人たちの会話に耳を欹て、夜の教会にも何度も潜り込んでいる。
実物を見る事は叶わなかったが、動物のとそう変わる事もあるまい。
自分はこれから男に抱かれ、そして子供を産む。
生と性。彼女が焦がれ憧れた二つの願いが一気に叶うのだ。アルトリアの胸の高鳴りは一際大きく胸に響く。
踊るような足取りでアルトリアは紫色の闇を歩く。
教会までの道の中ほどまでくると、数人の影が見えた。
(っと……顔上げちゃ駄目なんだよね? 誰だろ? 去年の先導役はロレッタだったからボクの場合……冷たっ!)
婚礼の儀に入ってからは花嫁は夫以外を見る事は禁じられている。
だから教会に入るまで誰とも顔を合わせてはいけない決まりになっていた。
婚礼の儀自体は何度か目にしていたアルトリアも、それに倣って俯き白いヴェールを目深に落として手を差し出す。思った以上に冷たい手に、危うく悲鳴が出そうになった。
(さっきまであんなに吹雪いてたもんね……)
花嫁の先導は年上の女性が役目を負うのが慣わしだ。
誰だろうとそこはかとなく考え、握りしめたその手が、全く温かく
「アルトリグム……」
浮ついた心に声が掛かった。
いつのまにか教会に着いていたようだ。
俯き歩くアルトリアの頭上から父の声が降って来て、アルトリアはいよいよその時が来たのだと感じ取る。
浮かれていた自分が気恥ずかしく、アルトリアは俯き顔を赤らめる。
彼女は最期まで気付けなかった。
自分を見る村人たちの畏怖の目も、汚されないその身の訳も、父だけが呼ぶ名の意味も……。
そして――――。
ギィ……と歪んだ音を立てて教会の扉が開かれる。
父の手を取り静かに歩くアルトリアの目の前には、いつも見上げていた主祭壇が映る。
オレンジ色の燭台の灯りは、黒の神を祀る為か極限まで絞られたか細いものだ。
主祭壇に向かって真っすぐ走る黒い絨毯。その脇には詰めかけた村人たちが静かに座って前を向いている。
厳かな空気を感じ、アルトリアは口を噤んで静かに歩く。
まるで黒の道に白い風が吹くかのように、長い裾を引きずりアルトリアは進む。
(わぁ……なんか緊張してきちゃった……。皆静かにすることも出来たんだ……)
誰も、物音一つ立てない。普段であれば喧しく騒ぐハンスの母も、落ち着きと言う言葉を忘れたかのように走り回るカランの甥も、皆静かに前を向いて一言もしゃべらない。
アルトリアが緊張のままに進む先には一人の人影が見える。黒の衣装を着た男の人影。
最低限の光しか無く、またその光も彼の後ろにあるため、かなり近くに寄ってもその顔は見えない。
(嗚呼、前を向いてるからか……)
アルトリアは男の背中にときめく胸を押さえて男に並び――――
「……………………え?」
アルトリアの口から零れた言葉は血の味がしていた。
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