第157話  流されやすい


(カクさんも飛び降りてくれりゃ良かったんだよなぁ……)


 川岸に寝転んだまま九郎は空を見上げた。

 半日以上急流に流された九郎は、やっと流れが緩くなった浅瀬に横たわりながら眉を寄せる。

 油断していたのは確かな事なのでカクランティウスだけを責めるのは酷なのだが、彼もほぼ『不死』なのだから高所から飛び降りても大丈夫だった筈だ。いや、考えてみればカクランティウスは骨だけの体でも寒さを感じていたようだから、雪山で川に飛び込むのを躊躇ったのかも知れない。


(一応はぐれた時の事も話し合っていて良かったぜ……)


 流石に熊に吹き飛ばされて崖を落ちる事は考えていなかったが、何度か雪崩にも遭遇していた九郎とカクランティウスは、離れ離れになった際の落ち合い場所も決めていた。

 今いる場所、ケテルリア大陸からシルヴィアのいるであろうハーブス大陸へと戻る道は一つしかない。


 九郎はシルヴィアの元へと帰りたい。しかしミラデルフィアのあるハーブス大陸はこの大陸の東に位置する別の大陸だと言う。そして二つの大陸は広い海で隔たれていると言うのだ。

 ならば直接東に進路を取り直線で帰れないかと聞いてみると、それほど簡単には行かない理由が有ると言う。


 今いる場所、ケテルリア大陸とハーブス大陸を隔てている海には『深淵』と呼ばれる海溝が存在する。

 九郎が一度引き込まれそうになった流れの正体、『深淵』とは海の水を吸い込み世界へと巻き上げる大きな噴水のようなものらしい。『深淵』の幅は大きなところでは大陸を飲み込むほど、小さいところでは紙の隙間程とばらつきがあるが、一度捕らわれてしまうと世界のどこへ飛ばされるか分からない。

 だからハーブス大陸に向かうのなら現在地からまずは北上し、『深淵』の伸びていない海域を船で渡る方法しか無いのだとカクランティウスは語っていた。

 いくら死ぬ心配が無いにしても、また名前も知らない場所へ飛ばされ迷う事を恐れた九郎は、カクランティウスの言う通り北を目指すつもりであった。


 そしてカクランティウスは元から山を降りたら別行動を提案して来ていた。

 昼間、太陽が昇っている間はカクランティウスはスケルトンの姿を取らざるを得ない。

 それでは街中に入る事すら出来ないし、街道でも見つかってしまえば討伐隊を差し向けられる可能性が有るのだと言う。

 九郎自身が『不死』の為、カクランティウスの骨の状態を見ても「そういうものか」で片付けてしまっていたが、スケルトン状態のカクランティウスはこちらの世界でもモンスターとしか見えないそうだ。


(平原の街……バックダルシアって言ってたっけ……)


 もし何かの拍子にはぐれてしまったのなら、ケテルリア大陸の中原にある街、バックダルシアと言う街で落ち合おうとカクランティウスは言っていた。力は戻っていなくても、死ぬこともまずありえない二人だからこそ、その計画も大雑把なものでしかない。

 今いるのはケテルリア大陸南方のアバウムと言う小国のどこかだろうと、星の位置から断言していたカクランティウスの言葉を信じるのならば、このまま北上していけば1ヶ月ほどでバックダルシアに着くはずだ。


 ここ数日で歩くのには支障の無いくらいには回復していたカクランティウスなら、それほど心配する必要は無いだろう。スケルトンと間違われて討伐されるのではとの九郎の心配に、カクランティウスは「寝ていたら行き倒れと変わらん」と乾いた笑いを浮かべていた。肉の無い体だから九郎と違って魔物に食いつかれる心配もそれほど無いし、はぐれたのなら夜に動く事にしていれば危険は少ないだろう。


 九郎は『ガイアベア』に全く餌と見られていなかったカクランティウスを思い出し苦笑を浮かべる。

 ある意味魔物に餌と見られないカクランティウスは、九郎のように寝ている間に運ばれたりしないのだから羨ましいとすら思ってしまう。


(ああ、でもカクさん犬に咥えられたりしねえのかな………………はふぅんっ!」

「わわわわっ!? 生きてたっ!?」


 くだらない事に想像の視野を広げていた時、股間に触れる何かの感触に九郎は思わず声を上げる。

 同時に驚いた様子の少女の声が足元から聞こえてきた。


 首だけ擡げて足元を見ると、小さな木の枝を持った娘が驚きを表したまま固まっている。その傍らには木桶があることから、水汲みにでも来たのだろうか。

 川縁に寝転んで空を見上げていたが、どうやら人里近くまで流されていたようだ。


「し、死体かと思ったからさ~……。ゴメンねぇ~」

「生きてるかどうかの確認にソコをつつくのはどうかと思う……」


 九郎の言葉に、照れ隠しなのか持っていた木の枝を背中に隠しながら、少女は乾いた笑い声を溢し視線を逸らす。

 フワフワとした長い茶色の巻き毛を汚れた布で纏めた若い娘だ。街娘と言うよりは村娘のような格好をしている。紫色のくりくりとした大きな瞳。人懐っこそうな笑顔には薄っすらとソバカスが浮いている。モジモジと組む両手には包帯が巻かれており、それだけが健康的そうな少女に不釣り合いな痛々しさを付随していた。

 しかしそれよりなにより特徴的な存在が彼女の魅力を声高に叫んでいた。


「べ、別にそんなつもりじゃなかったよ!? ホントだよ?」


 必死に取り繕うかのように娘はアワアワ両手を振って愛想笑いを浮かべている。

 だが九郎の耳に彼女の弁解の言葉は入って来ない。九郎の視線はある一点に吸い寄せられ、視神経だけにその全ての能力を傾けていた。


(すんげぇ……なんだ? このおぱ~い……スイカか!?)


 少女と思える若い娘の胸元には、存在を主張して止まない二つの果実がたわわに実っていた。

 質素な衣服で抑え込まれていても隠し切れない質量が、少女の手の動きにあわせてブルン、ブルンと跳ねている。まごう事なき巨乳……レイアの胸も大きかったが、それをさらにしのぐであろうはち切れんばかりの肉の存在に、九郎は思わず体を起こし唾を飲み込む。


「わわわわわわっ! 急に起き上がらないでよ!? 恥ずかしいじゃないか!」

「なんで起き上がったら恥ずかしいんだよ……いや……うん。トテモ恥ズカシイナ……」


 弁解の途中で体を起こした九郎に、両手で顔を覆って真っ赤になりながら抗議の言葉を口にする少女。

 起き上がっただけで恥ずかしいとは何事かと、言い返そうとした九郎は少女の指の隙間から覗く視線の先を見やり、慌てて股間を隠す。カクランティウスから借りていた上着は水に濡れ、あられもない様子ではだけていた。それだけでなく、少女の胸をガン見していた九郎のクロウは、長い間得られなかった視覚的興奮に何も出来はしないのに歓喜していた。九郎は、慌てて上着を腰に巻きなおす。


「ひょふんっ!」


 冷えて凍りかけていたカクランティウスの上着が、九郎の熱を奪って行く。

 九郎の口からは情けない声が零れる。まるでカクランティウスに自重しろとお咎めを受けた気分だ。同時に彼との数々の萎えるやり取りを思い出してしまい、九郎はブルリと体を震わせる。あれは葬り去りたい黒歴史だ。


「大変だ! 折角生きてたのにこのままだと風邪ひくどころか死んじゃうよ? 早く温かくしないと!」


 九郎が怖気で身を震わせた事を寒さの所為だと勘違いしたのか、両目を覆っていた娘が思い出したかのように慌てだす。

 

「いや……俺は風邪はひかない質で……」

「馬鹿な事言ってるんじゃないの! 真冬に水につかって生きているだけでも奇跡だよ!? ああ、なんでボクは生きてるって可能性を考えなかったんだ。早く家に帰って火に当たらなきゃ!」

「いや……だからさ? って何しようとしてんだっ!?」


 村娘の格好をした少女は九郎の言葉に耳を貸さず、それどころか自分の来ていた毛皮の上着を脱ぎだしていた。引っ掛かりが大きすぎる為に脱ぎ辛いのだろうか、捲り上げた上着の裾から押し出された南半球がフヨンと柔らかそうに零れ出る。

 アクゼリートの世界に来てからもう2年。そう言えばこの世界でブラジャーらしきものを見た覚えは無いなと、九郎は鼻の下を伸ばしたまま考える。


「ぐずぐずしてると本当に死んじゃうって! これ使って! 僕はすぐ火を起こして来るから! あの丘の上の家だから! 早く来るんだよ!?」


 娘はやっとという感じで上着を脱ぐと、それを九郎に放り投げる。下に着ていたのは木綿か麻のシャツだろうか。押さえつけられていた圧力を解放したそれは、さらに存在感を増して九郎を圧倒する。


 だが、九郎の蕩けた顔も見ていないのか、娘は丘を指さし矢継ぎ早に捲くしたてていた。

 指さした先には小さな家屋が見え、九郎がそれを目で追う暇も無く娘は足早に丘を駆けあがって行く。


「久々の女子との会話が噛みあってねえなぁ……」


 ポカンとした表情で娘の上着を抱えた九郎が、丘を登る後姿にポツリと呟く。

 その視線は、後姿であっても見えるという驚きの物体に釘付けされたままであった。


☠ ☠ ☠


「ほら、もっと火に近付かないと体が凍えちゃうよ?」


 なし崩し的に家に招待された形の九郎は、そのまま言われるがままに暖炉の正面を陣取り、家にあったであろうありったけの衣服に埋もれていた。

 もちろん凍える心配の無い九郎なので、問答無用で渡された上着を返す為、ついでにとばかりに娘が忘れていったのであろう木桶に水を汲み、のんびりとした足取りで家を訪ねたに過ぎない。

 だが九郎が戸を叩くと直ぐに顔を出した娘は、焦った様子のまま九郎を中へと招き入れた。


 助けられた感覚は無いものの、これほど心配してくれている女性の思いを無下にも出来ず、九郎は流されるままに彼女の家にお邪魔していた。決してその胸に目を奪われ、思考がほやけていただけでは無い。


(しっかし……不用心だなぁ……)


 九郎は眦を下げ、被さっている布の一枚を摘まむ。服も毛布もありったけを被せられた九郎の手には。Hの形の白い布が垂れ下がっている。これがこの世界の女性用の下着である。レミウスの城での一件、レイアに頬を張られた恥ずかしい記憶と共に、九郎はしっかりと覚えている。


「もう少しだけ待っててね? もうすぐ出来上がるからっ!」

「あ、おかまいなくぅ~」


 台所の釜戸で何かを温め直している娘は、薄着にエプロン姿で鍋を見つめている。

 お互い名前もまだ知らないのに、こんなに甲斐甲斐しくされては九郎の方が戸惑ってしまう。

 それでなくても、怪我の一つ、病気の一つもしていない状態。なんだか転んだだけで大げさに救急車を呼ばれてしまったような居た堪れない思いがして恐縮してしまう。

 そしてなにより尻の座りが悪いのは、彼女がこの家で一人暮らしだという事だ。

 ―――ボク以外に誰もいないから気兼ねしないで―――扉を潜ってまっさきに彼女が言った言葉に九郎は度胆を抜かれた。


(全裸に近い男を独り暮らしの家に上げるなんて……俺が紳士じゃ無くて狼だったらどうすんだよ……)


 決して自分は枯れた紳士では無いのだが……と強制的に牙を抜かれた狼の九郎はしきりにいきり立とうとしている息子を見やる。長らくご無沙汰だった女性の存在に、自分の中で抑えが利かない様子だ。例え相手が娼婦であろうとも手も足も出せずに潰される運命を知っていながら元気なものである。

 早々とお暇しないとまた無様を晒す事になると、九郎は肩を落としてため息を吐き出す。


(俺にはシルヴィがいるんだっ! ステイ! ハウスっ!)


 九郎が自分の息子をしつけていると、背中から娘の声がかかった。


「こんな物しかないけど……体は温まると思うから……」

「い、いや、まともな飯なんざ半月ぶりっすもん。ざっす! ゴチになりますっ!」


 ギクリと身を竦ませた九郎だったが、娘の持つ椀の存在に目を奪われる。

 今この時は、娘の胸の主張も飛び越え、椀の中に目が釘付けだ。

 言葉の通り、九郎は陸に上がってからまともな食事を食べてはいない。サクラ達との生活も含めれば、それこそ2年近く人の手の入った『料理』と言うものを口にしていない。

 娘がオズオズ差しだして来た椀を受け取り、深々と頭を下げると九郎は椀を覗き込む。

 湯気でけぶった椀の中には、雑穀を煮たものとジャガイモとは違う種類の芋類が入っている。


「まだ稗や粟がのこっていて良かったよ。遠慮なく食べてね? ほら!」


 背もたれのある椅子に逆向きに腰かけ、背当てに顎を乗せて娘はやっと落ち着きを取り戻したようだった。はにかむ笑顔の中に安堵の様子を浮かべ、ホウッと胸を撫で下ろしている。


「うっす! いっただっきま~す!!」


 促されるままに九郎は匙を口に運ぶ。粟や稗。日本でなら殆んど食べられることの無くなった雑穀だが、獣の骨でダシを取ったのか濃厚なスープに絡んだ雑炊は九郎の胃を優しく滑り落ちる。舌に染み込むように広がって行く『料理』の味に九郎は夢中になって匙を運ぶ。


「うめえ! なんだこれ!? なんだこれ!?」


 語彙が少ないからこの美味さを言葉にすることは難しい。ただ一心に九郎は匙を動かし、ひたすら「美味い」と感嘆の声を上げ続ける。


「も~、大げさだなぁ~。でも嬉しいよ。そこまで言ってくれると」


 娘は九郎の様子を眺めながら、ホヤンとした笑みを浮かべる。

 彼女はそのままニコニコと九郎の食事を眺めていた。 

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