第137話  食えない男


 ザァァァァァァァ……ザァァ……フフフ……ァァァァァ……ザァァァァァァァ……


「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」


 ザァァ……アマリオ……ァァ……ザァァァァ……イシクナイネァァァ……ザァァァァァァァ……


「嫌だ嫌だ嫌だぁぁぁぁぁ!!!!!」


 ザァァァァァァァ……ザァァァァァァァ……ザァァァァァァァ……


「わ、私はまだ死にたくは……!」


 ザァァァァァ……ザァァァ……アハハハ……ァァァァ……ザァァァァァァァ……

 ザァァァァァァァ……ザァァァァァァァ……ザァァァァァァァ……


 いつの間にか眼下・・に霧が立ち込めていた。

 水面下に満ちる・・・・・・・霧に混じって潮騒の音と子供の笑い声が響いている。

 そしてその中で逃げ惑う三人の森林族の姿。


「なんじゃぁ……これは……」


 見渡す限り何も無い、二人きりの状況だと思っていた。

 だがそうでは無い事をマグナルバ達が知らしめている。

 しかしシルヴィアの驚愕の声は彼らが居た事に対しての言葉では無い。

 彼らはシルヴィア達の真下、水面下で鏡の様に逆さまになった世界を逃げ惑っていた。

 声が届き姿が見えるのに、触れようと手を伸ばしても届かない。鏡の様な水面に手を伸ばした瞬間彼らは波と共に見えなくなってしまう。


 マグナルバ達の周りには白い霧が纏わりついていた。

 だが彼らに何が起こっているのかが分からない。


 ただ霧を嫌って、恐怖に顔を引きつらせながら踊っているだけにしか見えない。


「恐慌状態ってやつか?」


 彼らが何を恐れ、何に慄いているのかが分からない。

 だが潮騒の音に混じって、子供の声で不吉な響きが聞こえている。

 姿の見えない子供の声に恐れ逃げ惑う彼らだが、傷付いたり害されたりしている様には見えない。


(いまさら幽霊にビビってる訳じゃねえよなぁ……)


 まだ幽霊ゴーストの類は見た事が無いが、『|動く死体ゾンビ』や『魔動死体レブナント』、『竜牙兵ドラゴントゥース』と呼ばれるスケルトンはゲップが出るほど見てきた九郎だ。

 ここで子供の幽霊に出くわしても、驚きはするだろうがこれ程恐慌したりはしない気がする。強がりである。九郎は結構そう言う類は苦手である。

 だがマグナルバ達はその声だけの存在を大いに恐れ、逃げ惑っていた。


「シルヴィア! 早くこいつらをどうにかしろ!」

「親を見捨てるつもりなの!?」

「早く助けなさいよっ!!」


 マグナルバ達が口々にシルヴィアに助けを求めてくる。

 まさか足元にいるとは思ってもいない様子で、声だけが聞こえる事に苛立たしげに辺りを見渡し喚き立てている。

 ―――勝手に言ってろ……九郎がそう侮蔑の感情を表した時だった。


「――『深碧の旅団』アーシーズの眷属にして焔を遮る硬き壁よ! 留まれっ!!!

   『スクートゥム・ウェント』!!!」


 シルヴィアが矢継ぎ早に風の壁の魔法を唱えた。

 裏切られ、生贄にされたと言うのに助けるつもりかと九郎が眉を顰める。

 シルヴィアも思う事は山ほどありそうだが、助けを求める声に思わず体が動いた感じだ。

 どうも自分でも驚いたといった表情を浮かべている。


 だが水面下に逆さまに映る彼らの状況に何の変化も見られない。

 ただ水面を波打たせ、彼らの姿が一瞬ぼやけて掻き消えただけだ。


 ザァァァ……ウフフ……ザァァァァ……ザァァァ……アハハハ……ァァァァ……ザァァァァァァァ……


 水面が静かになると再び聞こえてくる潮騒と甲高い子供の声。

 魔法を唱えた声だけが聞こえたマグナルバ達は不思議そうに辺りを見渡し、その後さらに苛立ちを見せる。


「ちっとも役に立たないじゃないっ!」

「私は生贄じゃないわ! あの子達を食べればいいじゃない!」


 妙齢の二人の森林族の女性が、口々に叱咤する。

 まがりなりにも裏切られたと言うのに、助けようとしたシルヴィアに対して言う言葉では無いと、九郎が怒りを覗かせる。


「精霊よ! 生贄は3人で良い筈だ! この二人とシルヴィアとを足せばそれで充分であろう? だから私は関係ない」


 これは酷いと九郎とシルヴィアが顔を歪める。

 マグナルバは姿の見えないシルヴィアだけでなく、共に危機にさらされている二人の女性すらも犠牲をする事を躊躇ってすらいない。

 自分だけが生き延びれば他は関係ないとばかりに高らかに言い放つ彼の声色には、なんの後ろめたさも申し訳なさも含まれていない。

 他者を鑑みないこの里の森林族を如実に体現するマグナルバの言葉には、シルヴィアも言葉が出ない様子だ。


「族長の方が魔力が多いのだからあなたが犠牲になればいい!」

「私は無理やり手伝わされただけで関係無いわ!」

「貴様らっ! 里の長に対してなんてことを!」


 身の危険が迫っているのだと言うのに、お互いが自分だけは生き延びたいと、それ以外を犠牲にする事に何の躊躇いも持っていないのだろう。

 マグナルバの言葉を受けて、女性達も口々に虚空に向かって命乞いを始める。

 お互いが犠牲になろうと体を張った九郎やシルヴィアとは、対極に位置するマグナルバ達の訴え。その自身の命だけを望む純粋な生への渇望は、白い霧精霊の何の琴線にも触れえなかった様だ。


 ザァァァ……ウフフ……ザァァァァ……アハハハ……アハハハハァァァァ……


 宙を舞い踊る白い霧は、子供の笑い声を振り撒きながら森林族の女性の一人へと纏わりついた。


「いやぁぁぁぁ、こないでぇぇぇぇぇ! こないでぇぇぇぇぇぇ!!!」


 霧の帯に弄ばれるように、彼女は踊り狂う。

 顔を手で覆い、あちらにこちらに逃げ惑うその姿は盆踊りを想像させる。白い霧が一瞬蛇の様に色濃くなったかと思うと彼女をすり抜ける。

 細い煙が通過する毎に、森林族の女性が悲鳴を上げる。


「エフリー!!!」


 その姿にシルヴィアの口から彼女の名前が叫ばれる。

 何が起きているのか――その答えはすぐに分かった。


「いやぁ…………」


 いつの間にか、エフリーと呼ばれた森林族の女性の体が穴だらけに削られていた。

 顔の半分は削り取られ、体も大小の穴があちこちに開いている。

 荒野を彷徨っていた時の九郎のように、立っている事すら信じられない状態で彼女は逃げ惑っていた。


 ザァァァァァァァ…………アハハハ……ザァァァァ……ザァァァァァァァ……


 潮騒の音が鳴る度に彼女の体は削られていく。

 まるで小魚が餌を啄ばむように、白い霧の蛇が彼女の体を小さくしていく。

 血の一滴も流さず、痛みも感じていない様子だが、自分の体が失われていく恐怖は正気で見ていられる物では無い。

 既に両腕は失われ、何で顔を覆っているのか表情だけがそれを語り、無くなった足でどうして立っていられるのか、浮いた胴体だけが示している。


「ひぃぃぃぃぃぃぃぃ……」

「ロイツっ!!」


 エフリーの顔に白い靄が当たり、彼女の存在そのものが掻き消えた次の瞬間、今度は別の女性が悲鳴を上げる。

 呆然と立ち竦むシルヴィアの視線の先には、両手を見下ろし恐怖に身を強張らせている女性の姿がある。


 彼女はひび割れていた。 

 見下ろす両手は灰色に染まり、驚愕に染まる顔は徐々に焼け焦げたかのように黒ずんでいる。


 ザァァァァァ……ザァァ……フフフ……ァァァァァ……ザァァァァァァァ……


 霧では無く、シャボン玉のような泡が彼女に取り付いては離れていた。

 泡が取り付いた場所は、最初は色を失い、次に黒く変色し、最後にひび割れ崩れて行く。


 シルヴィアが何かを叫んで手を伸ばしたその先で、ロイツと呼ばれた女性は音も無く無残に崩れて行った。


「なぜ私がっ! 私が何をしたと言うのだ! 蛇よ! 神の御使いである蛇よ! 全てを飲み込む暴虐の徒よ! 呼び出しに答えたと言うのにその私を喰らうなど、有って良い筈が無い! どうかその胃に収めたシルヴィアを喰らい、その怒りを鎮めてもらえぬだろうか!」


 マグナルバが天を見上げて祈るように両手を組む。

 いっそ感心してしまう程自分勝手な言い分だが、他者の命など歯牙にもかけないマグナルバには当然のセリフなのだろう。

 その顔に後ろめたさの一欠けらも含まれてはおらず、なぜ自分がという不条理に対する抗議の声を祈りのポーズで言う様はある種清々しさすら感じてしまう。


 ―――――ボクタチハオコッテナンカナイヨ? ――――――――


 甲高い子供の声が九郎達の足元――マグナルバの見上げた空から降って来た。


「ならばシルヴィアを生贄に―――――――――」


 神の御使いが返事を返した事にマグナルバは喜色を浮かべて空を仰ぎ――その次の言葉を紡ぐことが出来なかった。

 天を見上げたマグナルバに雲も無いのに雨が降り注ぎ始めたから――では無い。


「ヴォォォォォオオオッヴェァァァアアアアッ!!!」


 彼自身の悲鳴によってだ。


(最初は俺も驚いたよなぁ……)


 悲鳴を上げるマグナルバを睨み、九郎はどこか感慨深げに思う。

 マグナルバは溶けて骨だけになった腕を見上げ、驚愕の悲鳴を叫んでいた。

 雨が触れる度に肉が溶けおち、白い骨が覗く。

 くぐもった悲鳴は既に顔面が溶け落ち崩れているからだろう。

 天を仰いだ所為で腕が肉を失う様を恐怖とともに見る事になったのだろう。

 だが助命への嘆願を口にしようとしたその顔も同時に崩れているなどとは、彼自身考えてもいなかったのかも知れない。

 自分が骨だけになってしまう姿などそう見覚えのある物では無い。

 溶かされた経験が数多く有る九郎だからこそ、冷静に見ていられるものだろう。


 ―――キミガ言ッタジャナイカ。僕ハ全テヲ飲ミ込ムモノダッテ――――


 無邪気とすら思えるその声が響いた瞬間、水面下の世界が青い空だけを残して静けさを取り戻す。

 マグナルバの最期、骨すら跡形も無く溶かされ眼下の世界が元に戻る。

 彼らの最期を見届け、見えない敵の攻撃にどう対処するかを考えていた九郎の傍でバシャンと音が上がった。


「シルヴィ!?」


 見るとシルヴィアが糸が切れた人形のようにその場にへたり込んでいた。

 つい先程見せた輝くほどの笑顔は見る影も無く絶望にとって代わっている。

 生き延びようと誓い、先の未来を画いた希望は瞬く間に崩れ落ちたかのようだ。


「コルル坊……やはり……先の返事を聞かせて欲しいんじゃが……」


 座り込んだまま九郎のズボンの裾を掴み、涙を浮かべたシルヴィアがポツリと溢す。

 希望を抱いた次の瞬間、絶望にとってかわられた心の中を映すかのような引きつった笑み。

 後でと約束したはずの告白の返事を尋ねる彼女は、抱いた未来を諦めたのだろうか。

 

 ザァァァ……フフフ……ァ……アハハハ……ザァァァ……アハハハ……ァァァ……


 シルヴィアが怯えたように肩を竦ませる。

 いつの間にかこちらの世界――九郎達のいる世界に霧が立ち込め始めていた。


「約束しただろ!? 無事に帰って夕陽の見える場所でカッコ良く! ロマンチックに! すうぃ~とにきめてやんよ!」


 九郎がシルヴィアを抱き寄せ、霧を睨んだまま言い放つ。

 すでに答えの半分ほどは出てしまっているが、この状況を切り抜ける事に頭を回し始めた九郎はその事に気付いてはいない。


(……って、先の約束をするのも死亡フラグだっけか? 関係ねえ! そんなもん!!)


 頭に過った不安をかき消すかのように九郎は頭を振る。

 自分に『死亡フラグ』など存在しない。

 どんな約束だろうと口にしたからには必ず叶えて見せると、守るようにシルヴィアを抱きしめる。


「…………」


 シルヴィアが九郎を見上げてそっと腰に手を回した。

 何かを言おうとして、それが不吉の影と成る事を恐れたかのように言葉に出来ずに言い淀む。

 そんな感情の澱みを振り払う九郎の啖呵が静かな世界に響き渡る。


「俺を飲み込んだことを後悔させてやる! 腹痛でのたうちまわらせてやる! 消化不良にゃ自信があんだ!!」


 虚空に向かって中指を立てた九郎の耳に、潮騒の音と子供の笑い声が大きく響いていた。


☠ ☠ ☠


「うらっ! チクショウッ! ブルァァァァッ! せいやっ!!」

「もうええっ! もう止めておくれっ! コルル坊!」


 バシャバシャと音を立てる水音に混じって九郎の咆哮と、シルヴィアの悲鳴が響き渡る。


 ザァァァァ……ザァァァ……アハハハ……ァァァァ……ザァァァァァァァ……

 ザァァァァァァ……ザァァァァァァァ……ザァァァァァァァ……


 何も無い青い空と何処までも続く水平線の世界で、九郎を嘲るように子供の笑い声がそれに重なる。


 先程マグナルバ達を惨たらしい姿に変えた霧が九郎とシルヴィアを取り囲んでいた。

 九郎はシルヴィアに寄って来る白い霧を振り払おうと、遮二無に腕を振る続けている。

 しかし霧と言う何の実体も無いものに対して九郎の奮闘はまるで効果が見られない。

 少しばかりの風圧で霧が巻き上がりシルヴィアに集る霧を遠ざけるだけ、ただそれだけだ。

 だが霧に自ら突っ込んでいる九郎の身は、霧に触れる度に崩れ落ち、穴が開き、溶け落ちて行く。


(『再生』は出来るんだっ! 大丈夫! まだやれる!)


 溶け落ちた腕が、穴の開いた肩が、崩れ落ちた指先が瞬時に赤い光を纏い元の姿に戻って行く。

 光すら削り取る『修復』の力を使おうとしても、消えた肉体は赤い粒子と繋がりを見せない。

 『不死』さえ滅ぼす神の力。

 その意味を目の当たりにして、九郎の背中に冷たい汗が流れる。

 

「おらっ!! 『垂涎オブジェクトオブエンヴィー』!!!」


 九郎が体を数千度の蒸気に『変質』させ水面を叩く。

 驚異的な温度差によって立ち昇った湯気が、辺りに立ち込めていた霧を一瞬で吹き飛ばす。


「これならっ……」


 そう言いかけた九郎は凍った様に言葉を失う。

 吹き飛ばした筈の霧が次の瞬間再び立ち込め始めている。


「がっ!?」


 一瞬呆けた九郎の視界に影が差す。


「コルル坊っ!」


 シルヴィアが悲鳴を上げて、魔法を解き放つ。

 ドーム状に風の嵐が巻き上がり、足元の水すら吹き飛ばす。


「こいつら魔力を喰いやがんだろっ!? 無茶すんじゃねえっ!!」


 九郎が慌ててシルヴィアを探す。

 この霧に一番抵抗出来るのはシルヴィアの風の魔法だ。

 だがシルヴィアが魔法を使う度に普段以上に疲労して行く事に九郎は気が付いていた。九郎がシルヴィアだけを守ろうと常に気をかけていたおかげだろう。

 問いただす必要も無いくらい、シルヴィアは魔法を使う度に衰弱していた。

 それにいつもなら長い時間そこに留まる筈の風の壁が、崩れる様に掻き消えてしまう事からもこの霧に触れると魔力を奪われるで有ろう事は想像に難く無い。


 そしてそれを裏付ける一番の理由は九郎の体の損傷だ。

 ある程度の時間逃げ惑うだけだったマグナルバ達と違い、九郎は霧に触れると即座に体が崩れ落ちてしまう。

 魔力がゼロと言われている九郎だからこそ、触れた瞬間体が失われてしまうのだろう。


「しかし……お主の方こそ大丈夫かえ!?」

「グロイのは見なかった事にしてくれっとありがてえんだが……。やっぱ気持ち悪いよな……」


 削り取られた右目を『再生』させながら九郎が眉を下げる。


 つい先程愛の告白を聞いたばかりの相手に見せたい姿では無い。

 直ぐに『再生』するとは言え、片目の抜け落ちた人の姿など精神的にも強烈だろう。

 この姿では百年の恋も冷めるだろうと、九郎は消沈した面持ちでシルヴィアを伺い見る。


「ほ、惚れた男を気持ち悪いなど思う訳があるかっ! この馬鹿垂れっ! 大丈夫かと聞いとるんじゃ!」

「お、おう……別に痛くも痒くもねえ!」


 ところがシルヴィアは怒りを滲ませ返して来た。半眼で呆れを見せてはいるが九郎を恐れている様子は無い。百年以上冒険者として暮らしてきたシルヴィアは、『不死アンデッド』にも慣れているのだろうかと九郎は胸を撫で下ろす。

 同時にはっきりと惚れた男と言うフレーズを聞いた九郎は、がぜんやる気を奮い立たせる。


 ――――オマエ……マズイ……。砂ミタイ……―――――


 一瞬ピンクな空気を醸し出した九郎に空から声が降って来た。


「マズイって酷えなっ!! チクショウッ!!! なんなら吐き出しやがれっ!!!」


 酷く辛辣な感想に九郎は眉を吊り上げる。

 美味いからと襲い掛かってこられないだけマシなのだが、それでも砂の様だとは酷い言いようだ。

 自分の肉を食べて生き延びたベルフラムの感想は聞けてはいないが、そこまで酷い味では無いと信じたい。


「俺を喰らい尽くすまでシルヴィには指一本触れさせねえぞっ! コンチクショウ!」


 しかし今はその声が微かな希望と映る。

 自分を喰らう事を厭う素振りを見せた声に、出口の見えないこの世界からの脱出の糸口にならないかと考える。


「神と同義の存在にも食えん男と思われちょる様じゃな……」

「上手くねえよ!? 何上手い事言った見たいな顔してんだよ!?」


 シルヴィアも振って来る声の微かな機微を感じたのだろう。

 全てを喰らい尽くす蛇と呼ばれる川の化身が、食べる事を嫌がる存在と言う規格外の九郎に少し得意気に顔をあげている。

 何度も絶望と希望を渡り歩いてきた所為なのか、シルヴィアは吹っ切れた様子が見える。


 ――オマエマズイ! 横ノ女ヲ差シ出セバ見逃シテヤル。ソッチハウマソウダ――


 しかし次に振って来た言葉はシルヴィアを大いに動揺させた。

 二人とも生還の目は無いと吹っ切れていた心が、再び愛する者の命に揺れ動く。

 いや、揺れすらしなかったと言って良いだろう。


「ならばその申し出を受け―――モガ」


 迷うことなくその身を差し出そうとしたシルヴィアの口が、九郎の手によって遮られる。


「馬鹿言ってんじゃねえぞ! コラッ! シルヴィは俺のもんだ! 一欠けらだってくれてやるかよ! こんな美味そうな体、テメエみてえなマセガキが食おうなんざ10年早えんだよっ! ちゃんと剥けてから来やがれってんだ!」


 間違いなくそんな意味で言った言葉では無いのだろうが、九郎はあえて挑発し罵倒する。

 ここで九郎だけが追い出されるような事態だけは避けなければならない。

 そんな事が出来るとは思ってもいなかったが、別の世界に映されていたマグナルバ達の事を考えるとその可能性も十分にあり得たのだと、顔を青くしてシルヴィアに抱きつく。


 ――――ソノ女ヲ手放セ! 不味イモノヨ――――


「そうじゃ! 儂を離さんかっ! これっ! 何処を触っとるんじゃ!?」

「嫌だっ! ぜってえ離さねえぞっ! 好き嫌いしてんじゃねえっ! このマセガキがっ!」

「今マセた事をしとるんはお主じゃろうが!? ちょっ! やめ……」


 形振り構わずシルヴィアを抱きすくめる九郎と、そこから抜け出そうとするシルヴィア。

 それを咎めようとする子供の声と言うおかしな状況が出来つつあった。


 ――――嫌ダ! オマエハ食ベタクナイ!――――

 

「そんな事言うなよっ! 最初は誰だってそう言うんだ! 俺も最初はそうだったぜぇ? 最初は何だって痛かったり苦かったりするもんだぜ。何ビビってんだよ!? ばっちこいやぁぁぁぁ!!」

「こ、コルル坊やぁ!?? 何言っておるんじゃっ!?」


 話しもおかしな方向に向かいはじめた時、空気が震えるような声が鳴り響く。


 ――モウイイ! フタツ一緒ニ食ベチャエバ味モマシニナルハズダ!! ――


 癇癪を起したように苛立ちを爆発させた子供の声が降り注ぐ。

 思わず耳を抑えた九郎とシルヴィアの周りから霧が掻き消える。


「ほれ……思った通りじゃ……。阿呆じゃ阿呆じゃと思っちょったが……。お主は本当に阿呆じゃのぅ……」


 シルヴィアがしみじみと感慨に耽る。


「んな阿呆、阿呆言うなよ……。俺はシルヴィだけは守りきるって自分に誓ったんだからよ……」


 視界が霞むほど立ち込めていた霧が消えた事で助かった訳では無い事は、先の言葉からも薄々感づいていたが、まさかこんな事態になるとは思っていなかったと九郎が苦渋の表情で彼方を見つめる。


 霧が消えたかと思った瞬間、彼方に巨大な壁が出来ていた。

 まだ遠くに見えると言うのに恐ろしい高さだという事が分かる、その巨大で白い壁が地響きを立てて動いている。

 天まで付くような大津波。

 それが地響きとともに彼方から迫っていた。


☠ ☠ ☠


「まあ、あれは流石にどうしようもないのぅ……。泳げんっちゅう事じゃ無いぞ? あれに触れたら儂も一瞬で消え失せる……。それほどの脅威じゃという事じゃ……」


 逃げ場のない状態で迫る大津波を見上げて、シルヴィアは苦笑を浮かべる。

 密度の無い霧ですらあの脅威だったのだ。それが質量を持って迫っている状態でどう抗えば良いのか。

 それも世界そのものとでも言う様な膨大な質量ならもう笑う他無いと肩を竦める。


「仕方ないの……。お主は自分の命よりも儂を選んだ大たわけじゃ……が、まあ女冥利に尽きるかの?」


 シルヴィアが呆然と佇む九郎の腕を胸に抱きすくめる。

 背中で九郎の体温を感じ、その心臓の音を肌で感じて慰める様に優しく語りかける。


 九郎は彼方を見つめ、ガタガタと震えていた。

 流石の『不死』もあれにはどうしようもないと悟ったのだろう。

 強気に構えて挑発を見せていたのが嘘のように震えている。


「儂は怖くはありゃせんよ? コルル坊……。お主が一緒じゃからのぅ……」


 こんな逃げ場のない死が迫っていると言うのに、シルヴィアの気持ちは何処か晴れやかだ。

 命を懸けてと言葉にする者は数多くいるが、本当に命を懸けれる者は少ない。

 それが『不死』からの言葉だろうと、九郎は本当に自分を見捨てなかった。

 親とも思える人々に生贄にされ、愛した仲間たちと死に別れた経験を持つシルヴィアにとって、九郎は最期の瞬間まで自分の傍に居る事を選んでくれたのだ。


「シルヴィ……俺……」


 迫りくる大津波を恐れを以って見上げていた九郎が、何かを言いかけ口ごもる。

 その言葉を遮るようにシルヴィアが唇を重ねる。

 この状況になって九郎が何を言おうとしたのか……。

 少しだけ不安になったのだ。彼が後悔を口にしてしまうのではないかと……。


「コルル坊……。儂はの? 愛する誰かに看取って貰いたかったんじゃ……」


 一瞬重なった唇に驚いた表情を浮かべた九郎に、シルヴィアははにかみながら告げる。

 別れの寂しさを恐れたシルヴィアが求めていた悲しい望み。

 マグナルバ達を自分勝手だと断じれない、シルヴィアの自分勝手な思い。

 寂しさを感じたくないから、他者にその寂しさを味あわせてしまう事から目を瞑っていた。

 自ら体を危険に晒す九郎と同様、自分も死にたがっていたのかもとシルヴィアは内心を鑑みる。

 自分が先に逝けばその悲しさから、寂しさから逃れられると思っていた。


「じゃが儂は今幸せじゃぁ……。黄泉路を前にこんな思いを抱くとはのぅ……。巻き込んでしもうたお主には悪い――――」


 共に死地を歩む事になった九郎を見上げシルヴィアが言いかけた言葉は、今度は九郎の唇で塞がれる事になった。


(じ、自分からするのは覚悟が出来ちょったが!? 不意にされると恥ずかしいのぅ……)


 一瞬目を見開いたシルヴィアは、心の中で羞恥に身を竦めながらも九郎の唇に答える様に首に手を回す。

 死を共に歩む……そんな者が愛した者だった事に幸せを感じているのは確かな事だ。

 ある種の狂気とも思えるこの感情は、この場所、この状態でしか持ちえなかった愛情だろう。

 しかし本心からの言葉。

 唇を重ねながらシルヴィアは愛おしげに九郎の背中を叩く。

 九郎の震えは未だに収まってはいない。

 シルヴィアは子供をあやすように優しく九郎の背中を叩く。


「俺に……シルヴィの…………を…………ねえか……」


 不意に唇を離した九郎が真剣な目で言って来た。


「へ? え? ええっ!?」


 唐突に言い放たれた言葉を理解出来ずにシルヴィアが狼狽える。

 今何と言ったのかと尋ね返そうとしたシルヴィアの顔が見る見る赤く染まる。

 耳の端で捕えていた言葉を、聞き返す事が恥ずかしかったからだ。

 これ程近くで呟かれた言葉を聞き逃す筈が無い。


「え……ええよ……。その……時間はそれ程残っとりゃせんじゃろうが……。コルル坊が望むなら……」


 恥ずかしそうに顔を赤らめ、シルヴィアは九郎を見つめる。

 熱に浮かされたように熱い視線に心が跳ね上がるのを感じる。


(命の危機の際にはそのぅ……高ぶるもんじゃとは聞いておったが……本当じゃったの……)


 シルヴィアが胸元の紐を解きながらも、一人身悶える。

 耳に届いた言葉。それを望んだ九郎に全てを捧げようと……。

 羞恥と期待の入り混じった表情で、シルヴィアは小首を傾げて、とっておきを口にする。

 まさかこの様な状況で言うとは思ってもいなかった。

 シャルルに心の中で、離別の言葉と感謝を想い抱きながら―――。


「さささ、さあ……めめめ、召し上がれ―――――?」


 精一杯可愛く両手を広げたシルヴィアの顔に、熱く赤い液体が降り注いだ。

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