第128話 ベージュの尻尾
日差しの照り返しで朝の訪れを知ったゲルムが僅かに眼を細める。
巨大な『世界樹』の麓にある森林族の里フィオレ。日の光等射す筈も無いと思われがちだが、『世界樹』の麓は存外光に満ちている。
『世界樹』の巨大な葉に溜まった朝露が光を屈折させて地上にまで射し込むからだ。
外の大地よりも数段低い場所だと言うのに、植物が青々と茂っているのは『世界樹』が拡散した太陽の光を穴の中全てに満たしているからに他ならない。
「急がなくっちゃ……」
肩に背負った荷物の重さを確かめると、ゲルムは足を踏み出す。
今、故郷は滅びに向かっている。
そう確信した森林族の少女ゲルムは、何度訴えても対策すら講じない大人たちに見切りを付け、里を逃げ出そうとしていた。
生まれてからまだ80年しかたっていない、里で一番幼いゲルムは自分の人生をここで終えるつもりは無い。
まだ生きる意味すら見つけられない内に、自分が死ぬなど考えたくも無い。
――『死』に対する恐怖がゲルムの足を動かしていた。
(大人は全然分かって無いよ……)
里の大人たちは誰一人自分が死んでしまうとは思っていない。
3年前に青色の服を着た人族が洪水を巻き起こし、里の者達も少なくない数か死んだと言うのに、それが自分だったかもとは思いもしていない。
長年何も考えずにでも生きて来れたが為に、自分の命が失われる想像も、どうにかしなければと言う焦燥も忘れてしまったかのようだ。
―――『死』の匂い―――
森林族の多くは『死』と言うものが離れすぎているからこそ、異質なその匂いを嗅ぎ分けると言う。
だからこそ、大人たちは
『死』とは時間をかけゆっくりと、鑢をかけるが如くゆっくりと近づいて来るもの――そう思っているようだ。
だが森林族最年少であるゲルムにはまだ『死』の匂いは分からない。
ゲルムの頭の中では、三年前の洪水で目の前で沈んで行った細い手だけが、『死』の象徴として残っていた。
(だけど……どうしたらいいの?)
里を逃げ出す決意を固めたゲルムだったが、所詮は外の世界を見たことも無い森林族最年少の幼子だ。
『精霊の道』が途絶えたまま、どうすれば外の世界に行けるのかまでは考えていなかった。
そもそも里の外すら見た事の無かったゲルムにとって、里の外、『世界樹の加護』が及ばない『水の魔境』がこれ程危険な場所だとは思っても見なかった。
森林族は息を押し殺せば木々と変わらぬ気配となる。
だが息をしないままに森を抜ける事等叶わない事を、ゲルムは自分の『死』の匂いと共に知る事になる。
「どっちみち変わんなかったね……これじゃぁ……」
目の前を塞ぐ見上げるばかりの巨大な『スライム』にゲルムは溜息を吐き出す。
太陽の光を屈折させた巨大な透明の物体は、木々も魔物もお構いなしに取り込んでは溶かしている。
まだ一日と外を堪能していないのにと、自分の運命を悔やみながら、逃れられない『死』の匂いに顔を顰める。
「これが『死』よ! 族長だって
せめてもの強がりに天を見上げ、震える腕で弓を構える。
何もせずに受け入れるだけでは、里で狼狽えていた大人たちと同じではないか。
そういった侮蔑の感情がゲルムの腕を動かす。
『スライム』に何の痛痒も与えられないであろうが、せめても虚勢にと見上げたその目に奇妙な物体が映る。
最初目にした時には理解できなかったが、巨大な透明の『スライム』の上に太い木の枝が乗っかっている。
葉の殆んどを失い、枝もほぼ断ち切られた丸太の様な物に、肌色のコブの様な物がぶら下がっている。
木からぶら下がったその肌色のコブは蟷螂の巣の様な、蝶の蛹の様な形だった。
思わず目を瞠ったゲルムは、その不思議な物体の中心で揺れている枝の様な物を見つけ、
「尻尾?」
何かの動物だろうかと疑問を口にした。
ゲルムが思わず口をついた言葉と同時に、けたたましい少女の声が重なる。
「きゃぁぁっ! クロウ君ストップ! ストップ! 子供がいるわ~っ!!!」
「おい止まれっ! やばいっ! クロウっ! とっととこいつを蒸発させろっ!!」
「そこの童っ! 早う逃げるんじゃっ!」
次々とその声に重なる慌てた男女の声。
同時に目の前の巨大な『スライム』が白く変色する。
小さな泡粒により白く見えたのだとゲルムが理解した瞬間、巨大な『スライム』が見る見る萎んで行く。
「アチッアチッ! 蒸気がっ!!」
「うるせえっ! だから言ったんだよ俺はっ! 麓まで
「すまねえっ! あんまりすることねえからウトウトしちまったんだ!!」
白く煙った霞の中からガヤガヤと人の声が響いてくる。
「すまぬのぅ童や……。怪我はしとらんかえ?」
ポカンと口を開けたまま呆気に取られていたゲルムの目の前に、若い森林族が降りたつ。
見るからにまだ若そうな森林族の少女は、その瞳に心配と申し訳なさを含んで腰を屈める。
何故この森林族の少女がここにいるのか、どうしてそんな申し訳なさそうな表情をしているのか。
自らの『死』の匂いが消え失せた事も相まって、ゲルムは二度程目を屡叩かせる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……俺は露出狂じゃねえよぅ……。みんなファルアが悪いんだっ! この男が無理やり俺を裸にっ! シルヴィ達の安全を盾に嫌がる俺をっ……」
「誤解を招くような言い方をするんじゃねえっ!!」
「大丈夫よ~? 見慣れれば結構可愛く成って来るから~」
「シャルル……可愛いはこの場合傷を抉る言葉だ……」
「お、おうっ! クロウ! 心配すんな! け、結構立派な部類に入ると思うぜ?」
目を瞬かせるゲルムの前に、三人の男女と慌てた様子で下着を履こうとしている男の尻が映る。
旅装束の森林族の娘と皮鎧を着た赤髪の人族の男。そして樽の様な腹を金属鎧で覆った鉱山族の男と、その後ろに隠れるようにしてズボンに足を通している背の高い男……。
「童はどこから来たんかえ? 迷っとるようには見えんが……狩りの途中じゃろうか?」
子供に問いかける様に最初の森林族の娘が首を傾げる。
だがゲルムの頭が事態の状況に着いていけていない。
死ぬと思った瞬間、目に映った奇妙なモノ。そして現れる5人の男女。
やっと襲って来た安堵の思いが、混ぜこぜになったゲルムの頭を混乱させていく。
「…………尻尾?」
やっとの事で口を突いた言葉は先程のセリフの繰り返しだったのだが、目の前の森林族の娘はその言葉に苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
☠ ☠ ☠
「こ、これ程早く到着されるとは思ってもいなかったので……フィオレの里の巫女見習いのゲルムです。要請に応じて頂きまして感謝いたします……」
「フィオレの里の元巫女、シャルルよ~。何やら火急の用があるからと手紙に書いてあったけど、何があったの~?」
ゲルムと名乗った森林族の幼女にシャルルが屈んで微笑む。
故郷の里まであと半日の距離に差し掛かった辺りで出会ったゲルムは、迎えに出向いたとそう答えていた。
迎えにしては荷物が多い様な気もするが、もしかしたら『水の魔境』の入り口まで迎えに来るつもりだったのかと納得しておく。
「そ、それは……族長に聞いて頂ければ……」
手紙の内容からは至急里に戻るようにとの知らせだけで、肝心な内容が書かれていなかったが、何やら事情が有りそうだとシャルルは考え込む様に空を見上げる。
基本森林族は外へ出た者達に対しては冷たい態度を取る事が多い。
一度里の垣根を越えた者達はもう同郷の者としてでは無く、ただの森林族として見るのだ。
なので手紙が来たと言うだけで何かのっぴきならない事情があるのではと、シャルルが道中を急いだ理由でもある。
迎えに出向いたと言う少女の言葉からも、待ち続ける事も出来ない程急を要していたのかと考える。
シャルルは少し強張った表情で隣を歩いているゲルムをチラリと見やる。
歳は70~80程であろうか。
薄青色の長い髪を腰まで伸ばした華奢な少女だ。
森林族の成長速度から考えると少し背が低い程度、120h(ハイン)位だろうか。
(巫女見習い……この歳で見習いだなんてずいぶん今はのんびりしているのね……)
森林族は40歳を迎えると共に一度男なら狩人、女なら巫女の手解きを受ける。
大概は10年もしないうちに一人前として見習いからは外れる筈だ。
里で年齢の近かったシルヴィアなどは、狩人も巫女も同時に習いどちらも5年で大人顔負けの腕になっていた。
目につく知識を貪るように求め、成長する事を止めないシルヴィアは、今や族長よりも魔力も弓の腕も上だろう。
それに対してゲルムと名乗った少女は明らかに成長が遅れているように見えた。
「お主……弓の握りが減っとらんのぅ……。もっと練習せんといかんぞ?」
シルヴィアも同じことを感じたのか、ゲルムの背負っている弓の持ち手が擦り切れていない事に年長者としての苦言を呈す。
初対面ではいささか無礼な振る舞いかも知れないが、同じ里の者と分かればゲルムもシルヴィア達の妹の様なものだ。後進の育成を半ば趣味としているシルヴィアにとっては見逃せなかったのだろう。
「シ、シルヴィア様……でよろしかったでしょうか……? 何分私は弓を握ったのは3年前でして……」
「そげに畏まらんでもええんじゃよ? 儂とてまだ成人もしとらん若輩じゃしのぅ……」
好々婆の様な笑みを浮かべてシルヴィアは笑う。
確かにシルヴィアは森林族の年齢から言えば200に届かない少女だが、巫女見習いの彼女からしたら忘我の彼方程の実力の差があるかもしれない。
100年の間ずっと冒険者として暮らしてきたシルヴィアの力量は、シャルルでも想像もつかない。
シャルルは里を飛び出してから冒険者としては5年も過ごしていない。
それよりも子育てや素材屋の店員として過ごして来た方が遥かに長い。
今も護衛を雇わなければこの『水の魔境』の入り口にすら辿り着けなかっただろうと、苦笑を浮かべる。
「所でシャルル様。後ろの御仁は?」
初めて会う姉達との会話の空気に戸惑い、ゲルムがちらりと後ろを見やる。
先頭を歩くシルヴィアとその後ろで並んで歩くシャルルとゲルム。その後方でヤイノヤイノと騒いでいる三人の男の存在が気にかかる様子だ。
どう見ても森林族で無い男達に、ゲルムは不安げにシャルルを見上げる。
「ああ、あの人たちはシルヴィと同じで私が護衛に雇った冒険者よ~。赤い髪の悪人顔がファルア、太っちょがガランガルンで、ゲルムが言ってた尻尾持ちがクロウよ~」
何やら言い争いをしていた男たちがシャルルの言葉に視線を返す。
「シャルル! 紹介の仕方に毒があんぞ!?」
「誰が太っちょだ!? 俺のは頑強と言うんだよっ!!」
「シャルルが酷ぇっ! 俺は見せたくて見せた訳じゃねえんだっ! ……これもファルアやガランがっ! ちくせうっ! 俺の尊厳をかえせぇぇぇぇ!!!」
「おいよせ『
「落ち着け『変質者』っ!!」
再び言い争いを始めた男達に楽しげな視線を投げかけるシャルルに、ゲルムが首を傾げる。
「あの……。人族と鉱山族と獣人族でしょうか…」
「ぶふっ!!」
ゲルムとしては森林族以外を里に案内しても良いのだろうかと危惧したのだが、シャルルはどう取り違えたのかゲルムの言葉に肩を震わせ視線を反らす。
「ゲルムと言ったかの? あの真ん中の太いのが鉱山族で残りは人族じゃよ?」
「でもっ! 人族に尻尾は……」
シルヴィアが少し言い辛そうに顔を伏せる。
返すゲルムの言葉にシルヴィアはボフンと顔を赤くして空を仰ぐ。
素直な疑問を尋ねているように見えるが、シルヴィアにその説明をさせるのは些か敷居が高すぎるとシャルルは苦笑を浮かべる。
自分も悪乗りして九郎を紹介した手前、やはり自分が説明するのが筋だろう。
「お、男の人は皆前に尻尾を持ってるのよ~?」
言ったシャルルも自分の言葉に顔が赤らむのを抑えられてはいなかった。
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