第127話  浮いた話


 澄んだ空気と言うものが目に見えるかのように神聖な雰囲気を漂わせた祭壇。

 苔むした石壁には無数の木の根が顔を出し、岩を割り模様を描いている。

 木漏れ日が差し込み暖かな光に満ちているというのに、漂う空気は少し肌寒い。


「シャルルに手紙は届いたのか?」


 祭壇の最上段に佇む男が階下に控える小女に問う。

 幼子と言っても良い程の小さな少女はうんざりとした気持ちでその言葉を聞く。


「先程鳥が戻りまして、手紙からは10日前に此方に向かって旅立ったとの事です……」


 俯き項垂れたまま、少女が答える。


「ではもう到着している筈ではないか!? 何故こちらにその知らせが届いておらぬのだ!?」


 男の苛立った声に少女は俯いたまま小さく溜息を吐き出す。

 ――何故今になってから慌てるのか――。

 いっそ叫び出したい気持ちを押し殺し、女は重々しく口を開く。


「いえっ! なにぶん『精霊の道』が途絶えておりますので、まだ後20日はかかるかと……」

「なんだとっ!? それでは間に合わぬのではないか?」


『精霊の道』が綻びた知らせ等3年前に伝えている筈だ。

 なのにこの男はそれすら忘れているのだろうか。

 再度吐き出した息に呆れの思いが混ざる。

 仕方ない――そう言ってしまえばそれまでなのだが、今迄暢気に構えておきながら直前になって慌てると言うのは組織の長としてどうなのだろうか。

 それも仕方の無い事だ……。

 床を見つめる少女の目に諦めの光が陰る。


 悠久の時を生きるが故に、ここに住む者達はすべからく時間に対しての認識が緩い。

 それこそ一年の時間が外の世界の半月にも満たない感覚なのだから。

 しかも景色も移ろわず年中ぬるま湯に浸かったような生活の中では、急ぐと言うことすら忘れてしまっている。

 この知らせを齎す前にも何度も対策を進言していたと言うのに、そのどれすらも手に付けないままに今の状況に陥っているのは、女からしてみれば愚鈍と言う他無い。


「もう時間がありません……。早急に準備に取り掛かるべきです」


 この言葉も何度唱えたのだろうか。

 目の前に迫っていてもなお、里に漂う空気には何の緊張も感じられない。


「それももう10日も前に進めるようにと言ってある!」


 苛立ちをさらに募らせた声が壇上から降って来て、少女は眉に皺を刻む。


(駄目……かな……)


 里に蔓延した怠惰な空気は、いまや里そのものを蝕んでいる。

 例え男が指示を出したところで、それが実行されるまでにあと何日かかるのか。

 誰もが時間を無限の物と考える弊害は、自分の身を喰われている状況でも治らないのかと、少女の力が抜けて行く。


「では長自らが兵を率いるべきです! この里の者達は未だ誰一人弓すら準備していませんよ?」


 永遠に変わらぬ物など無いのだなと、吹っ切れた様子で女が顔を上げる。


「何故だれも動こうとしないのだっ!?  ゲルム!?」

「誰も動こうとしないからですよ? 族長ですら動いていませんからね?」


 叱責される事も理不尽だと言わんばかりに、晴れやかな表情でゲルムと呼ばれた少女が顔を上げる。

 この里で危機に気付いている物はいるかも知れない。だがその誰もが危機感を抱いてはいない。

 迫る危機が直前に迫ろうとも、動くことの出来ない植物の様に。

 誰かが動く、何時かは危機が消え失せるとでも思っているかのように、皆が皆他人事のように捕えている。

 壇上で苛立った声を上げた里のトップでさえ、自らは全く動こうとしていないのがそれを物語っている。


「貴様その口のきき方はなんだ!? 子供の分際で里の長に!!」


 怒りの感情を表したかに思えたが、男の顔には僅かな感情の動きも見られない。

 1000年を超える時を過ごせば、感情など失ってしまうのかとゲルメが肩を竦める。


「そのような事をおっしゃってる暇すらありませんよ? 逃げるなら逃げるで荷物を纏める事をお勧めしますね」


 そう言い残してゲルムが踵を返して祭壇の間を後にする。

 もうこの里に残されている時間は無い。


 自分が最後の森林族になるとは思っても見なかったと、力の無い笑みを浮かべたゲルムが、自分の中の思いに嘆息する。


(思っても見なかった……。私もやはり森林族だったのね……)


 時間が永遠に続くと思っていたのは、何も大人だけではなかったのかと。


☠ ☠ ☠


「納得いか~ん!!」


『水の魔境』にシルヴィアの声が響く。

 声に驚いた小さな鳥が川面を揺らして慌てて飛び立っていく。

『水の魔境』に入ってから3日。

 シルヴィアはついに現状に対する不満をぶちまける。


「考えるだけ皺が増えんぞ、オババ」

「ファルア、その焼き鳥こっちに頂~戴?」

「ん? シャルルも肉嫌いじゃなかったか?」

「違うわよ~。はいクロウ君。あ~ん!」

「あざっす! でもシャルルあんまし下見ねえでくれよ……」

「なによ~? 減るモノでも無いでしょ~?」

「女にそのセリフ言われるとは思わなかったぜ……」


 これ程楽に進んで良いのかと、楽をしている自分が言ってもなんの説得力も持たないのだが、それでもシルヴィアは納得できない。

 予定よりも遥かに速く故郷へと向かっているのだが、道中で魔物と戦闘したのは最初の一日だけである。

 その後は、もう目も当てられないくらいに平穏な毎日を過ごしている。

 歩くだけでも疲れるジャングルを、シルヴィア達は何の労力も使わずに進んでいた。ただ座って――――。


「違うじゃろう? 『大森林』ちゅうのは! 『水の魔境』と言うのは、それはそれは恐ろしい所なんじゃ! 魔物の数は数知れず、道なき道すら日毎に変わる、そりゃあ『不帰の森』と呼ばれるだけの事は有る大層難儀な場所だった筈じゃろぅ? なのになんでじゃ!? 街馬車よりもスッム~ズに! 尻も痛ぅならんくらいに快適に!? ただ座って飯食って寝て進むもんじゃなかろう? のう、コルル坊やぁわわわわわわ!!」


 ペシペシと九郎の頭をはたいていたシルヴィアがそう同意を求めようと九郎に視線を向け、同時に顔を覆って目を背ける。

 あわあわ口を開け広げ、顔を覆ったシルヴィアの長い耳がヘニョンと垂れて赤く染まる。


 一目その光景を目にした者は必ず二度見する――――。

 そんな奇妙な姿でシルヴィア達は『水の魔境』を進んでいた。

 一言で言うなら、シルヴィア達は空を飛ぶように進んでいた。

 太い丸太に腰かけて、その上で弁当を広げて呑気に、長閑に、ゆっくりと。


 目をこらせばそれが空を飛んでいない事に気が付く者もいるだろう。

 だが同時にその光景がさらにありえないと目を擦るだろう。

 シルヴィア達は巨大な『スライム』の上に浮いた丸太に乗って進んでいた。


 そこまで理解した者はさらに疑問を抱くだろう。

 なんでも溶かす『スライム』が、どうして丸太ごと彼女達を取り込まないのかと。

 そこでようやくシルヴィアの耳が赤い理由が分かって来る。

『スライム』は丸太に接してはいなかった。

 その下で両手両足を使い丸太を支えている者がいたのだ。

 まるで「野蛮な人食い人種に運ばれる憐れな生贄」の如く、仰向けに寝転んだ九郎が『スライム』に埋まっていた。

 両手両足で丸太を支え、丸太が『スライム』に触れないようにしながら。全裸で。


 服やズボンは『スライム』に溶かされてしまうので今の九郎は全裸である。

 全裸で両手両足を伸ばして丸太を支えているので、シルヴィア達が下を覗けば九郎のクロウは隠れる事すら出来はしない。


「コルル坊やぁぁぁぁぁああ! すまんのぅ! 見る気はなかったんじゃぁぁぁ……。こげな恥ずかしい格好をさせてスマンのぅ……」

「そう思うならファルアを説得してくれっ!!」

「クロウ! 仲間の為だ! こいつが『世界樹』から逸れるまでは我慢してくれ……。皆の安全の為なんだっ!!」


 何も九郎はずっとこの状態を良しとは思っていない。

 九郎は局部を晒す事で興奮を覚えるような性癖では無い。


 水が空を浮いている―――。

 そんな光景を目にしたのは2日目の昼過ぎだった。

『世界樹』の巨大な根が作り出した底も見えない地割れに、透明な橋が架かっていた。

 流れを辿っていた川はそこで途切れ轟々と地割れに吸い込まれている。

 なのにその透明な橋は川の流れを引き継ぐように巨大な地割れをゆっくりと渡っていたのだ。

 それが巨大な『スライム』だと知って、九郎は丸太にシルヴィア達を乗せて、『スライム』に運ばれて地割れを渡る選択をした。

 もちろん地割れを渡り終えれば『スライム』を蒸発させて服を着るつもりだった。

 女性が二人もいるのに局部を晒したまま宙を漂う心算など無かった。


 だがそこでファルアの待ったがかかった。

『スライム』はこの『大森林』の中でも頂点に位置する魔物なのか、『スライム』に運ばれている間は他の魔物が全く寄ってこない事にファルアが気付いたのだ。

 この『スライム』が『世界樹』の方向に進んでいる限り、このまま運ばれた方が安全に進めると気付いてしまったのだ。


 かくて九郎は全裸のまま、透明な『スライム』の中に埋まって丸太を支える事になる。

 酷く不安定な『スライム』の中で漂う結果、両足をも使う羽目になりながら……。


「もうすぐ休憩にすっからよ? そしたらパンツもちゃんと履かしてやるって! な?」

「履いても直ぐに脱ぐことになんだろっ! この鬼っ!!」


 自分の羞恥心と仲間の安全とどちらを取るのかと問われてしまえば、九郎も折れるしか無くなる。

 ファルアに神妙な面持ちで頼み込まれては、仲間と迎え入れてくれた人に報いたいと思う気持ちが勝ってしまう。

 ファルアの肩が小刻みに揺れていたのは、自責の念からだと思いたい。


「ファルア……。あんまり動くとバランス崩れんぞ?」

「そいつはやべえな……。ちょっとシルヴィかシャルル。九郎におっぱい見せてやれ! そしたらあと一本支えが出来るっ!!」

「馬鹿な事いってんじゃねえっ!!!」

「クロウく~ん。見たい~?」

「ヤメテッ!! 見たいけど見たくねえっ! こんな状況でおっ勃っちまったらもうお婿にいけないっ!!」

「大丈夫よ~? シルヴィが貰ってくれるって~。ね?」

「な!? なにを言っとるんじゃ!? シャ、シャルルはす~ぐそうやって儂らをからかいよるから困るのぅ……のぅ、コルルぼわわわわわわわっ!!!」


『水の魔境』。幾多の冒険者の命を奪い、大国をも畏怖せしめた姿はそこには存在してはいなかった。

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