第119話  きょうせいあーるじゅうはち


 大森林に陽が落ちる。

 赤く巨大な夕日が薄雲を照らし、見事なグラデーションを空に描く。

 輝く太陽に隠されていた星々が次々に光を取り戻し、夜の訪れを告げ始める。


「そろそろ柔らかくなったか? ……うん、丁度いい感じだな!」


 素焼きの壺に入れた『大顎コベット』の肉を取り出し、九郎は一人言ちる。

 塊のまま『スライム』の酵素と魚醤ガルムの混合液に浸けられた肉の塊は、適度な弾力で指をはね返して来る。

 夕陽に照らされた巨大な木の上で晩飯の用意をしていた九郎は、沈む太陽に目を細めながら手際よく肉を薄く切り分けて行く。

 鍋に『大顎コベット』の脂身を乗せて膜を作るとその上に玉ねぎの様な野菜と肉を放り込みじっくりと炒めて行く。

 肉にある程度火が通ったら大蒜ニンニク生姜ショウガに似た味の野草のペーストを流し込みゆっくりと火を通して行く。

 鼻に肉と香味野菜の焦げる良い匂いが香り、九郎は唾を飲み込む。

 今日の夕飯は鰐肉の生姜焼き(もどき)だ。


「ベルがこっちにいたら、喰いモンだらけで太っちまってた所だろうな……」


 何でも食べようとする元気な少女を思い出し、九郎は苦笑を浮かべる。

 昨日聞いた話は九郎に彼女たちとの生活を思い出させていた。

 幸せに暮らしている事を聞けて嬉しい半面、そこにもう自分が加わる事は無いと思うと寂寥の思いがこみあげて来る。


「また毒食って痺れて無きゃ良いんだけど……」


 女々しい思いを振り払う様に九郎はぼんやりと呟く。

 彼女もまた貴族として生活しているのは間違いなさそうなので、得体の知れない物を口にすることは無いと思うのだが、ベルフラムが出される料理だけ・・を大人しく食べているとも思えず、そこはかとない不安が付きまとう。

 まだ鼠やカエルならどうにかなりそうだが、虫やミミズでも平然と口にしようとする彼女の事だ。

 毒見の役を一手に引き受けていた九郎は、悪食な少女が取り返しのつかない物を口にする事だけは無いようにと何処かの神に祈っておく。


(でも……昨日は楽しかったなぁ……)


 昨晩は久しぶりに大勢で飲んで騒いだ。

 酒自体も好きだが、九郎は何より騒ぐことが大好きだ。酒の場の空気が好きなのだ。

『フロウフシ』の力の弊害で酔う事が無くなった今でも、酒を飲み酒場の空気に浸るだけでも十分に楽しめていた。

 そこに気になっていた少女達の暮らしぶりが聞けたのだから言う事は無い。

 自分の首に賞金が懸けられていたという事は少々思う所はあるが、所詮『死なない身』であるのだからそこまで気にすることも無い。

 ある程度予想していたからこそ、ミラデルフィアに移ってからは顔や髪を隠す事にして来たのだ。

 ベルフラム達が自分を『不死』の『化物』として周囲に喧伝するとは思えないが、よくよく考えてみれば処刑時に開けっ広げに『不死』を披露しているのだから今更とも思える。

『芋の英雄』と言う間の抜けた名で呼ばれていたから異質性に気付かれるのが遅れただけで、あの時点で『不死の化物』と呼ばれていても可笑しくなかったのだ。


 自分の迂闊さに辟易しながらも、いずれ知られてしまうのは避けられない運命だったと思い直し、これからの未来に思いを馳せる。


「しっかし驚いたな……。シルヴィアちゃん……シルヴィアさん? があんなに年上だったとは……」


 見た目から女子高生位だと思っていたシルヴィアが自分の祖母よりも年上だと知らされた時は、自分の耳を疑った。耳の形からファンタジーのエルフっぽいとは思っていたが、種族特性まで似通っているとは思っていなかった。森林族と言う種族だとは知っていたが、女性の年齢を態々聞くのも憚られて今まで過ごして来ただけに驚きも一入ひとしおだ。


「は~……惜しい事をしたよなぁ……。まあ、手出しのしようがねえんだけど……」


 昨晩酔って抱いてくれとせがまれて、内心ドキドキしていたのは内緒の話だ。

 シルヴィアが祖母より年上と聞いて尚、その器量の良さの前には障害とはならなかった。

 出来るならばこちらから両手をついてお願いしたい気分ではあったのだが、そこには年齢より遥かに高い障害が存在していた。


 レイアに『化物』と恐怖の視線を向けられ、完膚無きまで振られて落ち込んだ九郎だったが、日本にいた頃も何人もの女性と付き合い、そして何度も別れを経験をしてきている。

 このアクゼリートの世界に来る切っ掛けだったのも、当時付き合っていた彼女の浮気現場が発端だったのだから。


 いつまでも引きずっていても仕方が無いと、景気付けに色町に繰り出したのはこの街に来て3ヶ月も経った頃だ。

 以前なら恐れていた性病の類も、今の九郎には何の障害にもなりはしない。

 だがいざ本番と相成った時に九郎は重要な事を忘れていた事に気付かされる。


 ――転移者はアクゼリートにて子供を残す行為をしてはならない――


 すっかり忘れていた九郎がこの世界に来る前に告げられた制約ルール

ごねて凄んで、本心から抱かれたいと思う女性が5人現れれば解除されると伝えられた神の言葉。

 それは呪いの如く明瞭に九郎の体を縛っていた。


(あの『自傷の禁忌』よりいてえもんが有るとは思わなかったぜ……)


 その時の事を思い出すと背筋が寒くなる。

 いざ本番。新たなダンジョンに潜り込もうと意気込んだその時、その呪いは発動した。

 剥き出しの内臓と称される、とてもデリケートでナイーブな部分を金槌で殴らたかのような痛み。

 腕を切り刻むよりも凶悪な、自分で息子ジュニアを殴っている様な激しい痛みが九郎を襲った。

 どちらの意味でもタッテイル事も出来ず、呻きながら泡を吹いた九郎に娼婦もさぞかし驚いた事だろう。

 その痛みは『不死』の力を以ってしても、数日間動けなくなる程九郎の心に傷を付けたのだった。


「この歳でお役御免となっちまうとはなぁ……。いや、お父ちゃんも頑張ってみるよ? 時間は有るんだから、死体愛好家ネクロフィリアとかいるかも知れねえジャン?」


 やっと松葉づえを突いて歩けるようになった息子ジュニアに向かって、九郎は一人言ちる。

『化物』となった自分に抱かれたいと思う女など居るのだろうかと、暗い気持ちになって来るが、それでも肉体は健全な二十歳ハタチの若者だ。

 女性と触れあいたいと願う欲望は尽きる事無く湧いてくる。

 例え茨の道であろうとも『不老』となった九郎に、性欲の減退があるとも思えず僅かな希望に縋るしか無い。


「な~にを一人でぶつくさうとるんじゃ……」

「どうふぁらぅっ!!!」


 突然声が聞こえて慌てて周囲を伺う。

 何時の間にか、枝に吊るした梯子の影から緑の頭がピョコンと飛び出てる。

 全く気付かぬ内にシルヴィアが梯子を登って顔を覗かせていた。


「あいやっ? シルヴィアさん……。忘れ物でもしたんスか?」


 今朝別れたばかりのシルヴィアが九郎を半眼で見つめていた。

 ここ半年ほど連日人と会う事をしてこなかった九郎は、突然の訪問者に狼狽えてしまう。

 そして九郎は昨日負ぶったシルヴィアの温もりを思い出してしまい、自分の顔が熱く火照るのを自覚する。

 どう言い繕っても貧乳の部類に入るであろうシルヴィアだが、体の柔らかさには女性を感じるには充分であり、負ぶった時に触れた太腿の感触が手のひらに蘇ってくる。

 赤くなった顔を誤魔化そうと部屋の方に目を向けた九郎に、シルヴィアはどうにも決まりが悪そうに視線を泳がす。


「その……なんじゃ。昨日は迷惑かけてしもうたからの……。詫びと言うのも何じゃが……」


 見るとシルヴィアの後ろ手に壺が握られていた。


「ああ、そんな気を使わなくっても良いっすよ~。昨日は俺も楽しかったんで」


 律儀な人だなと感心しながら九郎は肩手を振る。

 酒を驕ったのは情報と引き換えであったし、その後に宿を貸したのはその場の流れだ。

 久しぶりに酒を酌み交わせた九郎の方が礼を言いたいくらいだ。


「まあ、そうは言うてもな……。別に大した物じゃ無いで、遠慮のう収めて欲しいの」


 そう言いながらシルヴィアは後ろ手に隠した壺をおずおずと差し出す。

 素焼きの壺は蓋がしてあり、その隙間から仄かに酸っぱい匂いがする。


「はあ……それじゃあ遠慮なく……。ところでコレ何なんですか?」

「あ、開けて見りゃあ分かるで……。若もんにはあんまり嬉しく無いかも知れんが」


 尋ねる九郎にどことなく恥ずかしそうにシルヴィアが俯く。


(その表情だけでもごはん三杯はイケます!)


 恥ずかしそうにするシルヴィアの表情に、ドキリとさせられながらも渡された壺の蓋を取る。

 女性に恥ずかしげに物を貰うなど、何だかバレンタインデーの様で結構嬉しくなってしまう。


(何だろなー? 酸っぱい匂いがするから柑橘系の果物かなー? シルヴィアさん結構果物酒好きそうだったから、お洒落なリキュールとかだったりして……)


 期待に胸を膨らませて壺の中を見ると、そこには茶色い泥の様な物が詰められていた。


「泥? いやでも酸っぱい匂いがするし……」


 何処かで嗅いだことの有る様な……と記憶を辿る九郎にシルヴィアは恥ずかしそうに視線を向けてくる。


「儂が漬けた漬物じゃが……。やっぱり若いもんには喜ばれんかのう? 儂は今時の若いもんが何が好きなんかよう分からんで……」


 どうにも居心地の悪そうに視線を彷徨わすシルヴィア。

 シルヴィアが持って来たものは自分で漬けた漬物だったようだ。

 米糠の代わりに麦が使われているようだが、懐かしい匂いに九郎の顔が綻ぶ。


「いやいやいや! 俺漬物大好物っすよ!? 丁度晩飯作ってたんで一緒に喰いません?」


 口調だけでなく嗜好もおばあちゃんぽいなとは言わないでおく。

 女性から貰うプレゼントとしては色気に欠けるが、一年近く日本食から離れていた事も有り、僅かでも日本ぽい物には心が魅かれるのは間違いない。

 これで米があれば最高なのにと夢想するが、いまだに米らしきものを見つけられないでいる。

 折角来てもらったのに茶の一つも出せないのでは、礼儀に悖ると九郎はシルヴィアを夕食に誘う。


「そ、そうかえ? 朝も相伴したでちと悪い気がするのぅ」

「遠慮しなくても今日も食材どっさりなんで! 一人で喰うより誰かと食った方が美味いッスから!」

「そうかい? コルル坊はええ子じゃのぅ……」


 遠慮しつつも顔を綻ばせたシルヴィアに九郎も笑顔で答える。

 一人で摂る食事にも慣れていたつもりだったが、誰かと食べる方が美味いに決まっている。


「じゃあ、先に中に入って待ってもらって良いっすか? 直ぐ出来ますんで。灯りはテーブルの上っす」


 微かに燻る薪を手渡し九郎は肉を切り分けて行く。

 部屋の中のテーブルの上には油を固めた蝋燭が置いてある。

 いつもなら自分の指で火を灯せば良いが、シルヴィアが炎の魔法を使えるかは分からない。

 シルヴィアが頷き部屋へと消えていくと、しばらくして部屋に灯りが灯る。


「ああ…やっぱ自分が明るいとなんかクルなぁ……」


 自分で灯さない部屋の明かり。

 他者との関わりを感じて九郎は一人呟いた。


☠ ☠ ☠


「コルル坊の飯は美味いのぅ……」

「シルヴィアさんの漬物も美味いッスよ?」

「…………」

「…………」

「シルヴィじゃ!」

「………クロウです」

「…………」

「…………」


 ――どうしてこうなった? ――

 シルヴィアは心の中で自問した。

 微妙にぎくしゃくした空気の中での食事となってしまった事に、何がおかしかったのだろうかと考えていた。


 九郎側はシルヴィアの微妙に此方を伺い見るような視線にドギマギし、シルヴィアの方は、自身を『化物』と言い放った九郎の心を伺い見ようと切っ掛けを探していた。


 一晩の宿を貸した借りたの仲ではあるが、どちらもそれ程接点があった訳では無い。なのにいきなり押しかけてきてしまったシルヴィアは、自分の場当たり的な性格を改めて知る事になっていた。

 しかも昨日は酔っていたとは言え夜の誘いをしてしまった身だ。

 それもあって改めて九郎を目の前にするとどうにも面映ゆい気分になって来る。


「でも漬物喰うと米が欲しくなりますねー」

「コメとは何じゃ? 聞いた事ないのう」

「米ってのは麦みたいに穂が実る植物っすよ。俺の国の主食だったんス!」

「ほう。この辺じゃ聞かん名じゃのぅ。コルル……クロウ坊はどの辺りの生まれじゃ?」

「ずっとずーっと遠くの国っすよ……。シルヴィアさ……シルヴィは?」

「儂は大森林の奥にある村出身じゃよ。そう遠くでは無いの……。全然帰っとりゃせんが……。クロウ坊は故郷に帰りたいとか思わんのかえ?」

「え……う……あ……。もう……帰れない場所にあるんで……」

「……あぅ……すまぬ……。余計な事を聞いたの……」

「いえ……」


 シルヴィアは自分の短慮に頭を抱える。

 九郎が顔を隠している事からも、何かから逃げて来ている事は分かっていた筈だと。

 故郷が帰れない場所に有ると言う事は、戦で滅ぼされてしまったのかそれとも罪から逃げて来たか何らかの事情があるのだろう。

 冒険者と言う職業は誰でもなれるだけに、訳有りの人間も多くいる。

 だからこそ素性を聞く事はタブーとされ、相手から言ってくるまで聞かないのが流儀だ。

 話のとっかかりを得ようとして地雷を踏み込んだことを九郎の表情から悟り、どうしたものかと狼狽える。


(そもそもどう聞けば良いんじゃ? 訳有りなんは分かっとった事じゃろう? 「考えても分からんから聞けばええじゃろ」って思っとった儂の阿呆~!)


 引きつった笑みの後ろで冷や汗を流すシルヴィアを、九郎も眉を下げて困っている様子だ。

 二人で食べた方が美味いと言った九郎も、これでは味が分からないのではないかと申し訳なくなる。


(昨日からどうにも調子が狂っとるのう……。やはり出直した方が良いじゃろうか……)


 早々と白旗を振りかけたシルヴィアよりも早く、九郎が動く。


「シル……シルヴィ酒飲みます? 昨日ガランさん達が持って来た奴残ってるんスよ」

「酒は……ちょっと……いや、少し頂こうかの……」


 昨日酔って醜態を晒しただけにしばらく酒を飲む気にはなれなかったのだが、この空気を変えようとシルヴィアは九郎の提案を受ける事を決める。

 酒の力を借りれば、普段聞きづらい事も聞けるし言いずらい事も言えるかも知れない。

 それに何より、昨日の九郎は楽しそうだったではないか。

 ギクシャクとした空気の中で食事をするよりかは、幾らかは場も温まるだろう。


 別段酒に弱い訳でも無い。

 1杯や2杯なら口の滑りも良くなる程度で問題無いと、自分に言い聞かせてシルヴィアは注がれた酒を一気に飲み干し――――1杯で酔った。


 酒好きの鉱山族、ガランガルンが持ち込んだ酒は、シルヴィアが何時も飲んでいた果実酒の実に4倍の強さの酒精を含んでいた。


☠ ☠ ☠


「ころぅ坊や、おんしゃちょっとこっちゃ来て座れっ!」

「シ、シルヴィアさん!?!」


(えらいことになった……)


 目の前で座っているシルヴィアが呂律の回らない口ぶりでそう言って来た。

 目の前で座っているシルヴィアの目も座っている。

 差し出した酒を一気に飲み干したシルヴィアは、ぐらりと横に倒れて行った。

 慌てて支えようと手を伸ばしたが、シルヴィアは起き上がりこぼしの様に体勢を立て直すと床を指さしそう喚いた。

 半眼で睨んで来るシルヴィアの目は完全に酔っ払いの目だ。

 まさか一杯で酔っぱらうとは思っても見なかった。酔いつぶれる事がなくなった九郎にはガランガルンが持ち込んだ酒がそこまで強いとは思ってもいなかったのだ。


「シルヴィアさんちょっと一気に飲みすぎっすよ……。水持って来ますね……」

「わしゃぁそんにゃ事っとらん! はよこっちゃ来て座れっ! あと何度~たら分かるんじゃ?! 儂のことぅ~はシ・ル・ヴィ・! シルヴィと呼んどくれ!」

「ハ、ハイッ!! シルヴィ……お水を……」

「ええからす~わ~れっ!」


 テーブルをバシバシ叩きながら言ってくるシルヴィアの目は完全に座っている。

 酔っ払いの老人と泣く子供には誰も勝てないと、何処かの誰かが言っていた気がする。

 彼女を老人と見て良いのかには首を傾げざるを得ないが、その酔い方は実家の祖母を彷彿させていた。


 ――抵抗は無意味――

 九郎は苦笑して嘆息すると、シルヴィアの横の椅子に腰を下ろす。

 朦朧としている瞳で九郎を見上げたシルヴィアは「むう」と唸ると眉間に皺を寄せる。


「そこじゃにゃいっ! こーこっ! こ~こっす~わ~りぇ~っ!!」


 シルヴィアは椅子の横をバシバシ叩き、その下を指さす。

 床に座れという事だろうか。

 気の所為か怒られる前の子供の気分になって来た。

 九郎が、恐る恐るシルヴィアの椅子の横に正座する。

 正座までは要求されていないのだが、なんだか正座で無ければ駄目な気がした。

 ――九郎は空気を読んだ。


「な、なんでしょう? シルヴィ……」


 同じ高さに座っていた先程はシルヴィアが九郎を見上げる構図だったが、今度は九郎がシルヴィアを見上げる格好になってしまう。

 目の端にちらつくシルヴィアの白い脚の引力から、必死に目を逸らそうと自制を掛ける九郎。

 昨晩求められてしまってから意識せずにはいられない。

 尻を最低限度に隠すことしか出来ていないシルヴィアの短く小さなズボンの隙間から、チラチラとその付け根が覗く。

 欲望と自制の狭間でウィンウィンと電動コケシを演じている九郎を見下ろすシルヴィアの表情は、大変満足気だ。

 見下ろされるのが嫌だったのだろうかと苦笑を浮かべたその時、九郎の目が大きく見開かれる。

 笑みを浮かべていたシルヴィアが、グラリと傾いてきて。


「ちょ、ちょ、ちょ!」


 慌てて手を伸ばしかけた九郎の頭をシルヴィアは抱え込んだ。

 貧相ではあるが確かな女性の柔らかさが九郎の顔を包む。


(駄目だっ! シルヴィは酔ってる! 立ち上がるな息子ジュニア! どのみちお前の出番なんてものはねえっ! またお仕置きされちまうぞっ!!)


 どおれ、と時代劇の用心棒のように出番を嗅ぎ付けた不詳の息子を、九郎は頭の中で叱りつける。あれほど痛い目にあったと言うのに、全然懲りていない九郎のクロウに呆れながらも頼もしいとすら思ってしまう。

 なにせ筆舌しがたい痛みを味わったと言うのに、なんら臆していないのだから……。


 だが未だ九郎に本心から抱かれたいと思ってくれる女性は現れてはいない。

 例えシルヴィアが本心からそう言ってきたとしてもまだ一人目だ。

 頭の陰にちらりと赤髪の少女が顔を出すが、ベルフラムはまだお子様だからと丁寧に退場願う。

 このまま気分の高まりに身を任せても、悲惨な未来しか待っていない。心の中で血の涙を流し、シルヴィアを押しのけようとした九郎の腕はそこで動きを止める。

 後頭部に感じる小さな手。

 拙く動く掌の感触に九郎の動きが止められる。


 ――シルヴィアは九郎の頭を抱え込み、ゆっくりと頭を撫でていた。


「のぅ…コロゥ坊や……。そげな悲し気な顔はせんでおくれ……。儂はそんな若者の顔なんぞ見とう無いんじゃ……」


 慈しむように髪を撫でる小さな手。

 小さい頃に撫でられた祖母の手を思い出して、ふと心に安らぎを覚える。


「何ぞおぬしが抱えちょんのは分かっとぅ……。じゃが儂に何も出来んのかえ? 若者を正しい道に導くのも年長者の務めじゃからのぅ?」


 胸に溜まった寂寥の思いを解き解すように、九郎の髪を撫でるシルヴィア。


「儂なんぞではなんも力になれんかも知れん……。言いとぅないんじゃったらわんでもええ……。じゃが儂が力に慣れるかも知れん。言ってもええ思うたらっておくれ?」


 酔ってはいるが、酔っているのが分かるだけにシルヴィアの本心からの言葉に思えた。


「ばあちゃん……俺……おんごふぇっ!!!」

「だ~れが婆ちゃんじゃっ!! うら若い乙女を捕まえてなんちゅう事言いよるんじゃっ!!」


 震える声で呟きかけた九郎の頭に拳骨が落ちる。

 思い出と雰囲気に流されて口走った九郎の言葉に、先程の慈愛に満ちた雰囲気は消し飛び、そこには仁王立ちして拳を振り上げる鬼が現れた。


「コロゥ坊も儂をオババちゅうのかえ? こ~んなピチピチ(死語)の乙女に向かってなんちゅう言い草じゃっ!?」

「ハイッ!! すみませんでしたっ!! シルヴィアサンッ!!」

「シ~ル~ヴィ~じゃっ!!」

「ひゅみまひぇんれひぃた。ひるひぃ……」


 背中に炎を背負ったシルヴィアに頬を引っ張られながらも、九郎は微かに笑っていた。

 若者に笑顔でいて欲しいと願うシルヴィアの気持ちが嬉しかった。

 例え自分の正体をばらしても、シルヴィアなら受け止めてくれるかもしれないと期待してしまった。

 長く生きている彼女なら……『不死』は共感できなくとも『不老』の一端は理解してくれるかもと期待した。


「ひるひぃ……ひちゅわおりぇ……」

「コロゥ坊! わしゃあの『風呂』入りたいっ!!!」

「……ひぇ?」


 自身の秘密の一端を打ち明けようと口を開いた九郎の言葉は、シルヴィアの唐突な宣言によって流される。

 間の抜けた声を出した九郎に、シルヴィアは自分が今まで話していた内容をすっかり解決したような晴れやかな顔だ。

 言いたくなったら言えば良いと宣言した事によって、シルヴィアの悩みはあらかた解決してしまっていたことなど、九郎は知るよしも無い。


「わしゃ、あれが気に入っとぅ! 暑い日の水浴びもそれはそれでええが、儂の細い躰じゃ夜はちと辛うての?」

「で、でもシルヴィ酔ってるし……」

「わしゃじぇんじぇん酔っちゅらん!! 早よ~用意してお~く~れ~!」


 どう断れば角が立たないだろうかと九郎は視線を外して考える。

 風呂を沸かす事など造作も無い事だから、拒む理由にはならない。

 全くの他人の自分を心配してくれたシルヴィアの願いなら、出来る限り聞いてあげたい。

 だが、シルヴィアは酔っている。

 酔っ払いに風呂は危ない。

 寝てでもしてしまったら溺れてしまう。

 多少拗ねられてもやはり断るべきだと九郎が視線を元に戻す。


「ああああああ! シルヴィっ! ちょっと待ったぁあああ!!!」


 僅かに視線を反らせた隙にシルヴィアは二階へと登っていた。


「コルゥ坊やぁぁああ! 冷たいっ! 冷たいぞぉ~!?」


 そして響いてくるシルヴィアの嘆く声。


「分かった。分かったから少し待ってくれっ!!」


 果たして冷水に浸かるのと、湯船に浸るのとどちらの方が害が少ないのだろうか。

 九郎の頭にそんな疑問が浮かんだ。


☠ ☠ ☠


(ああ、知ってた。知ってたよ? 何も手出し出来ねえ時に限って、こう言うお約束のラッキースケベが起こるって……)


 疲れた顔で九郎は渋面する。

 九郎のベッドにはスヤスヤと、あどけない寝顔を浮かべたシルヴィアが眠っている。

 僅かに覗いた肩や、毛布から零れ出た白い脚が月の光に眩しく映る。


 結局、九郎は湯を沸かすしか道は無かった。

 酔ってないと頑なにごねるシルヴィアに、九郎はしぶしぶ湯を沸かしタオルを用意して下へと引き返す。

 流石に自分の祖母より年上だろうと、見た目的には十代の少女のシルヴィアの入浴を介護するのは色々不味い。

 苦渋の決断に血涙を流しながら、九郎は1階で待機していた。

 眠らないようにと度々声を掛けていたのだが、シルヴィアの返事が返って来なくなり九郎は魂の雄叫びを上げる。


「あ゛あ゛あ゛あ゛! 風呂場で寝るなんざ、本気でおばあちゃんじゃねえかっ!!」と。


 予想通りと言うか何と言うか……。風呂の心地良さにシルヴィアは寝入ってしまっていた。

 急いで駆け上がり、シルヴィアを水瓶から引き上げるとベッドに放り込む。

 クラヴィスやデンテ、ベルフラムも度々風呂で寝てしまう事があったが、彼女達には何の性欲も覚えなかったので、体を拭いたり着替えさせたりする事も出来た。

 だが、シルヴィアは見た目以上に年齢を重ねている立派な女性だ。

 九郎のストライクゾーンに入っている。

 肝心な事は出来ないと言っても、みだりに女性の躰に触る事も出来ず、出来た事と言えばシルヴィアの裸体にタオルを掛け、寒くないように毛布を被せる事位だ。

 だがその僅かな間でも、月に照らされたシルヴィアの白い肢体が目に焼き付いて離れない。


「こ、こんな場所にいれるかっ!! 俺は一階に戻らせてもらうっ!!」


 見事な死亡フラグを呟いて九郎が立ち上がり背を向ける。

 直ぐに下へ引き返して般若心境でも唱えなければ湧き出る煩悩を抑えられそうにも無い。


 そうしようと思った矢先、シルヴィアの手が九郎の指を掴んだ。


「………………いかんでおくれ……」


 耳元に微かに届くか細い声。


「シ……シルヴィ………。俺、ちょっと訳有りで女の人抱けなくなっちまってて……」


 九郎は背を向けたまま唇を噛みしめて、血の涙を流す。

 これほど美しい少女に求められながらも、何も出来ない自分がもどかしい。

 今すぐル〇ンダイブで飛び込んで行きたい気持ちを、必死で押し止める。


「………………儂を一人にせんでおくれ……」

「だからっ……」


 指をギュッと掴みなおも囁くシルヴィアに九郎は堪らず振り返る。

 毛布の隙間からシルヴィアの白い小さな胸が露わに零れて息を飲む。

 だが、シルヴィアの顔を見て九郎の暑くなった血液が急速に冷えて行く。

 シルヴィアは眠っていた。

 その意識は夢の中に落ちていた。


「………儂を置いていかないで……アラ…ン……コレ……ット……リリィ…………」


 夢の中で誰かの名を呼ぶシルヴィアの頬には、一筋の涙が伝っていた。

 そこに彼女に刻まれた心の傷を見てしまい、九郎は何も出来ずにへたり込む。

 九郎はそっとシルヴィアに毛布を掛け直すと大きく息を吐き出す。


 守ろうとした者に恐れられた。

 守りたいと願った者に剣を向けられた。

 自分は『化物』。それを理解して尚、その思い出は九郎の心を苛んでいた。


 人としゃべりたい。人と触れあいたい。

 だが踏み込んでしまえば、好きになってしまえば、またあの絶望感を味わうかも知れない。


 絶望して死ぬ事も発狂する事も出来なくなった今の九郎は、暗く深い穴の中で一人もがいていた。

 何故自分だけがこんな目に遭わなければならないのかと運命を呪っていた。


 だが人との間に自分から線を引いて、怖がっているのは自分の方だったのではないか。

 シルヴィアの呟きに九郎はそう思った。

 彼女の傷が如何言うものなのかは分からない。

 口ぶりから捨てられたのか置き去りにされたのかも知れない。

 だが、彼女はそれでも他者を思いやり気に懸けている。

 人との繋がりを断たれたにも関わらず、その事を恐れず九郎と関わろうとしてくれている。

 それがシルヴィアの強さ、優しさに思えて九郎は自らの臆病さに溜息を吐く。


(別に俺だけが傷ついてるって訳じゃねえのにな……)


 大なり小なり生きていく中で人は傷付いて行く物だ。

 一度、人に拒まれた位でいじけてしまった自分が情けない。

 自分は『フロウフシ』。へこたれる事も潰される事も無いのだから。


 心の傷もきっと癒えると信じて、九郎は少し人との距離を縮めてみようと、少しだけでも前に進んでみようと、――そう思った。

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