第118話  噂の渦中


「はぁ……」


 雲一つない青い空の下、シルヴィアは一人溜息を吐き出した。


 九郎の家で一晩を明かし、朝食を食べ終わった後は三々五々解散となった。

 ガランガルンとファルアはそのまま大森林へと仕事に向かったが、シルヴィアはどうも仕事をする気になれず現在フーガの街の木陰に座り、露店で買った果汁水を飲みながらぼんやりと空を眺めて呆けていた。

 生涯最大だと思う盛大な恥をかかされて、心の中がざわめいている事も理由の一つだったが、それ以上に気にかかる事があり仕事をする気になれなかったのだ。


 節に水を溜める性質のある植物を使い捨てのコップにして売っている果汁水は、シルヴィアがよく購入するお気に入りだ。うだるような暑さの中、少しでも涼を得ようと木陰に素足を放り出して草の絨毯に寝転がる。

 喧騒は遠くに聞こえ、木々が風にざわめく音と姿も知らない鳥の声が耳に届く。


「あ゛~!! 何で若いもんがあんな顔しよるんじゃ! 若者はもっとこう……キラキラしよるもんじゃろう!?」


 独り言を呟いたつもりが、意外と大きな声となっていたようだ。

 軒を借りていた木の枝から、数羽の小鳥が慌てて飛び立っていく。


 シルヴィアは傍らに置いた果汁水を両手で持つと、手の中の水鏡に顔を映す。

 波紋に乱れた自分の顔が泣いているように見えて、シルヴィアは苦笑を浮かべる。

 別に悲しい訳でも無い。それ程親しい間柄でも無い彼の男が、どれ程の物を背負っていようともそこまで自分が気にすることも無い。ただ少し、ほんの少し気になっただけだと。

 朝食を4人で取っている際に一人の青年が溢した笑みが、少しだけ気になっただけだと。


☠ ☠ ☠


「っでよぉ~。昨日聞きそびれちまったが、お前は何処であんなに稼いできやがったんだぁ?」


 ガランガルンが椀をテーブルに置きつつ九郎に尋ねる。

 鉱山族の彼もソロの冒険者としてそれなりに名を売っている自信があるのだろうが、昨夜九郎が出した白貨など見たことも無かったのだろう。それだけで半年は遊んで暮らせるだけの硬貨などその日暮らしの冒険者がおいそれとお目にかかれる代物では無い。

 どこか良い稼ぎ場を見つけたのだろうと、ガランガルンはそう目星を付けているのだろう。

 九郎と言う半年前にふらりとこの地にやって来たこの青年は、以前も自分の稼ぎ場を漏らした事も有るだけに、あわよくば割の良い稼ぎ場を聞き出そうと言う腹積もりの様だ。

 ファルアと言う赤髪の冒険者の男も、それとなく口を噤んで耳を傾けている。

 冒険者と言う明日をも知れぬ職に就いている者は、皆大なり小なり貪欲だ。

 特に彼の様に人族と言う寿命の短い種族は、体が衰えるのも早いだけにできるだけ稼げるうちに稼いでおきたい気持ちが有るのだろう。

 人族の10倍以上の寿命を持つシルヴィアも、若い新人の冒険者の食い扶持を聞き出そうとしている二人の男を半眼で見つめながらも、そこに口を挟む事はしない。

 別の意味でシルヴィアも目の前の九郎と言う男に少し興味が湧いていた。

 目覚めてから今迄の僅かな時間だけで、長年生きてきたシルヴィアを何度も驚かせたこの青年を、もう少し知りたいと思ったのだ。


「いや、昨日のは偶々運が良かっただけっスよ? あの白貨の大元が手に入ったってだけッス」


 椀の中の具を器用に二本の棒で掴みながら九郎が答える。

 まさか稼ぎ場を簡単に口にするとは思わず身を乗り出したガランガルンとファルアであったが、その内容を聞いて僅かに落胆の様子を見せる。


「なんでぇ。『水晶喰いアクアラング』を見つけたってだけか……。そりゃあ確かに運が良かっただけだよなぁ」


水晶喰いアクアラング』――大森林の河川に潜む大型の巻貝の魔物でその硬さ、美しさから白貨や工芸品、武具などに重宝される珍しい魔物だ。

 硬さは魔銀ミスリルにも比肩し、鉱石の産出の少ないミラデルフィアでは大変高値で取引される。

 その『水晶喰いアクアラング』を仕留めたというのなら白貨をもっていても不思議では無い。

 そう結論付け、納得を見せた二人だったが、シルヴィアはその言葉に異議を唱える。


「コルル坊よ。お主この時期の『水晶喰いアクアラング』を仕留めたっちゅうのかえ?」


 納得している二人は知らないのだろうが、長年生きてきたシルヴィアには九郎の言葉にありえない部分を見つける。

水晶喰いアクアラング』は川の底に潜む魔物だ。その採取方法は乾季に川が枯れた折に、地上に姿を現した個体を狩る以外に方法が無い。

 巨大な樽以上の大きさを持つ大型の巻貝である『水晶喰いアクアラング』は、そう簡単に狩れる類の魔物では無い。強力な毒を持っているし、打撃にも魔法にも強い耐性を持っている。

 雨季の今の時期に倒す方法は無いと言っても過言では無い。

 乾季に身動きが取れなくなったものを、炎の魔法や火責めで時間をかけて倒す他無いのだ。

 九郎の稼ぎ場を聞き出すつもりは無かったが、適当に煙に巻かれてしまってはベテランの冒険者の沽券に係わるとシルヴィアは鼻を鳴らす。


「はあ、まあ。いや、偶然ッスけど。鰐皮取りに行った時に河の底で見つけたもんで……」


 二人の冒険者と同様に、何を言っているのかと怪訝な顔で九郎がシルヴィアに答える。

 また可笑しなセリフを聞いた気がして、シルヴィアの方がたじろぐ。

 鰐――この辺りに生息する鰐と言えば『大顎コベット』と呼ばれる大型の鰐の事だろう。

 単体でなら初心者の冒険者でも狩れる魔物ではあるのだが、それは陸上に限っての事である。

 水の中で水棲の魔物と戦う事など、熟練の冒険者でもしようとはしない。

 水中呼吸の魔法が使えるとしても、水の中では動きも魔法も制限が掛かり、その脅威は何倍にも膨れ上がるからだ。

 話を聞く限りは九郎はその水中で『大顎コベット』や『水晶喰いアクアラング』を打ち倒した事になり、それはどう考えても不可能に思えた。


「そ、その……毒とか持っとるじゃろう? 『水晶喰いアクアラング』は……」


 あまりにあっけらかんと答えられて、シルヴィアも自分の方が間違っている気になってしまい、一般人でも知っている様な常識的な知識を口にしてしまう。

 疑問が重なり過ぎて何処から手を付けて良いのか分からなくなってしまったのだ。


「ああ、それで痺れたんスね。でも大丈夫ッス」


 頭を掻きながら何でも無い風に言ってのける九郎にシルヴィアは眼を瞠る。

 そんな筈は無い。『水晶喰いアクアラング』の毒は巨象も即死させる強力な物だ。

 そんな痺れるとか生易しいものでは無い。

 何が大丈夫なのかと反論しようとしたシルヴィアに、九郎は朗らかに言葉を続けた。


「俺、『化物』なんで。毒なんかじゃ死なねえッスよ!」

「おいおい? まぁ~た二つ名増やそうって思ってやがんのかぁ~? おめえもう二つ名所の騒ぎじゃねえってのに。この欲しがり屋さんめー」

「全くだ! 俺ほどの腕でも一個しかねえってのに。テメエもう5つも有るの知ってんのか?」

「マジっすか!? 『命知らずデアデビル』と『変質者』は知ってましたけど……。そんなあんスか? まぁ~た碌なもんじゃねえんだろうけど……」

「言うな言うな! 大概二つ名なんて碌なもんじゃねえよっ! ガランガルンなんて『ビヤ樽』だぜ?」

「はん!? 『赤文字あかもんじ』なんて間抜けな二つ名の奴に言われたかねえな! 何だよ『モンジ』って…」


 酒が残っているテンションで笑いあう男達を尻目に、シルヴィアの顔が僅かに曇る。

 自身を『化物』と称した九郎の笑みが、酷く寂しげに見えて言葉を失ってしまった。

 場の空気を和ませようと浮かべた笑みは、シルヴィアには拒絶――自ら壁を作ったように見えていた。


☠ ☠ ☠


 どのくらい物思いに耽っていたのだろうか。

 気が付くと両手で持っていたコップは汗も乾いて温まっている。

 木陰が動きシルヴィアの足に灼熱の太陽が照りつけていた。

 シルヴィアは両足を抱え込むように体を小さく丸める。


(何なんじゃ! あんな悲しそうに笑いおって! 若いもん特有の悲劇の主人公ぶっとるだけじゃろうが! あと数年もすれば枕に顔を埋めてバタバタするのがオチじゃろうに! あ゛あ゛あ゛! イライラするのうっ!)


 憤った感情を沈めようとシルヴィアは果汁水をあおる。

 温くなった果実の味がねっとりと喉を通る。


 シルヴィアは若者達に、特に寿命の短い人族には精一杯生きて欲しいと願っていた。

 森林族の村を飛び出て知った、寿命の違い。シルヴィアからすれば須臾の時に生きる者達。

 限られた時間の中で精一杯生を謳歌する人族にシルヴィアは感銘を受けていた。

 永遠とも言われる森林族の村は酷く閉鎖的で変化を嫌う。

 そんな代わり映えの無い生活に嫌気が差して60歳と言う若さで村を飛び出したシルヴィアは、多くの人たちと出会って来た。

 悪い者もいれば善良な者もいた。ただ、誰もが必死にその時を生きていた。

 なのに九郎と言う青年の浮かべた笑みに、人として生きる事を諦めたような感情を見てしまったのだ。

 それがどうにももどかしくてシルヴィアは憤っていた。


 ガランガルン辺りに言わせれば年寄りのお節介とか言われそうだが――人より長い年月を歩いてきただけに、悲しそうな若者を見るとどうにも世話を焼きたくなってしまう。


「あ~!! シルヴィ! どうしたのさー? 今日は仕事お休みー?」


 ふと顔を上げると知己の娘が此方を見て間延びした声を上げている。

 同じ村の出身でシルヴィアよりも若い森林族の娘であるシャルルだ。

 あまり会いたくなかった顔にシルヴィアは眉を顰める。


「んへへ~! 聞いたよシルヴィ! おめでとう……かな?」


 苦虫を噛み潰した表情のシルヴィアに臆する事無く、シャルルが近付きながら緩んだ笑みを浮かべる。

 噂の足と言うものは思った以上に早い者だと嘆息しながら、シルヴィアは半眼でシャルルを睨む。

 シルヴィアが酒場で酔って九郎に色目を使った事は、既に冒険者には知れ渡っている。

 シャルル自身は冒険者では無いのだが、素材屋で働いている事から噂を聞きつけていたのだろう。

 口の軽いならず者達に心の中で悪態を吐きながら、シルヴィアは無言でシャルルを見上げる。


「裏通りのベーカーがねぇ~。『孔雀』がシルヴィをおぶってくとこ見たって言ってたよ~? そん時のシルヴィがか~いかったってね~? 若い男に甘えるシルヴィなんて初めて見たって~。シルヴィもやれば出来んジャ~ン。で、どうだった? どうだった?」


 ずずいと詰め寄って好奇心に目を輝かせている年下の少女に、シルヴィアは後ずさる。

 刺激の多いこの街でも女の話題で一番華やぐのは、やはり色事と言う所か。

 含み笑いを隠そうともせず興味を向ける知己に、正直に打ち明けようか逡巡する。

 だが今朝がたファルアとガランガルンに担がれた事を思い出すと、見栄を張る事も憚られる。


「お、おお……。とても気持ちの良い物じゃったぞ……」

「へぇ~。若いのにテクニシャンなんだ~? シルヴィ初めてだったのでしょ? それなのに凄いね~」

「う、うむ。は、初めての経験じゃったが、存外良い物じゃった……。何だか肌も若返った気がするのぅ……」

「え~? シルヴィまだお肌綺麗じゃ~ん。あ、でもホントにいつもよりも輝いて見えるね~。だめだよ若いからと言って搾り取っちゃ~」


 ――嘘は言っていない。

 シルヴィアは風呂の事を言っているのであって、決して九郎と褥を共にしたとは言ってはいない。

 ただシャルルの勘違いを正そうとしていないだけで……。

 シルヴィアが未通女おぼこだと馬鹿にしていたのは目の前のシャルルなのだから、彼女に本当の事を正直に打ち明ける気にはならなかっただけの事だ。


 何を搾り取るのかと首を傾げたシルヴィアは、昨晩一日で白貨を使い切る程散財させてしまった九郎を思い出し「そ、そうじゃの……」と歯切れの悪い返事を返す。

 そしてふと目の前の娘が素材屋の店員だった事を思い出し、何気なく疑問を口にする。


「のうシャルルや。コルル坊はいつもどんな物を持って来とるんじゃ?」

「え~? なに~? シルヴィってば本気になっちゃったの~? 駄目だよ~、一度抱かせただけで男面させるのは~。それにシルヴィの条件に合わないでしょ? あの子……」


 シャルルが薄く笑って窘めながら、その後少し意味ありげに視線を向けてくる。


「べ、別につがいに成ろうとか思っとりゃせんわ! 単純に気になっただけじゃ! 稼ぎ場を聞いとる訳じゃないんじゃから仁義にも悖らんじゃろ?」


 少し傷をつつかれてシルヴィアが上ずった声でどもる。

 シルヴィアが言い寄る男を何度も袖にしている理由知っているのは、今の所同郷のシャルルだけだ。

 だが、それと今尋ねた事は根本的に理由が違う。

 言葉通り単純に疑問に思っただけだと、シルヴィアは説明を続ける。


「えーっとね~。クロウ君はそんなに毎日来る訳じゃ無いんだけど……。色んな物を持ち込んで来るね~。お金になる奴もならないやつも……。いっつもドサッと持って来て『こん中で金になる奴有りますか~?』って」

「な、なんじゃそのぞんざいな換金方法は……。足元見てくれって言うとるようなものじゃな……」


 阿呆にも程があるとシルヴィアは呆れる。

 素材屋と言っても商売なのだから、そんな風に換金を頼まれれば誤魔化しながら値段を叩くに決まっている。

 甘いとは思っていたがそれ程までとは思っても見なかったシルヴィアは、今朝の暢気な九郎の顔を思い出し溜息を吐く。


「お金にならないのはね~……、蛇の抜け殻とか綺麗なだけの石とか~、後その辺の草とか? でも魔物の毛皮とかもいっぱい持って来るよ~? あ、あと珍しいのだと昨日の『水晶喰いアクアラング』とか『核』とか……」

「何?! 『核』じゃと? それはアレのか?」

「どのアレだか分かんないけど~、クロウ君が持って来るのは『スライム』の『核』だよ~?」


 シルヴィアは、のほほんと答えるシャルルをまじまじと見つめて言葉の真偽を伺い見る。

 にこにこと答えているシャルルの顔には嘘の気配は感じられない。

『スライム』――多くの冒険者が一番出会いたくない魔物と聞かれて一番に上がるだろう魔物の一種。

 木の上や湿った地面、洞窟などに潜み近付くものは魔物だろうが何だろうが残さず溶かす不定形の物体。

 種類が多く存在し、生息地も様々ではあるがどれも共通して言える事は殆んどの攻撃を無効化するという事だ。炎には弱いとされるが、巨大な物だと街を覆う程のものもいる事から出会ったら即座に逃げる事を考えなければならない。痛みに怯むことも無く、本能のままに喰い尽くす『スライム』は大森林の中でも上位に位置する捕食者である。

 植物系の魔物の頂点に位置する『スライム』種は、竜種と並んで原始の姿のまま数千年を生き抜いてきた生物の覇者と言える。


 その『スライム』の中心にある通称『核』と呼ばれる物体は、効果の高い治療薬ポーションの原料や魔術の媒介に高値で取引されている。

 九郎が一晩で白貨を使い切ったと言うのに何の後悔もしていない様に見えるのは、それだけ蓄えがあったからなのだろうかとシルヴィアは唸る。

 しかしそれより何より、単独で『スライム』を倒せてしまうと言う実力はまさしく『化物』。

 自嘲気味に言っていた言葉は只、謙遜しながら自慢しただけなのだろうか。

 悲しそうな笑顔の裏に何も含む物など無かったのだろうかと、シルヴィアは再び考え込んでしまう。


「そんな事よりもシルヴィ~。彼の顔どんなだった~? 見たんでしょ~? イケメンだった~? ねえ?」


 思惑の世界に落ち込んだシルヴィアを肘で突きながら、シャルルがクフフと笑う。


「む? そう言えば部屋の中でもあの格好じゃったの……。何かそれも理由が有りそうじゃが……」


 九郎は朝食の際にも顔や頭を覆っている布を取ろうとはしなかった事を思い出し、シルヴィアは再び唸る。

 初めてこの街に訪れた時には別段顔を隠していた訳では無かった筈だが、その後の格好の印象が強すぎて、九郎と言えば布を巻きつけた青年だと記憶が塗り替えられてしまっている。


「気になるんだったら本人に聞けば良いじゃない? シルヴィはずっとそうして来たんでしょ~?」


 難しい顔をして唸なっていたシルヴィアにシャルルがのほほんと告げる。

 ハタと顔を上げたシルヴィアにシャルルはニコニコと笑顔を向けている。


 確かにそうだと思えた。

 シルヴィアは疑問に思った事、不思議に思った事は考え、分からなければ誰かに聞いて知識を得て来たのだ。

 ならば今考えている事も本人に聞けば良いだけだ。答えが得られなかった時はまた考え直せばいい。


「そ、そうじゃの! 分からんかったら聞けばよいだけじゃの。それじゃあちと行って……」


 そこまで言いかけてシルヴィアはシャルルの笑みの中に、野次馬の嘲弄ちょうろうを見つける。


「シルヴィったらあの子にそんなにはまっちゃったの~? 連夜やりたいだなんて~。も~えっちぃ」

「ち、違うんじゃ、シャルル! 別にあ奴とは何もしとらん。別にやましい事などしとらんぞ?」

「も~。やましいことじゃなくてヤラシイ事したんでしょ~? 照れなくってもいいのよ~?」

「ち、違うんじゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 暑さにあえぐ街の中にシルヴィアの声が大きく響いていた。


☠ ☠ ☠


(おっ! いたいた……)


 シルヴィアがシャルルの勘違いを正せぬままアワアワしていた頃、噂の渦中の人物はその二つ名に違わぬ格好で森の中に潜んでいた。

 極彩色の布に包まれた九郎は密に生い茂る熱帯の植物の陰からじっと先を見つめている。

 その手には2匹の大型の鰐を引きずり、一仕事終えた未開の蛮族と間違われそうな格好だ。

 だが、九郎は仕事を終えてはいなかった。

 お目当ての物を見つけた九郎は仕留めた鰐をその場に置くと、いそいそと準備にとりかかる。


 大型の鰐――『大顎コベット』は九郎にとっては容易く狩れる魔物の筆頭だ。

 河に足を浸けて寝転んでいれば勝手に襲い掛かってくるのだから。

 脚だけ引きちぎって持って行く事もあれば、体ごと水の中に引きずり込んで行く事もある。

 そうなれば体を麻痺毒や睡眠毒に『変質』させて仕留めるなり、引きちぎられた足を『修復』して引き寄せるなりして仕留めれば良いだけだ。

大顎コベット』は九郎にザリガニ釣りの要領で釣られている可哀想な魔物であった。

 だがこの『大顎コベット』には欠点があった。

 肉が固いのである。

 革は素材屋に買い取ってもらえるので食べる事はしないが、肉は固過ぎて売り物にならない。

 だが仕留めた獲物を無駄にする事は、この世界に来てからベルフラム達と過ごしてきた生活が有るが故に出来ないでいた。一緒に暮らしていなくても、ベルフラムに怒られる気がして。

 だから九郎はどうにかこの固い肉を美味く出来ないかと思案を重ねた。

 そして九郎は研究に研究を重ね、色々な方法を試した結果、肉を酵素で柔らかくすれば良い事に気付いたのだ。


「やっべ、壺持って来んの忘れちまった!!」


 茂みに潜みながら準備をしていた九郎は、目元を覆って自分の迂闊さを嘆く。

 在庫の量を思い出しながら渋面した九郎だったが、まあそれならそれでと気分を取り戻すとやおら体を覆っていた布を外し始める。

 肩から羽織るように重ねていた色とりどりの布を全て外すと、今度はズボンに手をかけ一気に引き下ろす。

 九郎のクロウが白日の下に晒される。

 そして最後に顔や頭を覆っていた布を解きほぐすと、マッパな黒髪の青年が姿を現す。


「じゃあちょっとお邪魔しますよっと……」


 温泉にでも入る様なセリフを呟きながら九郎は茂みから身を翻す。

 そして目の前でプルプルと震えている巨大なゼリー状の物体に近付いて行く。


大顎コベット』の肉を柔らかくしてくれる酵素を持つ、『スライム』である。

 何でも融かし尽くして喰らい尽くすこの『スライム』の酵素は、水で薄めて肉を浸しておけば驚くほど肉を柔らかくしてくれるのだ。

 大きさは指先ほどのものから、見上げるほどのものまで様々だがその全てに共通して足が遅い事が挙げられる。

 動きの鈍い魔物など九郎にとっては雑魚同然である。

 動きの鈍い魔物と、向こうから襲い掛かってくる魔物は九郎にとっては容易く狩れる雑魚なのである。


 知覚など存在しないかの様に植物や虫などを捕食していた『スライム』に、九郎は突っ込んで行く。

 触れた指先がにわかに泡立ち、見る間に崩れて行く。


「ちょっと癖になっちまうんだよなぁ……。このシュワシュワ感……」


 一人言ちりながら九郎は躊躇いなく体を『スライム』に沈めて行く。

 何度も『スライム』に溶かされた九郎の体は『スライム』の酸に対する耐性はとっくの昔に得られているのだが、今はその耐性――『ヘンシツシャ』の『|神のギフト』は発動させていない。

 何故なら今の九郎に必要なのは『スライム』の酵素である。

 体を『スライムの酵素』に『変質』させて肉を柔らかくする事も可能なのだが、その場合暫くの間その肉に掛かりっきりになってしまう。

 それよりもその酵素自体を削り取って利用した方が何かと都合が良い。

 それに九郎も、『男が抱いて柔らかくした肉』と言う字面のヤバいものを好んで食べたくはない。

 まあ、『男の体から出る液体で柔らかくした肉』とどちらがマシなのかは、考えない方向で行くつもりなのだが……。


 そんな事を考えながら数分過ごすと、最初は薄緑色のゼリーだった『スライム』が赤黒く変化していた。

 餅の中に封じ込められたような抵抗を掻いて、何気なく自分の腕を見る。

 肉はすっかり溶け落ち、白い骨だけが視界に入る。


「おう! 今日も健康的な良い骨だぜ!」


 赤黒く変色した『スライム』の中で、骨格標本と化した九郎がカタカタと満足気に笑う。

 血肉は全て融かし尽くされ、『スライム』の体中を廻っている事だろう。


(核玉は金になんだけどなぁ……。ま、いつでも取れっから今日はいいか……)


 この状態で『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』を使えば、九郎の『見えない水筒』に全て吸い込んでしまう事になる。

『スライム』の『核』を手に入れる場合は、体を炎に『変質』させれば良いのだが、その場合はこのゼリー状の液体は全て沸騰して使えなく無くなってしまう。

 酵素が欲しければ『核』は諦めるしか無く、一挙両得と行かないのが辛い所だ。

 だが、『スライム』は大森林には数多く生息しているのだから、そこまで気にする事でも無い。


(んじゃ『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』!!)


 九郎は骨の表面が溶けはじめざらついてきた事を確認すると、『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』を発動させる。

 瞬く間に溶かされ、分解された細胞が九郎の体へと集まって来る。

 赤い光が輝いたのは一瞬の事で、その後には全裸の九郎がポツンと佇んでいるだけだ。


「んじゃ、帰って飯にすっかな。おっ! 茸はっけ~ん!!」


 コキと首を鳴らして九郎はズボンを履いて顔を布で覆うと家路に向かう。


 九郎は頻繁に街に行くことはしない。

 街に住む事も選択肢に無い。

 それは自分が『化物』と自覚しているから。

 親しくなった人が自分を恐れる姿を見たくはないから。

『化物』と排斥された時に迷惑をかけたくないから。


 だが一人でずっと過ごして行けるほど九郎の心は強く無い。

『化物』であるがために孤独を選択しながらも、九郎の『人』である部分は孤独に耐えられない。

 だから街から外れた場所に住んでいるのだ。

 直ぐに逃げ出せるように……。だけど直ぐに出会えるように――。

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