第112話  命


「………………ク…………ロ……………」


 横殴りの朝日が暗闇に包まれていた穴の中まで差し込んで来て、その暴力的な光が顔に掛かりベルフラムが薄っすらと目を開ける。

 零れた涙が乾いて張り付いた瞼がひりひりと痛む。


「…………!! クロウッ!!!」


 寝言で呟いた自分の声でベルフラムは一気に覚醒し飛び起きる。

弾丸兎バレットラビット』の巣穴に差し込む朝日と冷たい風が頬を撫でる 中、ベルフラムは顔を青ざめさせながら体を起こし周囲をキョロキョロト見渡す。

 春先の冷たい風の所為だけでなく、昨夜の事を思い出して両肩を抱いて身を竦ませたベルフラムは胸元のブローチを握りしめる。

 ケープの様に羽織った毛織物を胸元で留めるのに用いている木彫りの鴉のブローチはいつもベルフラムが身に着けている大事な物だ。

 バザーで買ってもらった九郎からの贈り物はベルフラム達4人はいつも何処かに身に着けている。

 このブローチと胸元のペンダントはベルフラムが片時も離さない大事な宝物だ。

 握りしめる事で不安をいくらか振り払いベルフラムはゆっくりと体を立たせる。


 昨日九郎が出て行ったのは夜の初めの頃だ。朝日が昇っているのにまだ近くにいないという事はそれだけで心を重く、窮屈にしていく。

 慌てて外へ出ようと足に力を込める。

 九郎は一人でおびただしい数の『竜牙兵ドラゴントゥース』と雄一を相手に戦うと言って出て行ったのだ。例え九郎が『ベルフラムの英雄』と信じていても、もう丸二日無休で戦い続けている九郎の身が心配で堪らない。


「クロウッ!!!」


 叫びながら飛び出そうとした足が力を無くしたかのように縺れ、ベルフラムは地面に倒れ込む。

 土と枯れた草の感触が両手を伝う。

 11歳と言う若さで歩き続け、戦い続けた体はそう簡単に回復してくれない。

 只でさえ魔力はあれど体力的には貧弱なベルフラムにとって、一日以上戦い続け ――途中で九郎の胸で眠ったりはしていたが――何度も魔力切れで倒れてしまった体は自分が思っている以上に疲労していたのだろう。


 だがそれがベルフラムの足を動かさない理由とはならない。

 這ってでも傍に居ると願った気持ちに嘘が無いように、ベルフラムは必死に体を起こし引きずるように光を目指す。

 そのベルフラムのドレスの裾が小さく引かれる。

 何かが引っかかったのかと煩わしそうにドレスを見たベルフラムの瞳が僅かに歪む。

 喜びと安堵と慈愛と寂しさとをごちゃ混ぜにした泣き笑いの表情を作ったままベルフラムは動きを止める。


「デンテ……」


 ベルフラムのドレス裾をしっかりと握りしめたまま静かに眠りについている小さな少女の名前を呟く。

 まるで大事な物を抱え込むようにして丸く蹲りながら、ベルフラムのドレスを握る少女の目尻にも涙の痕が残っている。不安と恐怖を感じながらも暗い穴の中で一晩中ベルフラムの側にいたであろうデンテの姿が、愛おしく感じると共に、守らなければと言う気持ちも込み上げてくる。

 だが、同時に九郎の元へ駆けつけて行きたい気持ちも多分に有り、ベルフラムは自身の気持ちの中で揺れ動き狼狽える。

 本心を言えば今すぐ飛び出して行きたい。例え這ってでも、足が動かなくても少しでも九郎の近くに寄り添いたい。

 だがデンテがベルフラムの側でベルフラムの服を握っていると言う意味を理解してしまったが為に、逆にベルフラムはその場を離れる事を躊躇ってしまう。

 デンテがベルフラムの傍に居るという事は、デンテがベルフラムを守る任を負ったと共に、ベルフラムもデンテを守るのだと九郎に言われているのだと気付いてしまったからだ。

 それでなくても幼いデンテを一人残して戦闘に赴く訳にもいかない。

 その考えがベルフラムが強引に穴倉を飛び出す事を躊躇わせたのだった。


「クラヴィス?」


 そこでベルフラムはもう一人の獣人の家臣の名を呼ぶ。

 幾ら朝日が差し込んでいるからと言っても、この場所は『弾丸兎バレットラビット』の巣穴の中だ。

 穴の入り口は草覆われる様に気持ち程度に隠されているし、届く光は草に遮られて斑模様を作り出しているに過ぎない。

 光が有るからこそその光の当たらない場所は更に見辛く、目を細めて暗がりを見渡す。


「目覚められましたですか? ベルフラム様」

「ひゃっ!」


 クラヴィスの声が思った以上に近くから聞こえて、ベルフラムが驚きの声を上げる。

 クラヴィスは『弾丸兎バレットラビット』の巣穴の入り口近く、一等影の濃い暗がりで、一人片膝で立ちながら外を伺っていた。今にも飛び出していきそうな、そんな体勢にも見えた。

 振り返ったその顔は優しげであったが、目に酷い隈を拵えている。

 クラヴィスは一晩中寝ずにベルフラム達を見守っていたのだろう。

 外の音を警戒し、湧き上がる不安と恐怖を抑え込みながら必死でベルフラムとデンテを守ろうとしていたのだろう。

 責任感も献身も人一倍以上にあるクラヴィスは、九郎から言われた事を必死でやり遂げようと番をしていたようだ。


 自分が眠らされた後の事を知らないベルフラムだったが、クラヴィスの献身的な行動だけは直ぐに悟り、申し訳なさそうに視線を向ける。

 その視線に気付いたのか、クラヴィスは眉を下げてこちらも申し訳なさそうな視線を投げかけてくる。

 どうやらベルフラムに心配をかけてしまった事自体を、申し訳なく思っているようだ。


「誰かさんのお陰でぐっすり眠ったから魔力もある程度回復したわ。それよりクロ……」

「とーちゃ……クロウしゃまっ!!!」


 強制的に眠らされた事を暗に責める様に言ったベルフラムの言葉には、暗い気持ちを振り払う意図が含まれていたが、その強がりをクラヴィスが悟る前に奥で寝ていたデンテが寝惚けたように跳ね起きた。

 まさに先程ベルフラムがしたのと同じような起き方に、デンテも夢の中でまで九郎を追いかけていたのかと複雑な心境になって来る。

 限界に近い状態だったにせよ、大事な人だと全員が認識しているのは間違いないのだ。

 なのに自分達を守る為にと、たった一人で絶望的な状況に身を投じた九郎に対して、怒りにも似た感情を覚えてしまう。


(クロウは自分だけだったら大丈夫って……。いっつも危ない所に一人で突っ込んで行っちゃうし)


 昨晩の九郎の行動だけでなく、レイアが湖に引き込まれた時や、雄一との決闘を申し込んだ時を思いだし、ベルフラムは自分の中に溜まって来る怒りの感情に理由を付ける。

 その怒りが、九郎が自分が九郎の事を心配している事を理解してくれないが為の遣る瀬無い気持ちの裏返しだと分かっているのだが――。

 誰もが九郎を一人で行かせるくらいなら共に戦う事を望んでいたと言うのに、その気持ちを蔑ろにされた気がしてしまう。

 九郎を失ってしまっては生きてはいけないと思う程好きになってしまっていると言うのに、自分一人で戦いの場に赴かれる事がどれ程悔しく力の無さに打ちひしがれるかを九郎は分かっていない。

 ベルフラムは『大地喰いランドスウォームーム』の穴から帰還して以来、九郎の役に立ちたい一心で魔法の鍛錬を積んでいた。

 今迄はどうにか自分の力を周囲に認めさせるためにと培ってきた魔法だが、九郎と過ごし始めてからのベルフラムの魔法への研鑽は全て九郎の為と言って良い。

 水を温める九郎の負担を減らしたくて熱を留める魔法、『アブレイズ・フラム』を編み出し、自ら攻撃できない状況下でも害されたりしない為に『トゥテーラ・フラム』を編み出した。

 雄一の無詠唱魔法に気が付いたのも、水の中では九郎を助ける事すら出来ないと思い知って練習を重ねていたからだ。ベルフラムも無詠唱魔法を使えるようになっている。ただ魔力効率が悪いので言葉を発せない状況にならない限りは使わないだけで。

 兎にも角にもベルフラムは九郎を第一に置いて行動原理を決めていた。


 これほど想っていて、これ程献身していると言うのに、その九郎にはどうにも子ども扱いしかされていない現状が悔しく感じてしまう。

 戦いの場に一人で赴いた九郎の、「自分達を危険な目に遭わせたくない」と言う気持ちはベルフラムも気付いている。

 だが自分は九郎のモノだ。身も心も捧げた身だからこそ守られるばかりでは無く、共に戦いたいと思ってしまう。それは自分に対して献身を見せるレイアやクラヴィスと同様の気持ちだと、どうして理解してくれないのだろうか。


「まったく……。クロウは本当に淑女レディーの心が分かっていないんだから……」


 ベルフラムは九郎を心配する自分の気持ちを慰める様に呟く。


「そ、そりゃあスマンかった……」

「え?」


 独り言に対する言葉が返ってきてベルフラムが驚いて顔を上げる。


「ん?」


 朝日が差し込む『弾丸兎バレットラビット』の巣穴の縁に手を掛け、中を覗き見る様に九郎が顔を出した。

 優しげな目元と申し訳なさそうに下げられた眉。その顔が涙で滲んで見えなくなってしまうのをベルフラムは懸命に堪える。

 今泣いてしまえば九郎の顔が見えなくなってしまうと目を見開き、泣いてしまえば声が聞こえなくなってしまうと口元を引き結ぶ。


「クロウ……!」「クロウ様っ!」「とーちゃ!!」


 朝日の射し込む九郎の顔はまたしても逆光で良くは見えなくなった。

 だがその顔は何時でも思い出せる顔と寸分たがわぬのだろう。

 クラヴィスがベルフラムの腰に手を回して九郎の元へと駆け出す。

 デンテが飛び起きて九郎の元へと駆け出そうと横を通り過ぎ、後ろに引っ張られるように転ぶ。


「デンテ…後」「………あい……」


 クラヴィスがデンテの尻尾を踏んづけて引き止めた形だ。

 言葉少なく交わされた姉妹の様子から、九郎に抱きつく一番手をベルフラムに譲ってくれたのだろう。

 デンテの少し不貞腐れたような顔。呆れるくらいにベルフラムの心を見透かしているクラヴィスに思いのほか赤面してしまったベルフラムだったが、今この時だけはその思いに甘えさせてもらう。

 逆光に陰る九郎の顔が苦笑を浮かべたような気がして、ベルフラムも目を細める。


「おかえり……クロウ……」


 ベルフラムの腰を支えていたクラヴィスの腕の力が弱まり、ベルフラムは倒れ込むように九郎の腰に抱きつく。


「ただいま……って? お、おいっ!?」


 九郎の狼狽えたような声が頭から降って来るが気にしない。

 背中に手を回し、顔を腰に埋める様に擦り付ける。

 頬に伝わる熱が九郎が生きて戻って来た事を言葉無く語り、手に伝わる形が九郎がここにいる事を伝えて来る。

 それが何より大事で愛おしくてベルフラムの頬に涙が伝う。


「クロウ……クロウ……クロウ……私の……私の『英雄』……」

「お、おい……ベル……。ちょっと待てって……」


 噛みしめるように名を呼び、熱を貪るように体を寄せるベルフラムに、九郎の焦りに満ちた声が掛かる。

 だが、その言葉に従うつもりは無い。今までどれ程心配だったかこの男は分かっていない。自分がどんな気持ちで目覚めたのかを分かっていない。自分がどんな覚悟で九郎を止めたのかを分かって欲しい。

 いや、九郎はベルフラムの覚悟は分かっていただろう。だから強制的に眠らせると言う乱暴な手段に出た事位ベルフラムは分かっている。


(――でも、私が……どんだけあなたを好きなのかは分かってくれてないわ……)


 自分の身を案じての行動なのはベルフラムは分かっている。だが九郎はベルフラムの覚悟の気持ちを分かっていながら、一人で雄一と戦う事を選んでしまった。それは自分の力が足りない事も原因なのは分かってはいたが、それでもただ守られるだけの存在にはベルフラムはなりたくはないと思う。

 ベルフラムは九郎の為に何かがしたいと願っている。

 自分の欲を表に出さない彼だからこそ、その気持ちを汲み取りたいと思っている。

 ただ守られるだけの存在はやがて重荷となるのではないか。

 そんな小さな恐れの感情もあり、ベルフラムは九郎に必要とされたいと魔法を研鑽していたのだから。


(この温かさが私を安心させてくれる……。この力強さが私を前へと進ませてくれる……。このモフモフが私を………ん? モフモフ?)


 ひとしきり九郎の体温を堪能し終えたベルフラムが、普段感じた事の無い感触に疑問符を浮かべる。

 抱きついたのは腰だったはずだ。現に回した掌はあの『竜牙兵ドラゴントゥース』を倒して来たとは思えない細い腰の感触を伝えている。力強さを感じさせぬ見た目と裏腹に、九郎がとても力強く感じるのはベルフラムが九郎の強大な力を知っているからであって、九郎の腰つきは戦士のそれではない。だからこそ回された掌は確実に九郎の腰を捉える事が出来ているのだから。

 だがそうなると頬に感じるごわごわとした感触は少々おかしい。

 それに同時に頬に感じる言いようのない柔らかい感触も。

 戦う者の筋肉では無い九郎と言えど、身体つきは成人男性のそれで硬く筋張った感じの筈だ。

 それはいつも抱きついて寝ているベルフラムだからこそ確信を持って言える。

 そして直に感じた体温と言うのも考えてみるとどうにも解せない所がある。

 ベルフラムは涙を溜めたまま九郎を見上げる。


「……今度は謝んねえかんな…………でもクラインさんには黙っててくれ……」


 言葉と裏腹にどうにも居心地の悪そうな九郎の顔が目に映る。憮然とした表情を浮かべながらも、どこか後ろめたさを感じている様な微妙な表情が。


  キン!


そんな音が鳴るはずも無いのに甲高い金属音が聞こえた気がした。


「ぐ…………おメェ………。雄一の魔法よりいてえ……」

「ど、どうしてあなたは目を離すと、いつも全裸になって戻って来るのよっっ!?」


 股間を押さえて蹲る九郎に向かってベルフラムが怒鳴る。

 耳まで顔を赤くしているのは仕方の無い事だ。

 互いに裸など見慣れていた為今迄それ程羞恥の感情を覚えていなかったベルフラムだが、流石に突然目の前に九郎のモノが現れて思わず拳を突き出してしまっていた。

 見慣れたと言っていてもベルフラムの強がりや複雑な感情も含まれての事だ。

 心の準備も無くいきなり飛び込んで来ては驚いてしまう。


 朝日の逆光で気付かなかったが、九郎は何も身に着けていなかったのだ。

 ズボンそんげんも何もかもを――。



「なんだか出会った時の再現みたいだわ……」


 ベルフラムがそう言いながら羽織っていた毛織物を解き、九郎に向かって投げやる。

 朝日を浴びて全裸で登場した九郎の姿は衝撃的だったと、頬に熱を感じながら思い出に目を細める。

 そして羞恥の心を覚えろと口を酸っぱくして言ってくる九郎の方が、何かと破廉恥な気がすると、ジト目で見下ろす。

 体に傷一つ見当たらない事でベルフラムは心の中に渦巻いていた心配の念が綺麗さっぱり拭われていた。

 同時に傷一つ無いと言うのに衣服だけはなくして来る九郎の不思議さに、呆れと驚きが湧いてくる。


「あん時は顔面蹴られたなぁ……。何気にベルって酷くね? 俺頑張ってたんだぞ!?」


 九郎が憮然とした表情を浮かべながらベルフラムを指さす。

 股間に向けて放られた毛織物を纏おうとしない所に、九郎の羞恥の心の欠落が見られる気がしてベルフラムも眉を顰める。だがその表情は怒りながら笑い、責めながら許しているような喜怒哀楽が入り混じった表情だ。

 ベルフラムは今の言い合いや九郎の文句の言葉すら愛おしく感じてしまう程感情の渦が溢れていた。


 一人で戦いの場に赴く九郎の後姿を見て、ベルフラムは今生の別れの予感を感じていた。

 今九郎を行かせてしまえば、九郎が戻ってこない気がして必死で止めようとした。

 その嫌な予感が杞憂であった事がベルフラムの心を喜びと感激で満たしている。

 怒りの感情さえ喜びの感情で塗り替えられてしまう為、怒っているのに顔が綻んでしまうのを止められない。


「知ってるわ。クロウはいつも頑張ってくれてるもの。一人で皆の為に……。誰も傷つかないようにってね? でもクロウも分かって欲しいわ。私達はクロウも傷ついて欲しくないのよ? 一人で皆の傷を受け持とうだなんて考えないでよ……。強大な魔物の一撃も皆で止めれば一人一人の傷は浅くなるわ……。私達じゃ力不足かも知れないけれど、少しでもクロウの負担を減らせるようになっていきたいと思っているの。

人は一人では生きていけないって……ひとりぼっちじゃ寂しいって……言ったのはクロウでしょ?」


 九郎に出会うまで「誰も自分を見てくれない」と孤独に怯えていたベルフラムが、くしゃりと顔を綻ばせる。

 自分が訴えた事も有る言葉は、ベルフラムを励ますために九郎が言った言葉でもある。

 長い闇の中を彷徨い、生きる事を諦めたベルフラムに「なんとしてでも生きて欲しい」と九郎が言った励ましの言葉はベルフラムの心に楔の様に打ち込まれている。

 ベルフラムが自分を指さす九郎の手をそっと触れる。

 頬に触れる指先を愛おしげに眼を瞑って抱きしめる。


「食事も寝るのも、お風呂だってずっと皆一緒だったでしょ? 今更危険な事だけ一人で背負いこもうだなんて虫が良すぎるわよ。分かった?」

「…………善処する……」


 ここで承諾しないのが九郎なのだとベルフラムは呆れの感情を顔に出すが、その顔も綻んでしまうのだから自分の感情もどうしようもない。守られると言う安心感は、恋する少女には甘すぎる劇薬なのだと自分自身で辟易してしまう。


 次は体力の向上を目指さなければと心に誓いながら、ベルフラムは九郎の手を引く。

 分かってくれないからと言って諦める気は、毛頭ないのだから。

 不敵な笑みを浮かべつつ座り込んでいる九郎を引く手に力を込める。

 自分ばかりが九郎を独り占めしていては、クラヴィスやデンテが可哀想だ。

 まずは九郎を支えられる位の力をつけなければと足を踏ん張るベルフラムに九郎は苦笑を返して来る。


「もうっ! 立てなくなっちゃうくらい強く叩いたつもりは無いのに……」

「お前……ベルにはねえもんだがアレはデリケートなんだよっ!!」

「丈夫なんでしょっ!? か弱い淑女レディーの一撃でへたり込むなんてもう……そんなんだから心配しちゃうんじゃないっ…………きゃっ!!?」


 不満を口にしながらも楽しそうに笑みを作るベルフラムに、九郎が不満を口にする。

 その言葉に弾んだ声で返したベルフラムが突如失った重さに小さく悲鳴を上げて尻餅をつく。同時に湯のような熱い水が降ってくる。――ベルフラムの視界が赤く染まる。


「「え?」」


 九郎とベルフラム、二人が出した声が重なる。

 ベルフラムは腕に抱いた物と九郎とを交互に見やる。声にならない驚きの声が喉から荒い息となって漏れる。

 九郎も同様に自分の胸から突き出ている銀色の物体を、驚きの表情で見ている。


 腕を伸ばした状態の九郎の左肩が、赤くどす黒い血を噴き出した状態でベルフラムの目に映しだされていた。

 ――腕はその主と別れたままベルフラムの胸に抱かれているというのに。


 辺りにむせ返るような血の匂いが充満する。

 九郎の肩から噴水の如く噴き出した血潮は、尻餅をついたベルフラムの体を赤く赤く染めていく。


「え? え? え?」


 やっとの事で口から零れた言葉は何の意味も持たない困惑の言葉。

 九郎の胸から突き出た銀の刃は、確実に九郎の心臓の位置を捉えている。

 酷く現実感の無いぼんやりとした感覚がベルフラムを襲う。目の前に広がっている光景が夢なのかうつつなのかの区別がつかない。抱いた腕の温もりは九郎の命の熱を未だに伝えていると言うのに、目の前に映し出された光景は九郎の死を語っている。

 じんわりと広がって行く絶望と悲しみの感情は、一つの震える声によって怒りへと姿を変える。


「ベルフラム様から離れろっ! この化物がっ!!!」


「―――――――レイアっ!!!」


 金の髪を赤く染め、九郎の背中に抱きつくように体を寄せたレイアに向かって、ベルフラムは絶叫していた。

 チラリとベルフラムを伺ったレイアの瞳には、青く澄んだ色を静かな恐怖で濁らせていた。


☠ ☠ ☠


「置いて行かないでくださいっ! 私も……!!」


 飛び起きたレイアは口にした言葉の意外性に自らの本音を突き付けられたと思った。

 口付けで交わされた「連れていけない」と言う言葉が心の中に重く圧し掛かる。

 慌てて周囲に視線を巡らすレイアの心は、焦燥と後悔の念で一杯だった。


(私はベルフラム様の騎士である筈……)


 自らの心に言い聞かすように心の中で呟く言葉は、何の響きも持たずに木霊する。

 目覚めた時に誰を求めていたかなど自分の心が一番良く知っているのだから。

 主の為にと言い聞かせて九郎を止めた自らの行動は、心の中の感情を押し隠す為のまやかしだと自らの心が語っている。

 死なせたくないと願った心はレイアの本心だ。

 いつから自分がこれ程の思いを抱いていたのかと問いただしたい。レイアの心の中が掻き乱れているのは、本心から九郎に思いを寄せているからの他ならない。


「大丈夫ですか? レイアさん」


 傍らからクラヴィスの心配そうな声が掛かる。

 いつの間にか寝かされていた『弾丸兎バレットラビット』の巣穴の中、入り口にほど近い場所でクラヴィスは苛立たしげに外を睨んでいた。

 クラヴィスは鼻をひくひくと動かしながら、焦れた様子で頻りに足を指で弾いている。

 クラヴィスの鼻が濃厚な血の匂いを幾度となく嗅いでいる事をレイアは分からなかった。クラヴィスは今にも飛び出しそうな感情をしきりに自制を掛けて耐えていることも……。

 鼻に香る九郎の血の匂いをクラヴィスは焦燥と理性の間で押し止めていた。

 何度も香って来る九郎の血の匂いは、クラヴィスの主が傷ついている事を伝えている。

 だが、信じて待つと言ったが為にクラヴィスは、動かずにベルフラム達を守っていたのだ。


「ど、どのくらい時間が経ったのですか?」

「―――――もうすぐ夜明けです……」


 入り口から見上げる青い月は既に山に掛かる程落ちている。

 どれ程安穏と寝ていたのかと、レイアは自身の不甲斐無さに叱咤の気持ちが抑えきれない。

 同時にクラヴィスの横顔が凄く精悍な騎士に見えて憧れの念を抱く。

 レイアは今すぐ駆け出したかった。九郎の元へ。

 その思いは外を睨んでいるクラヴィスも同じだと感じた。

 なのにクラヴィスは自分の主、ベルフラムを守る責を負って動かずに外を睨むに留めている。

 人の心を透き通る様に見透かすクラヴィスは、今は九郎の思いを抱いて必死に自身の心と戦っているように見えた。

 自己の念を捨てて主の為に尽くすクラヴィスは、レイアが憧れを抱くほどに騎士の姿を映していた。


「ベルフラム様は奥でまだ眠っています……。未だあの魔物達が此方に登って来る気配はありません……。だから、クロウ様はまだ戦っているんだと思います……」


 悔しそうに唇を噛むクラヴィスの顔が月光に照らされ、レイアは息を飲む。

 両手で足を押さえつける様に止(とど)め、肩を震わせるクラヴィスの顔には悲しみと焦りと怒りが滲み出んばかりだ。

 頻りに耳を動かし、鼻を鳴らす仕草をしながら悔しげに外を睨むクラヴィスに、レイアは九郎が生きている事と傷ついている事を悟らせる。


「クラヴィスさん……」


 レイアは戸惑う素振りを見せながらもはっきりとした声でクラヴィスの名を呼ぶ。

 ビクリと体を震わせたクラヴィスは目を見開いてレイアを見つめる。

 そのクラヴィスの目が薄く細められたのを見て、レイアの心臓が跳ね上がる。

 たった一言、それだけでレイアの気持ちを全て見透かしたような笑みを向けたクラヴィスに、畏敬の念すら覚えてしまいそうだ。


「いつか言った言葉は……効きすぎちゃいましたね?」


  少しだけ寂しげな眼を向けたクラヴィスがポツリと溢した。


「私だってこんな・・・になるなんて思っても見なかったですよ……」


 レイアが照れたようにクラヴィスの視線から逃げる。

 自分ですら思っても見なかった思慕の念が、レイアの足を動かすに至っていた事がどうにも面映ゆい。

 しかも、戦う事すら不可能だと思ってしまった脅威に対して、その感情で覚悟を決めてしまった事も、自分ながらに信じられない。

 名前を呼んだ声色だけでクラヴィスはレイアの覚悟を見透かした。

 これから自分が赴く先を。立ちはだかる脅威を。

 だから悲しげな眼を向けたのだ。

 生きて帰れぬかも知れない死地へと向かう決意を決めたレイアに対して。


「私は盾だってクロウ様に認めてもらってる筈なんですけどね」


 レイアは照れ隠しの様に襟元を飾るブローチを見せる。

 盾を象った木彫りのブローチが月光の中淡い色を映し出す。


「私はベルフラム様の騎士……。ベルフラム様に降りかかる全ての悲しみから守る盾でありたい……今でもそう願っていますから……」

「もっと素直にならないと可愛くないですよ?」

「ほ、ほっといてくださいっ!!」


 言った言葉は本心からだが、それだけで無い事すら見透かされてしまって、どうにも締まらない声を上げてしまう。

 この足を動かすのはベルフラムの為だけでは無い。

 自分の思いも含まれているのだから……。


「守られるって……守られるって結構つらくて……嬉しいものなんですよ……。クロウ様……」


 立ち上がり駆け出したレイアの口から懐かしい言葉が零れ出た。

 その呟きはクラヴィスの耳を微かに動かし、風に消えて行った。


☠ ☠ ☠


(…………何? ………これは…………?)


「はっはぁー!! とっとと次々来やがれってんだっ!!」


 薄く白む山間の光を受けて照らし出されたソレは、思っていた物とは酷くかけ離れた物だった。

 目の前に映し出されたのは、襲撃を受けてから何度も絶望した脅威では無く――純粋な恐怖であった。


(私は………いったい何を見ているの………?)


「そうそう! 遠慮なくってくれや!! 時間が押しちまってっかんな!!」


 楽しそうとすら思える声を上げながら、九郎が一人戦っていた。

竜牙兵ドラゴントゥース』の剣に身を晒し、血まみれの肉塊となって……。

 赤い光を纏い怒声と狂奔の声を出す九郎の姿は、一人の『英雄』の姿などでは無く、『不死』を象る魔物と見えた。


(これは……夢? ………私は……悪夢を見ているの………?)


 震える足が力を無くして地面へと崩れる。

 レイアの目の前に映し出された光景は、悪夢と言うのも生易しい、まさしく地獄と呼べるものだった。


 ズブリと腹に突き刺さった剣に九郎が目を細めている。

 痛みなどでは無く、喜びの笑みを浮かべて。


「いいねぇ!! 協力的な奴じゃねえか!」


 九郎が刺さった剣を歓迎するかのように両手を広げて声を上げる。


(アレは………誰………?)


 木立の間、震える視線が捉えるのは間違いなく九郎の姿だ。

 騎士の物語を突き破って姿を現した、神々しいとすら思えた九郎の姿の筈だ。

 憧れ、慕情の念を抱いた九郎の筈なのだ。


竜牙兵ドラゴントゥース』のは九郎の声に促されるように剣を横に払う。

 ビチャビチャと水が滴るような音を立てて、九郎の体からピンク色の内臓が零れ落ちる。


(アレは………何?)


 九郎だと頭が理解していると言うのに、全くの別だと認識している様な、酷く朧気で歪んだ光景がレイアの前に広がっている。

 身を案じて駆けつけたのだ。この命すら惜しくないと、力になる為に駆けつけた筈なのだ。なのに今すぐ駆け寄って癒しの魔法を使うことすら、頭から綺麗さっぱり忘れ去られている。

 レイアの背筋に冷たい汗が伝い、心を真冬の様に凍らせていく。

 それ程までに目に映る全ては禍々しく、狂気に満ちていた。


 崩れ落ちたレイアの足元に生暖かい水が満ちる。

 恐怖のあまりに自分の体が弛緩した事すら今のレイアには気付けない。


「まさか自分の内臓で投網をすったあ思わなかったぜ!!!」


 酷く不吉なセリフを吐きながら、九郎は自らの腸を掴み、盛大に撒き散らす。

 血が、肉が、腸が九郎に集う黒い骨に降り注ぐ。


「じゃあ、そろそろ一回閉めさせてもらうぜ!? 『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』!!」


 九郎の叫びと共に赤い光は輝きを増す。

 伸ばされた赤い糸が縦横無尽に広がって行く。

 一瞬の間に広がりを見せた糸は手繰られるように九郎の体へと吸い込まれる。

 何もかもを伴って。


「あと半分って所かぁ? まったく無駄に頑丈に出来てやがんな!? お前らよぉっ!!!」


(…………化物……)


 黒い骨を啜るように吸い込んだ九郎が、凶悪な笑みを浮かべていた。

 傷一つ無いレイアも見慣れてしまったいつもの九郎の裸体が現れる。


 いつもの九郎・・・・・・。寸分狂わぬ姿形……。生命に溢れんばかりの声。

 なのにレイアの目にはそれは全くの別物として映る。

 恐ろしい『不死』の怪物として……。


 四肢を失い、羽をもがれた羽虫の様に這いずり動く『竜牙兵ドラゴントゥース』を九郎が掴みあげる。その顔面を齧り取る。


「腹の中には招待できねえんだけど、我慢してくれや!」


 赤い粒子を口元から吐き出しながら九郎が更に笑みを作る。

 異物や毒を体の内側で削り取る力で以って『竜牙兵ドラゴントゥース』を滅ぼそうとした九郎の行動は、レイアの目には『不死』の魔物を喰らう『不死の怪物』にしか映らない。


「何だったらお前らも試してみっかぁ? 『超絶エクスブロー美人ドボムシェル』!!」


 興奮した様子で九郎が吼える。

 言葉と同時に九郎の体が弾け飛ぶ。

 腕も、足も、首も――――。

 礫を撒き散らして弾け飛んだ九郎の四肢を『竜牙兵ドラゴントゥース』が切り刻み細切れにしていく。


「ああ! こっちのが効率いいねえっ!! 遠慮なく刻んで広げてくんなっ!!」


 剣に串刺しにして掲げられた、顔面の半分を削られ脳漿を零れさせた九郎の首が、歓待の声を上げる。


 それは――『死者』と言うには五月蠅く、『生者』と呼ぶにはあまりにかけ離れた『不死』の化物の姿であった。

 そこにあったのは――『命』を冒涜するほどの狂気に満ちた歪んだ世界――。


 レイアは震え、怯える事しか出来なかった。

 命を持たない『化物』同しの戦いは目の前で地獄の様相を繰り広げ、狂気と喧騒の声は静かな朝日を受けながら、その終わりの無い戦いに終わりを告げようとするのを、ただ震えて見ているだけだった――。

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