第111話  アンデッド


「「「「「「「「「「「

      『八方美人ユニバーサルフロット』!!!!

                」」」」」」」」」」」


 九郎の細胞全てが上げた小さな声が折り重なり大音響となって周囲の空気を震わす。

 青褪めた雄一の目の前でその異様な光景はさらに異様さを増す。

 赤い霧の様に漂っていた塵と化した九郎が繰り出した技、『八方美人ユニバーサルフロット』はその範囲にいた全てを巻き込んで収縮する。

竜牙兵ドラゴントゥース』はおろか、岩も土も木々も草も、空気さえ削り取りながら一つの場所へと戻って行く。

 足首だけを残してその姿を消滅させたように見えた九郎が、その足首の元へと時間を巻き戻すかのように形を作って行く。

 ズタズタの肉片と化していた九郎の足首は、骨が生えて肉が付き、脂肪を纏い肌を着る。

 赤く発光する細かな塵が人の形を作り出して行く。


「ひっ…………」


 雄一の喉から引きつった声が漏れる。

 赤い霧の範囲から逃れ、後ずさったにもかかわらず引き込まれるような風の動きに蹈鞴を踏む。

 空気そのものまで全てを削り取った九郎の『八方美人ユニバーサルフロット』――全方位に繰り出す『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』は、その中にある全てを文字通り削り取り、その空間を無へと変える。


 世界の中にぽっかりと穴が開いた。

 半径20メートル程の半円に向かって周囲の空気が吸い込まれるように集まって行く。

 それほど広い範囲で無かったからか、その時間は長くは無かった。

 だが九郎を中心にして、周囲の小石や草花をも取り込むように吹き荒れる嵐は、雄一の目には恐ろしい怪物に飲み込まれるような錯覚を見せた。


 ――逃げなければ――


 雄一の頭の奥底で本能が囁く。


 だが、どうしても体が言う事を聞かない。

『浄化』の魔法が効かなかった事は明らかだったが、体の9割以上を消し飛ばしたのにもかかわらず復活の兆しを見せた目の前の化け物にどう対抗すればよいのかが全く思い浮かばない。

 それなのに、これまでかけてきた労力と、今迄積み重なっていた増長の気持ちがそれを拒む。


「ふへっ……ふへへっ……」


 手にしたものを失いたくない。

 無駄な労力を消費したと思いたくない。

 全てを手に入れられると感じていただけに、その全てを諦められない。

 雄一の口元からはその気持ちが混ぜこねられた、寂寥の吐息が漏れる。


「さあ、続きと行こうぜぇ?! なあっ!?」


 風が治まりその中心地で九郎が肉食獣の笑みを溢す。

 残っている『竜牙兵ドラゴントゥース』の数は100を数えるかどうか。

 再び九郎の元へと集おうとする『竜牙兵ドラゴントゥース』が、足止め程度にしかならない事は既に悟っている。

 自分の足すら犠牲にして放った、魔力の暴走とも言えるであろう雄一も見た事の無い破壊の魔法でも滅ぼす事が出来なかったのだ。


 体に残っている魔力はもう殆んど無い。

『転移』の魔法を使って逃げ帰るべきだと本能が叫ぶ。

 そう考えた時には九郎は既に駆け出している。

 再び集まり剣を振るう『竜牙兵ドラゴントゥース』の攻撃など避ける素振りも見せず、それどころか自ら当たりに行っている始末である。

 体を刃に晒し、血液を撒き散らしながら向かって来る地獄の使者。

 滅ぼす事も封じる事も出来ず、ただただ歩みを止めない不死の怪物アンデッド


 逃れなければ、距離を取らなければと頭が体に信号を出していると言うのに、震える足はその命令を聞いてくれない。

 これ程まで魔力を消費した事が無かった雄一には、その体が魔力無しで動く事を忘れてしまっている事に気が付かない。

 例え今、仮に足が動いたとしても亀の歩みよりも遅い無様な様子を見せただけに終わる事を分かっていなかった。


「ひぅっ……!!!」


 恐ろしい物から目を背けるように雄一は後ろへと体を捻る。


「どうして俺様がこんな目に合わなきゃいけねえんだよぉ!!!」


 口から漏れ出る悪態は、与えるばかりで降りかかる事の無かった理不尽に対する、忌々しい感想を伴って自らに響く。

『支配』しているコマ達をこの場に引きつれてこなかった事が悔やまれる。

 何も手にしてこなかった生前が有る故に、雄一はこの計略に『支配』した妻達を連れてこなかった。

 一度自分のものとした、しかも生前は憧れるだけで手の届かない存在だった自分の『女』と言うものを失ってしまう事など考えられなかった。

『支配』した者達の目を潰されては、『支配』の力は効力を失う。レミウス領地で『支配』した多くの手駒は既に『支配』を解除されている。

 色事を覚えた雄一にとって、妻とした少女達を失う事は何より耐えられない。

 自分の所有物と化した妻達が雄一の手から逃れて行く事が何より許せなかった。


「命がけで夫を守んのが妻の役目だろうがよぉ! 進んで自分から駆けつけて来いやぁぁぁあああ!!」


 人形と化した少女達に、心を奪った――惚れさせるでは無く文字通り『支配』した――故に自発的な行動など起こせるはずの無いのに都合の良い展開を夢見て、その妄想に裏切られる自分の不運を嘆きながら喚く。


「ごちゃごちゃ五月蠅えんだよっ! 覚悟を決めろやっ! 雄一ぃぃいいいっ!」


 想像する都合の良い展開を踏みしだくように、九郎が『竜牙兵ドラゴントゥース』の檻から飛び出る。

 目を背けたくなる程グロイ……片目に剣を突き刺したまま、右腕を振りかぶる九郎の下半身は未だに『竜牙兵ドラゴントゥース』の囲いを破れていない。

 なのに高く飛び上がった九郎は、上半身だけで雄一に向かって来る。

 ゾルリと零れ落ちた内臓が『竜牙兵ドラゴントゥース』達の頭を濡らす。


「うらぁぁぁぁぁあああああああああっっっ!!!」

「ひぎぃぃぃぃぃいいいいいいいいいいいいいいい!!!」


 九郎が右腕を肩口から後ろに掲げる。

 咆哮を上げて飛びかかって来た九郎に雄一はプライドも何もかもを投げ捨てて『転移』の魔法を発動させる。

 勿体ないとか悔しいとかいった雄一のプライドは、目の前に迫りくる不死の怪物と言う恐怖に諸手を上げて降伏した。

 押し込めていた本能はその全てを投げ出して雄一に『逃げ』を選択させる。


「くたばりやがれぇぇぇぇええええええっ!!」

「来るなよぉぉぉおおおおおおっ! 化物がぁぁぁぁぁああああああ!!」


 怒声と共に上半身のみで襲い掛かって来た九郎の姿に雄一が思わず目を瞑る。

 動かなかった足が思い出したかのように後ろに向かって動き出す。

 だがちぐはぐな動きは雄一の体を支えきれず、貧弱な足腰はただ縺れる様に足裏を宙に投げ出すに留まってしまう。


「ひいやぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!!」


 ガタンと音を立てながら雄一は後頭部を地面に打ち付ける。


「来るなっ! 来るなっ! 俺が悪かったっ! 許してくれぇぇえええっ!」


 顔面を庇う様に涙を流し、目を瞑ったまま雄一は泣き叫ぶ。


「もう手出ししねえって誓うからぁああっ! 関わらないって誓うからよぉぉおおっ! 助けてくれぇぇえ! 死にたくねえっ! 死にたくねぇぇえええ!!!」


 ―――――――――――――――――――――――――?―――――――――


「誓うよぉぉぉおおおっ! だからっ! だから見逃してくれぇぇぇぇえええええっ! 心を入れ替えるからさぁぁぁああああ!!!」


 みっともなく泣き叫んでいた雄一が地面の硬さにふと我に帰る。

 尻餅をついて這いつくばった地面は、草花が僅かに芽を出していた山の斜面では無く、硬く白い大理石の床へと変わっている。

 恐る恐る薄目を開けて伺い見る光景は、夜の青い月の光に不気味に輝くあの赤黒い上半身だけの化け物では無く、豪奢な調度品が並べられた立派な部屋の一室。


「ふへっ……ふへへへへへへえへ……」


 ――助かった――

 安堵の吐息は涎と奇声となって優位tの口から零れ出ていた。

 九郎の拳が届く前に雄一の『転移』の魔法が間に合ったのだろう。

 足を縺れさせた事で予期せぬ動きを見せた事も九郎の攻撃を躱せた一因となったのだろう。

 まだ光の照らさない薄暗らい部屋の中を目を凝らして見渡すと、そこは雄一の屋敷の中の一部屋だと言うのが分かる。見慣れた家具。大きな姿見。どれも金にあかせて雄一が作らせた特注品だ。

 部屋の隅に非常用に置いてあった転移陣が、その力を失い光を弱めていた。


「ふへへへっ……ふひっ………ふはっ……」


 しんと静まり返った屋敷にへたり込んで雄一は嗚咽の様な笑い声を溢す。

 転移陣の光が落ちて行き暗がりを取り戻して行く部屋の中で、雄一は息をするのを忘れていたかのように胸の中に詰まった恐怖を吐き出し、荒く息を吸い込み吐き出す。

 股の辺りが酷く不快だ。

 じっとりと湿った股間が雄一の感じた恐怖の大きさを物語っている。

 だが、生き残った―――。


「ふへっ……ふひひひひっ!! ふひゃひゃひゃひゃひゃ!!」


 安堵の吐息は次第に自身の命の謳歌に変わって行く。

 生き残った――それは今の雄一にとって間違いなく勝利と呼べる。

 魔力も残り少なく、打つ手も全て潰えたあの状態から生き残る事が出来た。

 それは間違いなく雄一の勝利と言って良いと思えた。

 恐る恐る周囲を伺うが、九郎が『転移』に付いて来ていない事は確認できる。

 あの恐ろしい化物は雄一が『転移』した事により大いに空ぶって地面に突っ込んだ事だろう。

 眼前で勝利に逃げられたのは雄一も同じ事だったが、追い詰められさらには勝利の目前で逃げられたであろう九郎の心底はいかがなものだろうか。


「ふひゃひゃひゃひゃっ! ざ、ざまあねえぜぇっ! お、俺様を倒そうなんざ100年早いっつーの!!」


 恐怖から逃れ得た事を実感した雄一が悔し紛れに唾を吐く。

 明らかに追い詰められていたのだが、喉元を過ぎた熱さに気持ちが大きく膨らんでいた。


「あいつの『神の力ギフト』が『不死』だって分かっちまったからなぁ!! 次は対策していきゃあいいだけだよなぁ~? あいつの攻撃力はあの血で削り取る中二っぽい技以外あんましなかったしよぉ? 魔鉄鋼アダマンタイト辺りの硬え箱に閉じ込めりゃぁ出て来れねえだろうよ!!」


 心を焼いていた恐怖による熱さは次第に悔しさへと変化していた。

 今日引いたのは九郎の『神の力ギフト』を見誤ったからだ。対策していけば自分の能力的に恐れる物では無いと自分の心に嘘を吐く。

 雄一も本心では未だに恐怖の感情が拭いきれない。

 塵まで破壊した人間が復活する事などありえる筈が無いと、自分の頭を、目を、心を誤魔化す。


「あいつを動けなくするなんざぁ、簡単だぁ~! 前の時だって人質獲っちまえば直ぐに棒立ちになってたじゃねえか! 甘ちゃんなんだよぉ~!! あいつは死ななかったとしても他の奴らは違え! あ゛~! どうやって詰めてやろうかぁ~! 俺様をここまで虚仮にしやがったんだぁ~! 死んだ方がましってくらい追い詰めてやんねえとなぁ~?!」


 頭に思い浮かんだ非道な計略は、自分に恐怖を覚えさせた代償だとも言う様に自らの恐怖を打ち払っていく。


「あのメイド共を一緒に入れてスライムで包み込むってのも良いよなぁ~? あの削り取る力を使ったらメイド共も一緒にくたばっちまう様にしちまえば、どうしようも無くなるもんなぁ~?! あれがメイド共を見捨てた所で俺には痛くも痒くもねえしなぁ~?」


 自分がこれ程恐怖と屈辱を感じたのだ。それ以上に屈辱と力の無さを感じさせるためにはどんな非道も意に介さないと内から零れる復讐の心を確かにして行く。

 心の片隅では未だ九郎に係わるのは不味いと警鐘を鳴らしているが、最大の恐怖から逃れ得た今の雄一には響いてこない。

 逆にどうすればあの男を徹底的に貶められるかを考え出し、その手段が非道で残虐であればあるほど雄一の興奮は高ぶりを見せる。


「あいつの腕ちょん切ってメイドに縛り付けておけばどうすんだろうなぁ? いや、メイドを『支配』して殺し合いをさせるってのも手だよなぁ~? あいつら全然絶望しねえのがムカつくが、時間を懸けて一人の時を狙えばどうとでもなるっしょぉ? あの姉妹のどっちかの首ちょんぎって、死姦されてる所でも見せりゃぁ、流石に打ちひしがれるだろうしなぁ~? 決めた! その手で行くかぁ~!! 暫く時間を開けりゃああいつらも油断すんだろ? 緩みきった所でドカンとなぁ~!!」


 心の中で毒となって澱んでいた恐怖は黒い復讐心と変化して雄一の胸に溜まって行く。

 何年でも懸けて復讐すると心に誓う雄一の瞳には狂気の欠片が宿っている。

 今迄は好き放題していただけで狂気に動かされていた訳では無い雄一だが、恐怖を乗り越えようと頭がネジを外したのだ。

 本能から来る恐怖を復讐と言う蜜によって塗り込める雄一の口元には白い泡が湧き上がる。


「あの野郎をベルフラムたんに無理やり食わすってのも良いよなぁ~! 泣いて嫌がってても飢えたら食うしかねえもんなぁ~!? 監禁して俺の白濁液で汚したあいつの腕なんかをよぉ~!! 無理やり口こじ開けて食わしたらさぞ泣き叫ぶだろうなぁ~!!!」


 自分の考え付いた手段に陶酔しながら雄一はやっとのことで立ち上がる。

 まだ死んでいないという事はまだ負けていないという事だ。最後に立つのは自分だと疑わず、その甘美な妄想を糧に打ちひしがれた性根を立ち上がらせる。


「ま、まあ? 今日は流石に俺様も疲れちまったからよぉ……。とっとと肉の布団で休むってのも仕方ねえよなぁ~……。とりあえずこのギンギンのまま納まんねえマグナムをどうにかしなきゃなおわっっ!!!」


 いきり立ったモノをさすりながら部屋を後にしようと扉を向いた瞬間、何かに足を引っ張られるような感覚を伴って雄一は盛大に転んだ。


「痛ってえなぁ! 畜生っ……。久々に運動したからなぁ~……。足が攣っちまいやがったかぁ………………?」


 引かれた足を揉み解そうと足を動かそうとする。

 ――だが動かない。

 雄一の左足はその場にあるのにそこから動こうとしない。

 いや、力を込めている以上に引っ張られるような、巨大な縄で絡め取られるような奇妙な感覚を伴って動いてくれない。


 ――カヨ……! ――


 小さな、本当に小さな音が雄一の耳に届く。

 自らがしゃべっていては聞こえない、動いていても聞こえないそれ程小さな音が、動きを止め、息を飲んだゆえに雄一の耳に僅かに届く。


(―――――そんな馬鹿な―――――)


 雄一の顔が一気に青ざめる。

 目の前には何も映ってはいない。魔力を感じようとも悪霊の気配は何処にもない。

 カタカタと音を立てているのが自分だとは気付かない程の恐怖が雄一を支配して行く。

 声を出さなければと息を吸い込むのに、再び襲って来た先刻の恐怖が肺の中の空気を送り返す。


「ひっ!」


 やっと口から出たのは一言だけの小さな悲鳴。

 力を込めて後ずさろうとしているのに、その足は徐々に徐々にと光を失った転移陣の方へと引きずられていく。


(何が起こってんだよぉ!!!)


 目を凝らしても左足に何かが纏っている感覚すら無い。なのに何故―――――。

 そう思った雄一の答えを示すように、その恐怖が姿を現す。


「――――逃ガストオモッテンノカヨォ! ――――」


 聞き間違いでは無かった。蚊の鳴くほどの小さな声は殺したいほど憎い、いや殺す事すら生ぬるいと考えていた九郎の声だ。

 その声が雄一の左足から聞こえてきたのだ。


「――――――ヒギッ……………――――」


 声を上げようとして再び喉を詰まらせる。

 目の前で巻き起こり始めた悪夢のような光景に―――――。


 ――――悪夢――――

 それはまさしく悪夢と呼んで良い、信じがたい光景だった。

 引きずられるように部屋の中央へと戻された雄一の左足に、埃かと思う程の小さな赤い点が灯る。

 普通なら目を擦れば消え失せそうな光の残滓だと感じる砂粒程の赤い光。

 それがしだいに光量を増して行く。輝くような光では無く、赤黒い血の様な輝き。

 砂粒程の大きさの点から湧き出る様に大きさを拡大させていく禍々しい光に雄一の腰が抜ける。


「――言った言葉から直ぐに反故にするたぁいい度胸だなぁ!? やっぱ死なねえと治んねえよっ!! その性格の悪さはっ!!!」


 いつの間にか赤い光は消え失せ、代わりに九郎の声がはっきりと部屋に響く。

 目の前に映るのは人の右手……。雄一の左足をがっちりと掴み喋っているのは人の右手首だ。

 今にも血が滴らんばかりの切り落とされた右手がしゃべっている。

 何処から響いているのかも分からないその右手が九郎の声を響かせている。


(何でだ? どうしているんだ!? どうやって? 目の前? いやだ! 誰か! 助けて!)


 雄一の頭は再び混乱を極め、言葉を発しようと息を吸い込む。だがそこで雄一はこの屋敷に自発的に動く者など存在していない事に気が付く。誰も信用できず、自分の意する言葉以外聞きたくも無いが為に近くの人間全てを『支配』して来たのだ。魔力が残っているなら言葉すら発せずに自分の意のままに動かせた人形たちも、枯渇寸前の今の魔力では動かす事も出来ない。


「俺だって人殺しはしたくねえが、お前だけは別だっ! くらいやがれぇぇっ!!」

「ぎいやぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!!!!」


 やっとの事で口をでた雄一の言葉は激痛による悲鳴であった。

 そんな筈は無いと雄一は痛みを伝えてくる左足を凝視する。

 掴まれただけで激痛を及ぼすなど有ってはならない。

 今迄九郎に傷付けられた事など一度も無い。体に纏わす魔力がいくら枯渇していようとも自分の生命線である防御魔法――この世界の病や毒から身を守ろうと雄一が常時展開している魔法――まで消え失せている訳では無い。決闘時でも九郎は結局雄一の体に傷一つ付ける事は出来なかった。だから嫌がらせに髪の毛を毟ると言う行為しかしてこなかったではないか。

 涙で滲む視界の中で雄一は最後の気力を振り絞ってその右手首を払いのけようと力を込める。


「ひぁっ!!!」


 両手で九郎の右手と思われる指の内、人差し指を掴み引きはがそうと力を入れた瞬間、雄一は息を吸い込む。

 血のにじむ足首からどうにか引きはがそうと浮いた人差し指には真っ黒い牙が蓮の種の如く浮き出していた。刃の形状もあれば動物の牙の様なものもある。手の平から突き出したその黒い牙はまるで恐ろしい怪物の咢の様だ。

 何本も突き出た牙が雄一の足首に咬みつきその肌をも突き刺す。


「やっと傷が入ったぜぇぇえええっ!  これで最後だっ! 『昇天すセブンスる心地ヘブン』!!!!!!!!!」


 血が滴った瞬間、右手首が怒声を上げる。

 九郎の声が部屋の中を響き渡る。

 そして――雄一の足首を握っていた右手の悪夢がドロリと溶けだす。


「ひぎやぁあおわぁいぃぃぎゃひょうぇぁぁぁぁぁああああああっ!!!!!」


 次に襲って来た痛みは、激痛とかそんな生易しいものでは無かった。

 神経の中にイガを放り込まれたような痛み。体の中から溶け落ちて行く痛み。

 肉を腐らせ肌を壊す痛み。

 見る間に煙を立ち昇らせて腐食して行く自分の左足に雄一の顔は恐怖に歪む。

 ツンとした酸っぱい匂いが鼻にかかり痛みの中で顔を背ける。

 その床に何かがベシャリと落ちる。


「わひゃえおえおろろろあおらぁがぁぁあああああ!!!!」


 その何かが自分の鼻だと気付いた時に、雄一は絶望の底を見る。

 そして時を挟まず股間の滾りが離れて行く。べちゃりと床に落ちた雄一の欲望の形は、異臭を放ってくたりと溶けた。


「あひゃわやはひゃひゃひゃひゃ…………」


 痛みと恐怖と絶望とが噴き出した中で雄一は狂気の笑いを上げ始める。

 姿見に映る自分の姿は、先ほど恐怖に慄いていた九郎の姿と何ら変わらない。


 絶望の底で雄一は狂った笑いを吐き出し続ける。

 頭の片隅で警鐘を鳴らしていた恐怖は雄一の体に伝えていた筈だ。


 逃げ延びたと思った瞬間、雄一の耳は確かに聞いた。

 ―――本当に誓うのか? ――――と――――。


 あれ程の恐怖に陥りながら滾りが治まらなかった本当の理由も。

 あれは死を直前にした本能の示唆だ。腐れ落ちたその逸物は最後の足掻きを見せていたに過ぎない。

 だがその最後の足掻きも雄一に恐怖を知らせることは出来なかった。

 あれだけの恐怖を味わったと言うのに、自分が恐怖を振りまく側だと言う考えに凝り固まっていたが為に雄一は本能が指し示す警鐘に気付く事が出来なかった。


「あひゃひゅっふひゅへひょおおぉぉおっ!!!!」


 暗い部屋で雄一は恐怖と痛みを忘れる為に狂気の渦に身を委ねる。

 狂ってしまえばその全てが忘れられるとでも信じているかのように。

 言葉にもならない奇声の中、九郎の右手首は静かにその役目を終えたように崩れて行き――その痕にはおびただしい数の黒い牙と黒い刃の欠片だけが残されていた――――――。


☠ ☠ ☠


(―――――人を殺した―――――)


 寂寥感が九郎の心を冷たくしていく。

 山に佇む九郎は閉じていた瞳をゆっくりと開いて行く。

 赤い光が右腕に集まり、右手首を『再生』させていく。

 新しくできた右手を確認するかのように数度動かした九郎の表情は暗い。

 あれ程煩わしく、性根の腐った男だとしてもその手を汚し死に足らしめた九郎の心には達成感は込み上げては来なかった。


 雄一の左足に付いた、ただ一粒の右手の細胞。

 その右手を切り離したまま・・・・・・・再生させた九郎は、自分の中に溜まっていた『ブラックバイト』の牙や『竜牙兵ドラゴントゥース』の剣を手のひらから生み出し、それを握りしめる事で雄一に傷を付けた。それは技でも何でも無く、只強い武器であろう『ブラックバイト』の牙や『竜牙兵ドラゴントゥース』の刃を押し付ける事によって傷が付くことにかけたのだ。何度も九郎を切り刻んでいた『竜牙兵ドラゴントゥース』の刃と、そして強力な魔物と素材屋が言っていた『ブラックバイト』の牙。例え九郎に雄一を傷付けることが出来なくても、その魔力が籠っているであろう『竜牙兵ドラゴントゥース』の刃や、魔物の牙でなら雄一に僅かながらの傷を付ける事が出来るのではと考えたのだ。そしてひとたび傷が入ればそこに毒を流し込む。雄一の回復魔法が有る事を考えて何度も毒を送り込もうと考えていたがそれは必要なかったようだ。雄一はその痛みに、その恐怖に耐えられなくなり回復することすら忘れたように狂ってしまった。


昇天すセブンスる心地ヘブン』の毒は凶悪だ。肉を腐らせ、その煙が更に肉を腐食して行く。雄一の鼻が崩れ落ち、皮膚が、足が溶け落ちて行くのを九郎は静かに見ていた。

 九郎が意識を自分の体へと戻したころには雄一は動く事も出来ず、その半身は既に腐り落ちていた。

 あれでは生きてはいまい。雄一は九郎では無い。『不死』では無いのだ。


 人に絶望を与え、自分の欲の為に虫けらのように人を殺して来た雄一の最期は、自分の体が腐って行くのを眺めながら、痛みと恐怖と狂気で笑う憐れな死にざまだったと思う。


 だがそれを望んで行ったと言うのに喜びも勝利の余韻も、九郎の心には湧いては来ない。

 雄一に最後の忠告をしようと声を出した事は、今考えても迂闊な甘い考えからきていると嘆息する。

 どれ程残虐で下衆な男だとしても、九郎が殺したいほど憎む相手だったのかと自問したのだ。

 九郎の大事な人たち――ベルフラム、レイア、クラヴィス、デンテはいまだ無事なのだ。

 雄一に『支配』されその身の自由も心の自由も縛られた少女達は憐れだと思う。だが九郎の知らない誰かの為に九郎が人を殺して良いのかと自問したのだ。

 雄一を殺して良いのはその自由を奪われた人々であって、赤の他人の九郎では無いと思ったのだ。

 九郎ももうすぐ20歳となる成人だ。理想だけで世界が回っていない事位は分かっている。

 目の前に悪人がいようとも、その悪人も誰かにとっては大事な人で別の善人も誰かにとっては悪人足り得る事を分かっている。

 正義と悪などと言うものは所詮見方を変えた同じものだと理解しているのだ。

 だからこそ九郎はあの夜、ベルフラムを懸けて決闘した夜に後悔した気持ちを押し殺して雄一に最後の問いかけをしたのだ。


 九郎にはどうしても人を殺したい理由など無い。

 ベルフラム達を守る為にと理由をつけて、いや、人を殺す理由にベルフラム達を使う事を忌諱していた。

 それに自身が『不死』である故に、自分が人を殺す事がなんだかアンフェアな気持ちも有る。

 死ぬ事の無い九郎はどうしたって殺し合い・・・・にはならない。一方的に相手の命を刈り取るだけの存在だ。例えどんなに相手が強くても、九郎がどんなに弱くてもその構図だけは変わらない。そして――――――。


「あだっ!」


 物思いに耽りそうになった九郎が深刻そうで無い痛みの声を上げる。

 自身が犯した人殺しと言う咎に胸を痛めていた九郎の胸に黒い刃物が生えている。

 雄一が死んだと言うのに残った『竜牙兵ドラゴントゥース』は動きを止めていない事に今更ながらに気が付く。

 良く見てみれば『再生』させた右手の代わりに左腕が根元から何処かに飛んで行った様子だ。

 背中にも何本もの黒い剣が突き刺さっている。

 視界も聴覚も全てを右手の細胞に傾けていたが為に今の今迄気付いていなかった。


「や~め~ろ~よ~!」


 九郎は苦笑を零しながら飛び散った体を引き寄せる。

 この『竜牙兵ドラゴントゥース』も途中から雄一の手のひらを離れたように九郎に襲い掛かって来ていた。それこそこの『竜牙兵ドラゴントゥース』だけが九郎の『不死』を十全に理解していた気がして戦いが未だに終わらぬ最中だと言うのに笑みを溢してしまう。


「俺もお前らも同類って訳かねぇ?」


 肩を竦めて振り返る九郎の目の前には未だに100を超えるであろう黒い骨の姿が有る。

 操っていた主のいなくなったこの骨たちは自由を得たと言うのだろうか。

 そんな気持ちがふと九郎の心に影を掛ける。

 だがその黒い眼窩の奥には心も魂も何も感じはしない。

 ただ最後の命礼を忠実に執行しているだけのロボットの様な暗い色に九郎は胸の中の寂寥感を打ち払う。


「んな訳ねえなぁ? 俺はちゃんと生きてっしよぉ? 心だって魂だって持ってっからお前らも俺を見つけられたんだろ?」


 ――『竜牙兵ドラゴントゥース』は人を魂で感知します――


 レイアが言った言葉が九郎の心に火を点す。

 白い闇の中でこの黒い骨達は九郎を正確に襲ってきていた。

 それは九郎が魂を持っていると言う証明である。


「それに俺はお前ら如きにゃ殺されねえっ!! 同じ『不死』でも格の違いってとこを見せてやんよ!!」


 口の端を歪めて九郎は吠えた。

 東の空は―――ゆっくりと白み始めていた―――――。

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