第107話  月下繚乱


「――『深淵なる赤』、ミラの眷属にして命を生み出す原始の炎、アルケヴィータよ! 力を貸して! ――『フォエトゥス・フラム・マグナ』!!」


 夜の山麓にベルフラムの高い声が響くのと同時に、山をすっぽりと覆った巨大な魔方陣が赤い光を一瞬放つ。


 一瞬だけ真昼の明るさを取り戻した山麓に再び暗闇が訪れる。

 急激な温度差が山頂からの風を麓へと吹き降ろし、ベルフラムの唱えた魔法の効果が山全体を覆った。



「クラヴィスっ!!」


 クラヴィスの一瞬の油断が産んだ危機に、九郎は堪らず絶叫していた。

 山間を登って来る『動く死体ゾンビ』と『魔動死体レブナント』の群れを押し止めていた九郎が、少し目を離した瞬間、クラヴィスの後ろに剣を振り下ろそうとしている『魔動死体レブナント』の姿が見えた。


「……え?」


 クラヴィスの何処か呆けた声が、九郎の耳に届く。

 目の前に迫りくる魔物の群れは目につく傍から破壊していた筈なのに、後ろに守っていた筈のクラヴィスの更に後ろに『魔動死体レブナント』が襲い掛かってくるなどとは思っていなかった。

 夜になって強化された死体の群れが、山道だけでなく崖を登って襲い掛かってきているとは考えもしていなかった九郎は、いきなり後ろから現れた『魔動死体レブナント』に思わず声を上げる。


 足を縺れさせて大地に倒れ込んだクラヴィスを見て、九郎の顔は悲壮に歪む。

 九郎よりもよっぽど素早い動きをするはずのクラヴィスが、よりにもよってこんな時に転んでしまった。

 自分が何を叫んでいるのかも分からずに、九郎は雄叫びを上げてクラヴィスの元へと走る。

 限界以上の走りに足の腱が千切れ、膝の関節が一瞬で砕けるが、その事に気が付かないまま九郎は足に力を込める。


「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァアアア!!!!!」


 口から漏れ出る獣に似た唸り声。

 少しでも『魔動死体レブナント』が自分に敵意を向けてくれるようにと、大声を張り上げる。

 だが、声を上げて走る九郎を嘲笑うかのように、暗く落ち窪んだ瞳の『魔動死体レブナント』が無慈悲に剣を振り上げる。

 手を伸ばしても届かない、そんな距離が九郎の心に焦燥を産む。

 宙を掴むこの手がもどかしい。空を薙ぐこの腕が恨めしい。

 間に合わないと頭の中で囁く悪魔の声を、無理やりにねじ伏せて九郎は足に力を込める。


 その九郎の体を一陣の風が通り過ぎた。


 ゴッ! と一瞬で麓まで駆け下りて行く熱量を持った風の中、目を瞑ることも無くクラヴィスを襲う『魔動死体レブナント』を凝視し続けていた九郎が、この山の中で一番最初のベルフラムの『儀式魔法』の目撃者となった。


 今まさにクラヴィスに剣を振り下ろそうとしていた『魔動死体レブナント』の体が、熱風を背中に受けてビクンと痙攣したのが変化の始まりだった。

 青い月明かりの中、その体に起きた変化に九郎も思わず口を開けて硬直する。

 頭ではクラヴィスの危機が去った事だけを理解していた。だが、その事に対する安堵の感情よりも目の前に現れた非現実的な事象に目を奪われてしまった。

 周囲に聞こえていた不死の魔物達が出す呻き声とも言える声も、一切聞こえはしない。

 黒い死体で覆われた夜の山に静寂だけが痛い程耳に残っている。


「……は? ……………な?」


 九郎の口から漏れ出た驚愕の言葉は、奇しくもその光景を端的に表していた。

 クラヴィスに剣を振り下ろそうとしていた『魔動死体レブナント』は、剣を振り上げた格好のまま動きを止め、地面から芽吹くように現れた炎の弦が、腐敗した体を突き破り、落ち窪んだ眼窩を突き抜けて――炎の花を咲かせていた。


 無数の花弁を持つ、炎の花。

魔動死体レブナント』を養分として咲き乱れる大輪の花。


 忘我の様子でふらつく足取りのまま、九郎はクラヴィスの元へと向かう。

 尻餅をついた状態のまま、目の前で硬直し大輪の炎の花の花瓶と化した『魔動死体レブナント』を見上げてクラヴィスも呆気に取られたように硬直している。

 悍ましい動く死体であった『魔動死体レブナント』の体内を突き破って顔を出した炎の花は、同じく炎の葉を目一杯に広げ、『魔動死体レブナント』を焼きながら輝き続ける。


 意識しないままクラヴィスを抱き上げた九郎が、ふと視線を麓へと移す。

 今迄どれ程数がいるのか数えるのも辟易していた不死の魔物アンデッド全てが、炎の花へと姿を変えていた。


 悍ましい死体の群れが、美しいと思えるほどの幻想的な花畑と姿を変えている。

 青い月明かりの下で、オレンジとも赤とも黄色とも言える炎の花が、山を覆い尽くすように咲き誇っていた。


「…………スゲェ…………」


 眼下に広がる幻想的な光景に、九郎がポツリと呟く。

 陳腐な言葉しか出て来ない程、その光景は余りに美しく、そして非現実的であった。炎の花へと姿を変えた不死の魔物アンデッドは、動く事も出来ずに美しい姿で最期の瞬間を迎えていた。


「…………うぁ………」


 ふと抱き上げたクラヴィスを見ると、九郎の胸元で涙を流していた。

 感極まったようにハラハラと涙を流すクラヴィスの表情には、この光景を作り上げたであろうベルフラムに対する畏敬の念が滲み出ている。

 同時に雄一によって不死の魔物へと姿を変えられてしまった兵士達への献花の様にも思えて、胸の中で渦巻く哀悼の意を堪えられなくなっているのだろう。


「……スゲエ……スゲェよ……ベル……」


 称賛の言葉も浮かばない程、九郎は目の前の光景に見惚れてしまう。

 サワサワと吹く風に靡かれて赤く輝く葉を揺らし咲き誇る大輪の花に、言葉が出て来ない。

 この光景を作り出したのはベルフラムだと確信が持てる程、その光景は美しく、力強く、そして慈愛の感情に満ちていた。


 暗闇を照らす白熱灯に似た輝きの花々が、青い月の光の下で暖かな灯りを灯している。

 風に揺れる炎の花々は、アルバトーゼの屋敷、月明かりの照らす静かな浴室でベルフラムが九郎に見せた炎の剣と同じように、輝きながらも静かに光を放っていた。


☠ ☠ ☠

「ベルっ! すげえじゃねえかっ! 魔法ってやっ……ぱスゲ……ェ……」

「ベルフラム様っ!?」


 一万を超える魔物を炎の花へと変えたベルフラムの元へと駆け上がって来た九郎が、興奮した様子でベルフラムへと声を掛けようとしてその言葉を詰まらせる。

 九郎の胸元に抱かれたクラヴィスが、悲壮な声を上げて九郎の腕から飛び出し、ベルフラムの元へと駆け寄る。


 レイアに抱きかかえられたベルフラムの顔には、血の涙と吐血の後が拭いきれぬ状態で残っていた。

 レイアが泣きそうになりながら何度も治癒の魔法を掛けているのか、青い光が何度もベルフラムの体に降り注いでいる。


「レイアっ!! ベルはどうしたんだっ!?」


 ベルフラムが放ったであろう魔法で、辺りを埋め尽くしていた魔物の大軍は沈黙している。

 大きな危機が去った事に安堵しベルフラムを称賛しようと山を登って来たのに、肝心の彼女が満身創痍の状態で倒れ込んでいる事に、九郎の顔色は瞬く間に青褪める


「ベルフラム様はお一人で『儀式』をなさってしまわれたのです! 何十人もの術師が命がけで行う魔法を、たった一人で行われるなんて……。分かっていたら止めたのに……」


 レイアもベルフラムの様子から、危険を承知で何かをしようとしているのは分かっていた。

 だが、流石に一人で『儀式』を行うなどとは思ってもいなかった。

 何十人もの神官や巫女が命を懸けて『神の眷属』を降ろす『儀式』。

 神の眷属を降臨させた術者は殆んどの場合、一度の魔法の行使で命を落とす。それほど神の眷属の力は強大で、人の小さな器では『魔力』を支えきれないのだ。

 それほど危険が伴う『儀式』を、あまつさえたった一人で行おうとするなどとは、レイアは考えもつかなかった。

 そもそも成功した事すら奇跡だとしか言いようが無い。

 例え命を代償にしたとしても、神の力の一端を振るえるなどとは考えもしないのが普通だ。


 それをまだ成人していない少女の身で行うとは……、そもそも『儀式』の方法すら知らないレイアにとってはベルフラムの体が輝きだし、炎と同じように舞いながら魔法を発動させて、やっとベルフラムがその身に御しきれない『魔力』を内包したと気付いたくらいだった


「クロウ様……助けてさい……。何度治癒を行ってもベルフラム様が目を覚まさないんです……。体に傷なんか一つも無いのに……」


 レイアが涙ながらに抱き抱えたベルフラムを九郎に託す。

 焦りと魔力切れで息も絶え絶えになりながらも、最後の望みに縋る様に目を向けるレイアの顔は焦燥と後悔が入り混じっている。

 何としてでも止めなければならなかったのに……と項垂れるレイアからベルフラムを受け取り、自分に何が出来るかも分からないまま、九郎はベルフラムの胸に耳を当てる。


 抱き抱えたベルフラムからは暖かな体温が伝わって来る。

 胸に付けた耳を伝って、小さな鼓動が聞こえてくる。


「ん?」


 ベルフラムが死んで無い事を確認した九郎が、脈を確かめながら間の抜けた声を上げる。

 ぐったりとしてはいるが、体に変調は見られない。

 血に濡れた頬も青褪めてはいるが、それ程緊急そうな事態には見えず九郎はもう一度ベルフラムの様子を俯瞰して観察する。

 小さく呼吸しているのか、ベルフラムの小さな胸は規則正しく上下している。


(体力切れで倒れちまったのか……?)


 壮絶な姿からは考えが甘すぎるかと思えたが、ベルフラムの体から伝わって来る体温も、規則正しい呼吸や脈からもベルフラムが重篤な事態に陥っている様には思えず、九郎は首を捻る。

 レイア達の慌てふためきようから、さもベルフラムが危機的状況にあるのだと思っていたが、攻撃を受けた訳でも無く血の跡はあるが血色も良い。ぶっちゃけ寝ているようにしか見えない。


 ならばとレイア達が悲壮感溢れる表情で見守る中、九郎は人差し指をベルフラムの口へと突っ込んでみる。最早条件反射では無かろうかと思う程自然な動作で、目を閉じたままのベルフラムの舌が九郎の指を舐めはじめる。


(意識がねえってのに……)


 指を舐めるベルフラムの舌の感触に、九郎が若干呆れを表しながらも指先から『クリスタル・バグ』の蜜を滴らせる。

 四人全員がベルフラムの顔色を慎重に伺う中、ベルフラムの瞼がゆっくりと上がり――、


「――クロウ……?」

「………腹ペコで倒れちまうなんて……お前らしいよ……」


 九郎は苦笑して息を吐いた。


「「「ベルフラム様っ!!」」」


 ベルフラムの喉が微かに動き、擦れたか細い声ながら声を発したのを見て、レイア達は歓声を上げベルフラムに抱きつく。


「……別に……お腹が減って倒れちゃった訳じゃ無いのに……」


 ベルフラムがレイア達にもみくちゃにされながら、不本意そうに九郎に視線を向ける。

 アルケヴィータは何も代償を求めてはこなかったが、それでも神の眷属を生身に宿したベルフラムが無事でいられる訳では無かった。

 体中を廻る異質な『魔力』の奔流は、血となって溢れ出る事になってしまったし、体は熱で浮かされたように火照ってしまっていた。

 魔法自体はアルケヴィータの『魔力』でもって顕現させたが、ベルフラムはそこに至るまでの行程で殆んどの『魔力』を消費してしまい、魔力切れを起こして倒れてしまった状態だった。


 眠ったような状態は魔力切れを回復させようと、脳が体の機能を強制的に鎮静化させたが為に起こった現象なのだと、ベルフラムは不貞腐れながら九郎に伝える。


「それでも、一歩間違えばベルフラム様は死んでいたんですよ!? 分かっているんですか!? 危険を承知で何かなさるのは分かったいましたが、まさか一人で『儀式』を行うだなんて!!」


 ベルフラムの首に抱きつきながらレイアが涙目で苦言を言いやる。

 それ程危険な真似をしていたとは思ってもいなかった九郎が、レイアの言葉を聞いてベルフラムへ厳しい視線を向ける。


「ベル! お前、んな危険な事を……」


 レイアと九郎の叱責にベルフラムは叱られた子供の様に身を竦ませる。

 だが、小言を言い足りないと言ったレイアと違い、九郎は表情を和らげてベルフラムの頭を撫でる。


「いや……俺はベルに助けられたんだもんな……。クラヴィスを救ってくれたんは俺じゃ無くベルだもんな。――ベルが頑張ってくれたおかげで、クラヴィスも俺も……皆無事なんだ……ありがとうな、ベル……」


 九郎は先程の光景を思い浮かべて眉尻を下げ、ベルフラムの髪を混ぜながら礼を言う。

 ベルフラムの魔法が間に合わなかったら、クラヴィスはこの世にいなかったかもしれない。ベルフラムが危険を承知で繰り出した魔法が間に合ったからこそ、クラヴィスは助かった。そう感じたのなら、責めるよりもまず礼を言うべきだ。


 九郎の言葉に、ベルフラムは一瞬キョトンとした表情を浮かべ、その後にはにかんだ笑顔を見せる。


「うへへ……。やっとクロウの役に立つことが出来たわ……。…………!!」


 緩んだ笑い声と共に吐き出したベルフラムの安堵の表情は、突然険しいものに変わる。

 ベルフラムは、ふらつく体を必死で起こそうとしているのか、震える腕で九郎の体へと縋りつく。


「皆……ゴメン……」


 苦しげな表情で謝罪の言葉を口にしたベルフラムに、レイアが小言を聞き入れてくれたのかと満足げに頷く。だがそのレイアに顔を向けるでも無く、ベルフラムは震える腕を再び構えようと杖を掲げ始める。


「ベルフラム様っ! 理解してもらえたのでは無かったのですかっ!? その状態で魔法を使うなど自殺行為です!」


 レイアが叫んで、ベルフラムの腕に飛び付く。

 梃子でも動かさないとばかりに目を瞑り、ベルフラムの腕を抑えようとするレイアと、必死でその腕を振りほどこうとするベルフラムの表情にただならぬ気配を感じて、九郎はベルフラムが睨んでいる場所に視線を移す。


 ベルフラムの視線の先には、赤い炎の花の草原が幻想的な光景を作り上げている。

 その美しい光景をベルフラムは忌々しい者でも見る様に、歯を食いしばりながら睨みつけている。

 美しい光景だが、元は死体の群れと考えるとベルフラムの表情も納得出来なくも無い。


「ベル……無茶しようとすんな……。レイアにあんまり心配させんじゃ……」


 追い打ちは必要ないだろう? そう優しげに声を掛けた九郎の眼下に――美しい光景を広げる夜の闇の中、一際大きく絡まりあった炎の茨――数多の花を咲かせている一画を睨みつけているベルフラムの表情が、余りにも悔しそうで口を噤む。


 ベルフラムの視線に釣られて、全員が固唾を飲んで炎の茨に視線を移したその時、咲き誇っていた炎の花々がハラハラと散り始めた。


 月の灯りの下、オレンジとも赤とも見える炎の花弁が、一枚、一枚と風に巻かれて山裾に花吹雪を巻き起こす。静かに咲き誇っていた炎の花畑も美しかったが、それ以上に幻想的な光景が目の前に広がる。

 だが、誰しもがその幻想的な光景に目を奪われる事無く、只一点を見つめていた。


「……さっすがに……危なかったぜぇ~……。まさか俺の知らない魔法があったとはなぁ~?」


 夜の闇に紛れて聞こえたその声は、死体たちが上げていた怨嗟の声よりも不気味に山に木霊した。


☠ ☠ ☠


「どうして……」


 レイアの呟いた言葉は、その場に居る全員の思いを代弁していた。

 ベルフラムの命を懸けて繰り出した魔法でも、雄一を倒す事が出来なかった。


 炎の花を全て散らした茨の藪は、その輝く葉や弦に青く暗いヒビの様なモノが現れてくる。

 徐々に広がっていく青いヒビが炎の蔓全てに広がりを見せた瞬間、ガラスの割れる音と共に炎で象られた茨が崩れさる。


「ん~……! ますます欲しくなっちまったなぁ? ベルフラムたんなら俺の今の嫁達よりも魔法スキル高いんじゃな~い? まさか山一つ覆う程の大魔法とはなぁ~? 俺も少々焦ったぜぇ~?」


 崩れ落ちる炎の欠片の中、雄一が嫌らしい笑みを浮かべて姿を現す。

 炎の灯りに照らされたその顔は、禍々しい笑みと残酷な瞳に彩られていた。


「あれ~? もしかして終わったと思ったぁ~? 勝てたとでも思ったぁ~?

ざぁ~んねんっ! 無事! 無事! 圧倒的無事! いや、惜しかったよぉ? ベルフラムたんが炎の魔法使いソーサーレスで、俺が炎に対する圧倒的な耐性をもつ、この法衣を着てなきゃ終わったんじゃねえの? コレはねぇ……そりゃぁ苦労して手に入れたんだぜぇ~。中央神殿に封じられてたから、やりたくねえ神官長にまでなって手に入れたそりゃぁ貴重な装備なんだぜぇ~?」


 ベラベラと得意気に語る雄一に怒りの目を向けるベルフラム。

 掲げようとする腕にも力が入らないのか、懸命に唇を食いしばりながら悔しそうに雄一を睨んでる。


(もう皆戦える状態じゃねぇ……)


 ベルフラム達の様子からも、九郎はもう誰もが体力の限界だと感じていた。

 足を縺れさせたクラヴィスも、力尽きて蹲ったデンテも、一日中戦い続けているレイアも、そして一人で立つ事すら儘ならないベルフラムも…。

 自分以外の全員が体力の限界を迎えているだろう事は、確認せずとも分かる。


(―――――逃げ道は―――――)


 九郎は眼下の闇を睨みながら、目の前の雄一から逃げられないかと考える。

 幸い麓を覆い尽かさんばかりの『動く死体ゾンビ』の群れは、未だにベルフラムの魔法で炎の花の花瓶と化している。闇に紛れて全員を担いで走れば、どうにか逃げ遂せるのではと考えを巡らせる。

 一番は雄一を倒す事なのは分かっているが、九郎の勝利の果てに誰かが犠牲になりそうな今の現状では、考え無しに雄一に飛びかかって行く訳には行かない。

 誰か一人でも犠牲になってしまえば、九郎に勝利などは無いのだから。


「あ、あなたはここにいる魔物全てを倒せれば負けを認めると言ったでは無いですか! ベルフラム様が全ての魔物を打ち倒した今、負けを認めて引く事が筋と言うものでは!?」


 レイアの上ずった声が夜風に運ばれ響く。

 確かに雄一は1万以上の魔物を全て倒せたら負けを認めるとは言っていた。

 だが、九郎もベルフラムも雄一の言葉を何一つ信じてはいない。

 諦めの悪い者達が好きなベルフラムであっても、自分の言葉を翻し、嘘で塗り固めた雄一を諦めが悪いとは言いたくない。

 雄一は意地汚いのだ……。

 嘘と虚飾でまみれた男が、自分の言葉に責任を持つ事など無いとベルフラムは懸命に精神を集中させて魔法の準備に入る。


「あぁん? 年増が俺に口聞いてんじゃねえぞぉ? 羊水の腐ったババアなんざ眼中にねえんだよぉ! だが俺は潔い性格でねぇ~……言った言葉はしっかりと守るぜぇ~?」

「な、なら………!!」


 一瞬レイアの顔に希望の光が浮かぶ。

 街まで戻ってしまえば、クラインも護衛の兵士もいる。国へ対処も願えるかもしれない。

 アプサル王国の『英雄』だとしても、それはこの前までの事で、今の雄一は責任を放り出して逃げ出した一人の貴族にしか過ぎない。領主の姫君を妻にしようと暴虐の限りを尽くした事は、あの場にいた貴族達も認める所だ。軍を出すまで行くかは分からないが、処分を言い渡されている雄一は王国にとってももはや庇い建てできる存在では無い。決闘の誓いすら違えた現在では、犯罪者として裁く事も可能だ。


 そして何よりもレイアにも今の状態で再び戦う事が出来るとは思えなかった。

 再び戦闘になってしまえば、ベルフラムもクラヴィスもデンテも守って、九郎と二人で夜を越えねばならない。

 九郎は疲れた素振りを見せてはいないが、それでも常識で考えて丸二日休まず戦う事など出来る筈が無い。

 再び戦うという事は、全滅を意味するのと同義だとレイアは一端の希望に縋る様に声を上げる。


「でぇぇぇもぉぉぉぉおお! ざぁぁんねぇぇぇん! まだ全滅してねぇんだよぉ~? さぁあああ! クライマックスと行こうかぁ~? ここまでこれたんだから立派なもんだよぉ~? 誇っていいぜぇ~?

 ――だから……満足して絶望しろやぁぁぁぁぁあああああああああ!!!!」


 雄一が腕を払って青色のローブを翻す。

 役者がかった素振りで雄一が腕を振り上げた瞬間、雄一を中心にして生い茂っていた炎の花が震えはじめた――。


   ザァァッ!!!!


 冷たい風が山を駆け降りる。

 ザワザワと輝く葉を揺らし、炎の花弁が風に舞う。


    ガサリ


 炎の蔦が音を立てて動く。


    ガサリ


 黒い骨の様なものが炎の花を握りつぶす。


    ガサリ


 炎の葉を揺らして、黒い足が姿を現す。


  ガサリ ガサリ ガサリ


 一斉にざわめき始めた炎の花畑に、黒い骨の集団が這い出てくる。

 黒い骨は炎に触れていると言うのに焼かれる事も、崩れ落ちることも無い。


「魔法も剣も効かねえ『竜牙兵ドラゴントゥース』だぁぁぁぁああああ!

さあどうするぅ~? 泣きわめくかぁ~? 命乞いかぁ~? 全裸で土下座でもしてくれたら考えてやらなくもねえぞぉ~?ほらぁ~、脱いでみっともなく這いつくばれよぉ~!」


 口から涎を垂らさんばかりで、雄一が悦に入った表情を浮かべていた。

 黒い骨の集団は手に反り返った黒い剣を持ち、禍々しい青黒いオーラの様なものを纏って此方へと視線を向ける。

動く死体ゾンビ』や『魔動死体レブナント』の腐り、澱んだ暗い視線では無く、機械の様な無機質な暗い眼窩に青い炎が灯っている。


「ドラ……ゴン……トゥース……ウォーリアー…………」


 レイアが黒い骨の集団の出現に崩れ落ちる様に膝を折った。

 呟いた口元は閉じられぬまま、麓に湧き出てくる黒い骨の集団を見つめている。


動く死体ゾンビ』と言いながら『魔動死体レブナント』嗾ける。

動く死体ゾンビ』の大軍の中にすら『魔動死体レブナント』を混ぜ込む。

 弱い魔物の中に強い魔物を混ぜ、絶望を演出していた雄一は『魔動死体レブナント』の中に『竜牙兵ドラゴントゥース』を混ぜ込んでいたのだ。

 それもご丁寧に、死体の皮を被せて『魔動死体レブナント』を装い、僅かな希望を摘み取るかのように――。

 強力な魔物を隠して光を摘み取る雄一の悪意は、その形を黒い骨に象られてその姿を現した。


 数はどの位なのだろうか。

 1000は行かないまでも百や二百の数ではあるまい。

 青い月明かりとオレンジ色の炎が照らす中、数を増やす『竜牙兵ドラゴントゥース』を、レイアは夢でも見ているかのように見ていた。


 レイアの瞳から涙が零れ落ちる。

 ここまで限界以上に頑張っていたのはレイアも同じだった。

 傍らにベルフラムがいたからこそ、ここまで頑張れたと思っていた。

 例え死ぬことになろうとも、ベルフラムを守れるのならそれも本望だった。

 だが目の前に広がる黒い骨の兵達は、レイアの心を砕くには充分な絶望を孕んでいた。


竜牙兵ドラゴントゥース』――竜の牙からのみ作られる魔法生物。

 魔法の武具でしか傷付かず、無尽蔵の体力と高い魔法抵抗力を持つ正に神々の時代の兵士達。

魔動死体レブナント』なら熟練の冒険者が手こずる魔物だが、『竜牙兵ドラゴントゥース』はそのレベルを遥かに凌ぐ。


 骨の身はレイアの持つ細剣エストックの攻撃などでは毛ほども傷つくことは無く、それどころか押し止める事も出来ない。

 魔法の盾も神の時代の兵の攻撃の前では2合も打ち合えば壊れてしまう。


「フフ…………」


 口元から漏れ出た声が笑い声だとはレイアには自覚出来なかった。

 笑うしかないとはこの状態だと、言わんばかりの状況で本当に笑いが込み上げて来るとは思わなかった。

 膝をつき、虚ろな目で笑みを溢すレイアは笑いながら泣いていた。


 ――どうしようもない――。


 諦める事はすまいと誓ったレイアだが、伝説上の兵士を目の前にしてどうしてよいかも分からずに呆然とする事しか出来無かった。


「 ――『深淵なる赤』、ミラの眷属にして鋼を溶かす原始の炎、アルケヴィータよ! 今一度力を貸して! 『アブレイズ・フラム・ムルト』!!!!」


 絶望の淵を覗いたレイアの耳にベルフラムの血を吐くような声が響く。

 戦いの火蓋を切ったのは、雄一の嘲るような嘲笑では無く、ベルフラムの抗いの声であった。


 輝く剣や槍が踊る様に宙を舞い、『竜牙兵ドラゴントゥース』の進撃を阻むように攻撃を繰り出す。

 鉄をも溶かす炎の剣は『竜牙兵ドラゴントゥース』を切り刻み、打ち壊す。

 神々の時代の兵士と言えども、同じく神の眷属の力を借りたベルフラムの魔法の剣でなら滅ぼす事が出来るのかと、レイアがぼんやりとその光景に目を向ける。


「ベルフラム様……私がお守りしますから……。自ら死へと歩みを進める事は止めて下さいよぉ……」


 レイアは何処か心ここにあらずと言った様子で、眼下を見下ろしながらぼんやりと呟く。

 ベルフラムの炎の魔法で打ち壊された『竜牙兵ドラゴントゥース』は、バラバラに砕けたと言うのに再び元に戻り始めていた。

 砕いても戻ってしまうのなら、どう戦えば良いと言うのか。

 守ると言っているのに動く事も出来ない自分が、ひどく滑稽な存在に思えてレイアは自嘲の笑みを浮かべる。

 ベルフラムを抱いて谷底へと身を投げれば、ベルフラムだけでも助かる可能性が有るのでは――。

 そんな考えが思い浮かび、レイアはフラフラとベルフラムを抱きしめる。


「私がお守りしますから……逃げましょう……。敵う訳無いじゃないですか……。相手は神々の兵士ですよ? ご覧くださいよ……。ベルフラム様の魔法でも止める事すら出来てないじゃないですか……。しっかりと捕まっていてください。谷から飛び降りる方がまだ生き残る可能性がありますから……。私がクッションになりますから……ベルフラム様は何としても生き延びて――――」


 熱に浮かされたようにベルフラムの肩を掴み、説得しようとしたレイアの頬が乾いた音と共に熱を帯びる。


「こんな……これしきの事で……絶望してんじゃ無いわよっ! ただ、生きて……いる……だけで……生きている……と……言える……の? 私が……生きるって……言うのは………あなたがいて……クラヴィスや……デンテがいて……クロウがいるから……生きている……って……思える……のよ? 前を……見なさい……。私の……騎士は……どんな……状況でも……絶望して欲しくは……無いわ……」


 眉を寄せ、泣きそうになるのを堪えるような表情で、ベルフラムがレイアに擦れる声で訴えていた。

 ふらつく体で揮われた小さな手の平は、小さな痛みと熱をレイアの頬に伝えて来ていた。


「でも……他に道が……」


 ベルフラムの意気を受けて、少し冷静さを取り戻したレイアだが、打つ手が無い事には変わらないのだ。

 この状況下で誰も犠牲にしないで生き延びる方法など、レイアの頭では考え付かない。


「それでも――――」


 言葉を探したベルフラムが、よろめく。

 グラリと横倒しに倒れかけたベルフラムの腰が、九郎の腕で抱き寄せられる。


「クロウ……」


 抱き寄せられたベルフラムが、九郎の横顔を見て言葉に詰まる。

 九郎の横顔も焦燥が色濃く滲み出ていた。

 いつも飄々とした雰囲気の九郎が、これ程の焦りを見せている事に、自分一人が皆を死地へと向かわせているのではと不安になったベルフラムが、震える手で九郎の顔に手を伸ばす。


「――心配すんな! 俺が皆を無事に連れ帰ってやんよ! って……このセリフ最初も言ったな……」


 ベルフラムの不安を拭い去る様に、九郎は相貌を崩して笑みを作る。

 おどけた様子で言っているのに、その笑顔は硬くぎこちない。

 無理やり笑いかけた九郎の言葉に、それでもベルフラムは勇気を貰ったように笑顔を向ける。


「そうよね……クロウは……私の……『英雄』だもの……。でも……私だって……キャッ」


 ――戦う。

 そう言いかけたベルフラムは、いきなり体が宙に抱き上げられて小さな悲鳴を上げる。


「ふぇ?」「ひゃん!」


 またもや小脇に抱えられたベルフラムが抗議の言葉を口にする前に、九郎は空いてる手でデンテとクラヴィスを抱え上げた。


「レイア……まだ走れるか?」


 荷物を抱える様に三人の少女を抱きかかえた九郎が、真剣な表情でレイアに尋ねる。


「え? あ、そうですよね……逃げましょう! どこか道を探して……」


 九郎が戦う決断をしたのではないと気付き、レイアは表情を引き締めて立ち上がる。

 かなり頂上に近付いている今、何処かを無理やり通って逃げる他に道は無いが、谷間の道で一人『魔動死体レブナント』の群れを喰いとめていた九郎が別の道を見つけているのではと、僅かな希望に懸ける様にレイアが九郎を見上げる。


「こっちだ」


 レイアの期待の籠った眼差しに、一瞬鼻白んだ九郎が短く答えて山を切る様に山を上がって行く。


「の、登ってどうするつもりですか!? クロウ様っ!?」


 九郎の腕に捕らわれたクラヴィスが驚いた声を上げる。

 九郎は山を登り始めた。

 白い岩がゴツゴツ突き出た斜面を、九郎は何かを探すように目を動かしながら登っていこうとしていた。


「うるせえっ! 静かにしてろっ! レイアも黙って俺に付いて来い!」

「は、はい……」


 小さな声で怒ったように声を出した九郎の真剣な表情に、クラヴィスは口を噤み、レイアも黙って後を追う。

 山をグルリと回る様に斜面を駆けあがって行く九郎の顔は、何処か泣き出しそうな子供の顔に見えて、ベルフラムが九郎の頬に手を伸ばす。


「――――心配すんじゃねえ……俺は……『英雄』だ!」


 まるで自分に言い聞かすように、ぶつぶつと口の中で言葉を繰り返す九郎に、何故かベルフラムは悲しい気持ちが込み上げてくる。


「……クロ……ウ……」

「―――――俺は―――――」


 ベルフラムの言葉に気が付かない様子で月明かりの下何かを探していた九郎が、足を止める。


「クロウ様……何か見つけたんですか……?」

「ああ……これだ……」


 レイアが遅れてその場に立ち、九郎が顎で指し示すそれに気付く。


 九郎が指し示したのは、草に覆われた穴だった。

 旅の途中、ベルフラムがレイアに尋ねてきた穴と同じ、草を押しのけるように地面に掘られた穴。


「『弾丸兎バレットラビット』の巣穴……?」


 冬が去り、巣穴を移した『弾丸兎バレットラビット』が残した、古い巣穴。


「どう……する…つもり……」


 魔力切れを起こして朦朧としているのか、ベルフラムが重たげな瞳で九郎に問いやる。

 その言葉に返事することなく、九郎はベルフラム達を巣穴の中へと追いやる。


「隠れてやり過ごすつもりなのですか?! 『竜牙兵ドラゴントゥース』は人を魂で感知します! やり過ごす事は……」


 強引に巣穴の中へと入って行く九郎に向かって、レイアが言葉を濁す。

 只の『小鬼ゴブリン』などでも人の匂いには敏感で、隠れ通す事は難しいと言うのに、魂と言う隠すことの出来ない物を追って獲物を見つける『竜牙兵ドラゴントゥース』相手に余りにも杜撰な手だ。

 狭い巣穴に潜り込まれれば、剣を振ることも無く全滅してしまう。

 九郎の考えた手を否定するには気が引けるが、『竜牙兵ドラゴントゥース』の脅威を分かっていない様子の九郎にしっかりと伝えねばと口を開くレイアは、その後の九郎の言葉に絶句した。


「やり過ごすんじゃねえ……お前らが雄一に狙われねえようにするだけだ……。

 あいつらは―――――――――俺が一人で片付ける!!!」



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