第099話  勝利の証


「クロウ……いる?」

「ああ……」


 扉の隙間から中を覗き見たベルフラムに、九郎は頭の中の殺意を振り払うようにして返事をする。


「灯りも付けないでどうしたのよ?」

「いや、ちょっと考え事してただけだって。どうしたんだ?」


 ベルフラムが恐る恐る部屋の中へと入って来る。

 いつもは遠慮のない少女だけに、今の自分がそれ程近寄りがたかったのかと思い、九郎は頬を引っ張りながら殊更優しげな声を出す。


「えー…っと。その、お礼を言って無かったなって……」


 ベルフラムは後ろで手を組みながら、モジモジと気恥ずかしそうに近寄って来る。


「礼?」

「うん……クロウが私の為に頑張ってくれたでしょ? 今迄なら何を贈ろうかって悩むんだけど……クロウってば全然何も欲しがんないじゃない。だからありがとうって言いに来たの」


 何処か手放しで喜べる勝利では無かったし、その後のアルフラムの一件もあって言いそびれていた言葉を言いに来たらしい。

 ベルフラムは九郎の腰かけていた外窓によじ登って、照れくさそうにしていた。


「別にそんな大したことやってねえよっ! ほれ、この通り怪我一つしてねえしなっ?」

「怪我の有る無しじゃないでしょ? クロウ……私の為に頑張ってくれてありがとう!」


 九郎が力こぶを作るポーズをして腕を叩く。

 ベルフラムが一瞬眉を顰めて、その後に真剣な表情で言葉を告げてくる。

 小さな手を九郎の膝に置き、しっかりと九郎の目を見つめ伝えてきた感謝の言葉に、九郎は気恥ずかしさと不甲斐無さを同時に感じる。


(頑張った……って言ってもなぁ……。結局雄一を取り逃がしちまったから、後顧の憂いが有りまくってて、なんか「やったぞっ!!」って手放しで喜べねえんだよなぁ……)


 自分の覚悟の無さが不安を残してしまう結果となった事に、九郎は暗鬱たる気持ちを抱いていた。

 今の九郎にはベルフラムの健気な一言を、素直に受け取れない。

 思い返してみれば、空回りばかりだった気さえする。

 2度も毒を仕込むチャンスが有りながら、嫌がらせに留めた事が悔やまれる。

 しかし、あの時点で雄一のイメージがベルフラム達に睡眠薬を盛った事ぐらいでしか無かったから、殺す事を躊躇っていたのも事実だ。ベルフラム達を眠らせて何かしようと企んでると睨んだのは九郎の予想であって、あの時の雄一の真意は分からなかった。

 何かを企んでるかもと、一方的な見方だけで毒殺を決意する事は九郎には出来なかったのだ。


 そこまで考えて、九郎は自分に致死毒・・・・・・を盛られていた・・・・・・事実を思い出す。

 あまりに毒に慣れ過ぎていて、毒を盛られたと言う悪意に気が付かなかったのだ。

 自分の生命が脅かされる事が無い九郎には、致死毒を盛られた所で、悪ふざけに唐辛子を入れられた程度の認識しか無かった事に気が付き、自分の迂闊さに苦面する。


「……ユーイチの事考えてるの?」


 九郎の苦み走った表情に、ベルフラムが心配そうに尋ねてくる。


「良く分かんな……。あいつがあのまま諦める分けねえんだよなぁ……」


 それ程自分の顔がわかり易いのかと、九郎は頬を引きのばして渋面する。

 幼い少女のいたいけな言葉にも返してやれず、逆に心配をかけてしまっている事にどうにも立つ瀬が無い。


「一応王宮への手紙も書いてもらってるんだけど……。これで中央聖輪教会神官長が処刑って訳にも行かないでしょうね……」


 多くの貴族が見ている中で、アルフラムが操られていた事実が分かったのだ。

 決闘時の反則行為や観客の殺害も相成って、ある程度の制裁は加える事が出来るだろうとグリデンが言っていた。

 領主の名前で王宮への陳情や、それに伴う根回しなどでアルベルトが忙しく飛び回っているらしい。

 逆にエルピオスは保身の為に教会へと引っ込んで、暫くほとぼりが冷めるまでやり過ごす腹積もりのようだ。

 しかし『支配』と言う厄介な『神の力ギフト』持つ雄一に、どれ程制裁が加えれるかと言うと微妙な所なのがベルフラムの言い分だ。

 それに中央聖輪教会の神官長と言う立場なのも、雄一を表だって罰せない理由の一つ。

 法を守る教会の重要職を罰すると言う事は、民衆に法そのものを疑われる切っ掛けになり得て、王としても処分がしにくい状況らしい。


「身分ってのは難しいもんだよな……」


 九郎が天井を仰いでため息を吐く。

 身分差など無いに等しい世界で育った九郎だったが、貴族や神官を政治家や宗教家と置き換えれば何となく理解できるような気がする。

 貴族の身分を持っていて、さらに神官長と言う職に就いていた雄一は、行政と法律を握っている立場になるのだろう。

 政治家の罪が表ざたにならない事など、よくある話だ。


「それでね? クロウ……」


 ベルフラムは貴族の立場を捨てる事を保留したと言った。

 何処か気まずそうなのは、自身の覚悟を覆す行為と思っているからかも知れない。

 しかし、ベルフラムが言う様に、貴族の雄一に対抗する一つの手として、貴族の身分は必要だとも思える。

 今回はベルフラムが貴族であったからこそ、雄一が迂遠な手を計画しなければならなかった。

 平民に身を落としてしまえば、身分の差によって理不尽な要求を撥ね退けにくくなる。

 クラヴィスやデンテと言う守りたい者を得たベルフラムは、身分と言う名の盾が必要だと感じ、一度捨てた筈の身分を再び拾い上げていた。


 結婚したくない為に身分を捨てたベルフラムが、自身の身と大事な者を守る為に再びその身分が必要に成ってしまった事に、ベルフラムも釈然としない思いが有るのだろう。

 ただ雄一と九郎の決闘時の取り決め自体は、大勢の貴族が見ていた為有効の様で、ベルフラムの『自由』は保障されるらしい。

「なので意にそぐわない結婚はしなくてよくなったわ……」と、ベルフラムは何処か気まずそうにはにかんだ。そう言った後、ズイとベルフラムが九郎ににじり寄る。


「でも意に沿う結婚ならしても良い……いいえ望むところなの! どう?」


 胸倉を掴んで上目使いで見つめてくる少女に、九郎は少し後ずさる。

 レイアとの結婚を進めてきたグリデンと言い、今のベルフラムと言いどうしてそんなに結婚を早まるのか。


「どう? じゃねえっ!! お前はまだ成人もしてねえだろっ!!」


 九郎はベルフラムの頭を押さえながら、引きつった笑みを返す。

 ベルフラムも九郎が子供に欲を覚えない事を知ってて言ったのか、片目を瞑って舌を出す。

 ベルフラムなりに場の空気を和ませようとした冗談だとわかり、九郎は肩を竦める。


「そっか、ま、ベルが決めたんならそれで良いんじゃね? じゃあ、またお姫さんに戻んのか?」


 ベルフラムの頭を押さえていた手で髪を撫でながら、九郎は貴族の身分のままいる事を選択したベルフラムの考えを尊重する。だが余計な一言を言ったらしく、九郎の言葉にベルフラムが頬を膨らませる。


「姫様って呼ばれるの嫌いなのっ!! クロウにはベルって呼んでもらいたいのっ!! 九郎だって嫌でしょ? 皆にご主人様っとか呼ばれるの……」

「ん? ……偶になら有りか?」


 メイド姿のレイアに「ご主人様」と呼ばれるのは、なんだか擽ったそうだが悪くない。

 美人のメイドに傅かれているようで、ある種男の夢とも言える。


「そうなの!? じゃあ皆に言っとくね!」

「…………………スマン。やっぱ止めてくれ……」


 だが同時にクラヴィス達もそう呼んでくる光景を思い浮かべ、九郎は即座に手のひらを回転させる。

 幼女に「ご主人様」と呼ばれる自分を想像して、何とも言えない背徳感が胸に痛い。

 様付で呼ばれる事だけでも居心地が良くないのに、ここに主人と入ってしまえば九郎の精神が持ちそうにない。

 子供は多少無礼な位が、九郎にとっては丁度いい距離感だと感じている。

 近所の悪ガキ共を思い浮かべ少し苦笑する。


「でしょ?」


 ちゃんと自分を見て欲しい、自分の名を呼んで欲しいといったベルフラムの感情とは少し違った理由で手のひらを返した九郎だったが、ベルフラムは自分と九郎が同じ思いを抱いたと思ったのか、同意を得られて満足そうに首を傾げていた。


「ん、どうしたんだ?」


 その時廊下の方から物音が聞こえ、九郎が顔を上げる。


「あ、そうだ! クラヴィスー、デンテー! 大丈夫ー? クロウに手伝ってもらうー?」

「だ、大丈夫です……」「お姉ちゃん、ちゃんと持ってぇー……」


 ベルフラムが思い出したかのように九郎の膝の上から飛び出し、扉の方に駆け寄って行く。

 扉の隙間から漏れ聞こえたクラヴィス達の声に、九郎も何事かと部屋から顔を出す。

 城の中だと言うのにクラヴィスとデンテが歩き回っているのは、アルベルトが滞在を認めたからだ。

 九郎もそうだが、本来クラヴィスとデンテがいること自体、不法侵入であり不味い。しかし長男であり次期領主のアルベルトが、雄一との決闘に勝利した九郎に便宜を図ると言って来た。

 エルピオスとよく似た顔立ちのアルベルトだったが、性格はどちらかと言うと抜け目のない商人のような印象を受ける。九郎が『来訪者』であることは知らないだろうが、『来訪者』である雄一を倒した事で、とりあえず悪感情を抱かせるのは不味いと思ったのかも知れない。


「って、ナンダソレッ!! でかっ!! てか危ねえっ!!」


 大きな樽を抱えたクラヴィスとデンテの姿に、九郎が思わず駆け寄る。

 レイアの屋敷で九郎達が風呂に使用した大きさと同じくらいの大きな樽を、顔を赤くして運んでいる獣人姉妹に、九郎は慌てて駆け寄り手を貸す。


「あのね……クロウ……。お願いが……」


 雪が詰められていて人5,6人分は有りそうな重量の樽を、二人の幼女で良く運べたなと九郎が呆れていると、ベルフラムが上目使いで見上げていた。


「言わんでも分かるわっ!! ってかこんなもん良く見つけて来たな……。扉通んのか?」


 扉の大きさと樽の大きさを見比べながら、九郎は小さく肩を竦める。

 クラヴィス達の城への滞在が許された途端に、風呂を望んできたベルフラムの『自由』奔放なこの提案に、少しだけ心が軽くなった気がしていた。

 九郎はクラヴィス達の頭を撫でながら、苦笑して樽を持ち上げる。

 樽の重さから解放された二人の少女が、尻尾を振っているのが見なくても分かる気がした。


☠ ☠ ☠


(ロリが俺を殺しに来てやがる……)


 暗い部屋の中、少女の裸体が3つ。九郎のベッドに横たわっている。

 スヤスヤと寝息を立てるあどけない少女達の寝顔に、普段なら安らぎを覚える所だが、今の九郎には頭の痛くなる事態でしかない。

 頭を抱えて唸りながらこの状況を打破する一手を考える。


 何とか大樽を部屋へと運び込み、簡易のドラム缶風呂を堪能したベルフラム達であったが、その心地良さの中で意識を微睡ませてしまっていた。

 樽の中で体を預けてきたベルフラムはとても気持ち良さそうに甘えて来ていた。

 九郎に礼を言いに来たベルフラムであったが、自分も褒めてもらいたい気持ちもあったのか、普段にもまして甘える素振りを見せ、九郎の手を自ら頭に乗せて少し恥じらいながらも動かす素振りを見せていた。

 それはクラヴィス達も同様だったようで、九郎は苦笑しながらも三人の幼い少女達を労った。

 久しぶりの風呂という事で早々とデンテとベルフラムが瞼を落とし、その事に気付いた九郎が慌ててクラヴィスを見やると、クラヴィスすら微睡の中に半身を突っ込んだ状態だった。

 緊張の連続だった事も有り、やっと安堵が込み上げて来て眠りに陥ったのも仕方ない事とも言える。

 慌ててベルフラム達をベッドに寝かせ、風邪をひかないように体を拭いていた九郎が、今置かれている状況の不味さに気が付くのはその少し後となった。

 何の情欲も感じずに幼女の体を拭いていたが、それは九郎が少女趣味ロリコンで無いからだ。

 そしてこの国は少女に情欲を覚える者が蔓延るロリの国。


 雄一の嗜好に嫌悪の感情を抱いた九郎であったが、自分も傍から見ればそう見られても言い訳できない状況に現在陥っている事に気が付く。

 ベルフラム達の裸など見慣れてしまっていて、流れ作業の様に体を拭いていたが、この国ではその行為を「保父さんみたい」とは見てくれないだろう。

 合わせて自分のベッドでスヤスヤと寝息を立てる少女の裸体。


(見られたら即死亡!! 嫌だっ!! 俺が雄一と同じような目で見られるなんて嫌だっ! しかしこいつらの服がややこしすぎるっ!! なんだこのヒモっ! 脱がす時は簡単なのになんでこんなにややこしいんだっ!)


 九郎は中世レベルの服の複雑さに頭を抱えていた。

 まるで姫初めにホテルに行って、事が終わってから着物の着付の仕方が分からず慌てるカップルの様だ。


 九郎が服を眺めてこの布はどの部分だと頭を捻っていると、部屋の扉にノックの音が響く。


(はい、死んだっ!! 俺死んだっ!! 『不死』だけど死亡! 社会的に死亡!! ああ、次の処刑方法はなんでしょか? 『火あぶり』でも『釜茹で』でも蝋燭プレイでも何でも受けきる所存でございますっ!)


 九郎が天井を見上げて天の神に祈る。ここでアルベルトだったりしたら、言い訳もできずに頭を床に擦りつける他に道が思い浮かばない。クラインだったらもしかしたら苦笑いで済ましてもらえるかもしれない。


「クロウ様……。ベルフラム様達をお見かけしませんでしたか?」


 九郎には扉の向こう側の声の主が神の様に思えた。


☠ ☠ ☠


 扉を開いたレイアが目にしたのは、神を崇める様な目をした九郎であった。

 顔を喜色に染め、両手を前で組み祈る様にして出迎えた九郎にレイアは驚きを示した。

 組んでいた両手を広げて、抱擁しそうなほどの喜びを表した九郎に、レイアは狼狽えた。


(なんでいつも裸なんですかっ!? 見慣れたとはいえ恥ずかしいんですよっ!??)


 レイアを出迎えた九郎は下着だけで、ほぼ全裸と言って良い格好だ。

 その姿に少ししか狼狽えない自分が汚れてしまった気がして、レイアは眉間に皺を刻む。

 しかし余程切羽詰まった状態だったのか、九郎はレイアの心の訴えに気付かず、涙を流さん勢いで感謝の言葉を口にしていた。


「レイアぁ~!! 助かった……!! ありがとう、レイアっ!! 女神みてえに見えるぜっ!!」

「ぴっ!? ぴひゃうっ!!」


 レイア驚きの声を上げてしまったのも無理は無い。

 九郎はレイアの手を握っただけだが、その勢いはこのまま抱擁に移行しそうな物があった。


 レイアの頬は突然火が入ったかのように熱く熱を帯び、心臓が跳ね上がる。

 九郎に微かな恋心を抱いていたレイアにとって、これ程の喜びで自分を見てきた九郎は初めての事。

 それでなくても今日の九郎は、レイアの目には特別に映っていた。


 主のベルフラムの危機にさっそうと駆けつけた九郎の登場は、レイアの心を揺るがすに値する格好の良さだった。

 騎士の物語の一節を画いた荘厳なステンドグラスを突き破って登場した九郎は、物語の騎士がその姿を現世に降臨させたかのような神々しく、物語の騎士に憧れ騎士を目指したレイアにとって、『ベルフラムを守る』為に現れた九郎の姿は、憧れた騎士そのものだった。

 瞼の裏に焼き付いている光を浴びる九郎の姿に、レイアの恋心は一段飛ばしで高まりを見せていた。


(ずるいんですっ!! クロウ様はずるいんですっ!! あんな神々しい登場の仕方をしたら、誰だってちょっとくらいときめいたりもするんです!! ベルフラム様の為に天から遣わされた騎士に見えても仕方ないんです!!)


 ベルフラムを守る姿にときめきを覚える辺りが、レイアの半生を物語っている。

 九郎に身を呈して救われた思い出から、多少は女心を得たレイアであったが、自分の立ち位置を騎士と定めているので、守られる事の嬉しさよりも、肩を並べて守ることの出来る存在に多くのときめきを覚えてしまっていた。

 主を守る自分を含めて、全てを守る為に立ち塞がった九郎の姿は、レイアの心に確かな憧れを生み出していた。


「レイアっ!! お前で良かった!! お前がいて良かったよ!!」

「ぴぇぅ…………ん?」


 九郎の言葉にレイアは顔を真っ赤にして視線を反らす。

 憧れを抱いた男性が、これ程自分を必要としてくれている。些細な事にも気が動転してしまうのに、いささかこれは刺激が強すぎると所在無げに視線を彷徨わす。その視線が自分の両手を掴んでいる九郎の手に吸い込まれる。


「………クロウ様? それは?」

「ああ! レイアに聞きてえんだっ! これはどうするものなんだ?」


 レイアの手と共に握られていた白い布を掲げて、九郎が顔を近付けてくる。

 顔を赤くしたレイアは九郎の問いに平手打ちで答えた。

 レイアの一段飛ばしで高まった恋心は、静かに一段降りる事になりそうだった。


☠ ☠ ☠


「クロウ様っ!! とうとう……!!」


 レイアが口元を覆いジト目で九郎を睨む。

 絹で出来た薄い下着をもったままの九郎が、悲壮感漂う顔で佇んでいた。


(まあ……大体想像がつきますけど……)


 ベッドに横たわって幸せそうに寝息を立てている三人の少女を見ながら、レイアは溜息を吐き出す。

 あまりに無防備に裸体を晒している少女達に、もういまさら怒る気すら湧いてこない。


「レイア……俺はロリコンじゃ……ねえよぅ……」

「分かってますって。冗談ですよ……。全く……ベルフラム様もクラヴィスさんも無防備すぎます。まあ、それだけクロウ様の傍が安心できるのかもしれませんが……。もうちょっと恥じらいを覚えてもらわないと……」


 泣きそうなほどの弱り顔で視線を向けてくる今の九郎に、先の格好よさは微塵も無い。

 結構思いっきり叩いてしまった頬は、既に赤みも残っていない。

 片目を瞑っておどけてみせると、九郎の顔が輝きを取り戻す。

 頑丈だとは聞いていたが、今日の雄一との決闘の後も傷一つ出来ていなかった事を思い出し、レイアは改めて九郎の丈夫さを認識する。


「俺はそれをレイアに頼んだはずなんだが……」

「お、お爺様にも文句を言わないといけませんよね?」


 あまりいじめると藪蛇になりそうなので、九郎をからかう事を止めてベルフラム達に下着を着せて行く。


(もう下着だけで良いですよね。どの道ベルフラム様はクロウ様と寝たいって仰るでしょうし……クロウ様が一緒なら温かいですから……。……いいなぁ……ってあれ?)


 ベルフラム達に下着とシミーズだけを着せ終わり、レイアは自分の考えに首を捻る。

 ベルフラム達に九郎が何かするとは思ってもいない。逆にベルフラムがいつか九郎を襲うのではとの心配の方が強いくらいだ。ここ数日張りつめていたベルフラムが、こんな寝顔を見せるのは九郎の傍に安心しているからに他ならない。

 そして少しベルフラム達を羨ましいと感じてしまった自分に、何とも言えない気持ちを抱く。

 温かな湯で心身ともに解された少女達が、このまま常に温かい九郎と共に寝る。それがどれほど心地良いのかを、レイアも知ってしまっている。


(クロウ様があったか過ぎるのがいけないんですっ!!)


 最初の頃は疑う気持ちばかりで、九郎も一皮むけば他と変わらないと思っていたレイアも、今ではかなりの信頼を九郎に置いている。

 それほど長い期間では無いが、共に生活する中で、同衾してすら彼からは一切手を出す素振りを見せなかった。それはレイア自身に「女の魅力が無いのでは?」と思わせるほどで……。


「クロウ様、私もレミウスに来てからお風呂に入っていないんです。……その……駄目ですか?」


 レイアが少し俯きながら九郎ににじり寄る。

 その光景がどれほど猥らな光景なのかを知りつつも、レイアは頭に浮かんだ言い訳を盾に、少し恥じらいながらも言葉にしていた。

 目の前の男には既に何度も裸を見られている。

 今更との思いもあったし、風呂に入りたいと思ったのもまごう事なき本音だ。

 ベルフラムの想いに気付いているレイアは、勿論九郎を横から掻っ攫おうとかは考えていない。

 しかし父グリデンも言っていたように、主の側室に近従が治まるのもこの国に置いては珍しい事でも無かった。

 遅い初恋に少々暴走している自覚もあったが、言った後ではもう遅い。


「うぇっっ!?」


 疲れた顔で外を眺めていた九郎が、レイアのセリフに頭から湯気が出そうな勢いで赤面していく。

 九郎の表情に自分が今更ながらにとんでも無い事を口にしていると、レイアの全身も火照って来る。


「い、いや…良いんだけどよ……。そ、その、あの、狭すぎねえか?」


 ワタワタと両手を動かしながら大樽の直径と自分の腰幅を図り始める九郎に、レイアは大いに赤面していた。

 幾ら大きな樽と言えど、大人二人が入れる程の広さは無い。よしんば入れたとしても二人が重なる事になり、それは幾らなんでも卑猥すぎる。


「一緒に入る訳じゃ無いですって! 腕を浸けて貰えればいいじゃないですかっ!」


 九郎に先に湯を沸かしてもらって入る手もあるが、大樽の中の水はアルバトーゼの屋敷の浴槽と違い水の量が少ない。直ぐに冷めてしまう。


「そ、そソそソそソウダヨナァ~。いや、わわわ分かってったったって!」


 九郎が何時もにもまして落ち着きが無い事に、レイアが少し苦笑する。

 自分の裸も度々見られている筈だが、これ程赤面させる事が出来ているのなら、自分も女性として捨てたものでも無いと思える。いき遅れと思われている自分も女として見られていると思えば、少し嬉しい気持ちも湧いてくる。


 九郎が窓辺に腰かけながら樽に手を浸け、此方を見ないように外へと目を向けた。

 だがレイアが腰ひもを解く音にいちいち体を竦ませているので、興味があるのは間違いなさそうだ。


(あ……あれ……? い、いつもよりも何だか恥ずかしい気がしますっ! ナンデスカコレッ!? えっ!? 私が男性の部屋で服を脱いで……)


 九郎の反応に引きずられて、レイアも羞恥の感情の方が大きく成っていた。

 暗い部屋で服を脱ぎ終えたレイアは、湯に入る前だと言うのに全身が赤い。


「で、できればあまり見ないでもらえますと……う、嬉しいです……」

「りょ、了解したでありますんっ!!!」


 眉間に皺をよせ目をギュッと瞑って、さらに彼方を向く九郎にレイアの顔がほころぶ。

 今や国の『英雄』を倒した『英雄』なのに、小娘の裸に落ち着かない様子を見せている九郎は、どう見ても純朴な田舎の青年のようだ。雄一に対して感じた恐怖とも畏怖とも言える、内包する力による威圧感を全く感じない。


「はぁ~……」


 レイアは樽の中へゆっくりと体を沈め、じんわりと来る痺れに身を燻らせた。

 思わず出てしまった声に九郎が肩を跳ね上げる。

 樽の中に入れられた九郎の腕は絶えず湯を温め続けている。

 体の芯から解きほぐされる快感に、レイアがふうと息を吐き出す。


「クロウ様はすごい……クラヴィスさんの言っていた通りですね……」

「え、いや? ベルにも出来るんだぜ? これくらい」


 九郎が上ずった声で謙遜する。

 レイアの称賛の言葉に何処か気まずそうにしていたが、そこに少し影があった。

 実際ベルフラムの魔法であれば、この樽位なら一瞬で沸騰させることも可能だろう。

 鉄の剣を溶断し、強力な魔物すら一瞬で屠れる今のベルフラムの魔法の力は、宮廷魔術師クラスだとレイアも思っている。

 しかし、今九郎を称賛しているのはそう言う事では無かった。


「いえお風呂の事では……いえ、これもそうなんですが……。分かってるんですか? あなたは国の『英雄』に勝利したんですよ?」


 レイアの言葉に外を向いて耳を赤くしていた九郎が、少し俯く。

 ガラスに映った九郎の顔は何処か苦しげで、レイアの心がざわめく。


「……まだ勝ててねえよ」


 ぼそりと呟いた九郎の声は、悔し涙を堪えている子供の声の様な響きがあった。

 あれ程の力を持つ雄一に勝利したと言うのに、九郎はその事を誇るでもなく、驕るでもなく、逃げた雄一の存在を恐れているかにレイアの目には映っていた。


「レイアがいつも言ってるよな? 『ベルを守りたい』って……さ。俺もそうさ……。お前らを守りてえんだ……。

 まだ半年も経っちゃいねえ付き合いだけど、俺の大事な人ってのはお前らしか居ねえ。この世界で俺は天蓋孤独の身って奴だったんだ……」


 アクゼリートの世界に転移して来た九郎にとって、知り合いと呼べるものは少ない。

 ベルフラムと出会ってからもまだ4ヶ月も経っていないが、それでも九郎にして見れば一番長い付き合いになる。

 異なる世界に飛ばされた九郎はまさに天涯孤独の身となってしまっていた。

 荒野で一ヶ月半彷徨い歩いた末に人の気配に涙を流した九郎は、人との繋がりに飢えていたと言って良い。


「ちょっとでも仲良く成っちまったら、そいつらを失う事がこええんだ……」


 僅かに出来た繋がりの為に体を張るのに、九郎は何の躊躇いも無かった。命の価値を無くした九郎にとって、大事な人の命が何より大切であり、その為に身を投げ出す事に何の障害も葛藤も無かった。

 その心の奥底で、ベルフラム同様、九郎も孤独に怯えていた。


「レイアは俺をすげえって言うけど、別段俺はすげえ力を持ってる訳じゃねえ……。兎にも翻弄されるようなチャチな力しかねえ。俺にあるのは『負けねえ』って力だけだ……。『勝てる』力じゃねえんだよ……」


 レイアは九郎の言葉に異議を唱えようとした。

 だが言葉を継ぐことが出来ない。九郎は確かに『英雄』に勝利したと言うのに、雄一の攻撃を撥ね退けていたと言うのに、雄一を打ち倒す事は敵わなかった。


「『勝てねえ』俺は凄くなんかねえ……。ただただ諦めの悪いボンクラさ……」


 九郎の独白めいたセリフは暗い部屋の中に静かに落ちる。


「それでもっ……その諦めないクロウ様に私もベルフラム様も救われたんです!」


 九郎の言葉に思わずレイアが立ち上がる。

 水音に驚いた九郎がビクリと体を竦ませる。慌てた様子で瞼を落とす九郎の顔を、レイアの細い指が強引に引き止めていた。

 頑なに目を閉じている九郎の瞼を親指で優しく撫で、瞳を開ける様に促す。

 薄目を開けた九郎の目にレイアの真剣な顔が映っていた。濡れた金の髪が桜色の頬にかかり、まつ毛の長い大きな瞳が九郎を見据えていた。

 驚いた顔の九郎にレイアはニコリと微笑み、九郎の視線をベッドに向ける。

 そこには安らかな寝顔の三人の少女の姿があった。


「この身も、あの子たちの寝顔も……皆クロウ様が守って来た物です! 諦めないクロウ様が守れたものなんです!」


 レイアの言葉に九郎は少しだけ表情を緩ませていた。

 今迄、何処か勝利したのに敗残兵のような表情をしていた九郎が、やっと顔を綻ばせた事にレイアは安堵の吐息を吐き出す。


「私だって怖いですよ……。あの男が再び襲ってきたらと考えると不安で堪りません。でも、今日のあの子たちの寝顔を見れたのは……クロウ様が『今日』に勝ったからだと思いますよ?」


 レイアは自分が弱い自覚が有る。

 心が弱く、自分の無力感にもいつも苛まれている。

『ソードベア』の猛攻に苦戦し、『クリスタル・バグ』に一撃で眠らされた。

吸い込む岩インヘイルロック』に捕まった時は命すら諦めてしまった。

 ベルフラムを暴漢に人質にされ、捕まってしまった時にも心が折れかけた。

 雄一の魔法に狙われていると知った時は足が竦んだ。

 だがレイアはベルフラムの騎士を自称する。折れた心を継ぎ直し、剥がれた自信を破り捨ててもベルフラムの為に何かできないかと考えることだけは常にして来たつもりだった。

 レイアが前に進めるのは、『今日もベルフラムが無事でいた』と言う『勝利』を毎日得ているからだ。

 弱い自分に何が出来るかなど、レイアも未だ分かっていない。

 それでもベルフラムを何かからは・・・・・守れると信じて、毎日の鍛錬を止めようなどとは思わない。


「『今日』に勝った……か……」


 スヤスヤと寝息を立てる三人の少女の寝顔を見ながら、九郎がポツリとレイアの言葉を反芻していた。

 その顔に次第に笑顔が戻ってくる。


「そうだよな……悔やんでる暇なんてねえよな! 『今日』の勝利を積み重ねりゃ、きっと『明日』の勝利に繋がるもんな! サンキュー、レイア! ちっとは気持ちが……軽く……な…… 」

「私はいつもそう思う事で挫けずにいられるんです! 少しは気持ちが上向けば良かったんですが……」


 ようやくいつもの九郎に戻った事で、レイアも胸を撫で下ろす。

 九郎の手を取り、励ませたことを喜ぶレイアに九郎は赤面しながら上を向く。


「いや、上向いたんだが……」


 九郎が天井を見上げて硬直している様を見て、――いえ、そういう事では無いんですが……。とレイアは困り顔を作る。その後やっと今の自分の姿に気が付き、瞬間的に顔を青ざめさせた。


「ぴひひゃわぅっ!」


 レイアが今まで聞いた事の無い悲鳴を上げて、樽の中へと沈んで行く。

「今更だ」とは思っていても、息遣いすら感じられる距離で九郎に何もかもを見られてしまったと言う事実は、想像以上に恥ずかしかった。


(上向いたって気持ちの話ですよね? アレの事じゃ無いですよねっ!?)


 レイアの青い顔が今度は朱に染まる。

 体の差す赤みも、湯によるものか羞恥の為か判別つかない。

 頭の中ではレイアも見慣れて来た九郎のアレが頭をよぎる。

 成人男性のアレを見たのは九郎が初めてのレイアであっても、男のアレがどうなるのかは流石に知っている年齢だ。

 男兄弟に囲まれて育ったレイアは、知識だけはベルフラムよりも進んでいる。


「レイア……スマン……」

「いえ……。少しでも元気が出たのなら良かったです。そ、そっちの話じゃないですよ?」


 九郎の謝罪が裸を見てしまった事に対してなのか、それとも気を遣わせてしまったとの思いからかレイアには判断できない。

 単純に九郎が自分を責めているように見えたので、レイアなりに前に進む方法を教えようとしただけだったのだが、自ら嵌った墓穴をさらに掘り進めてしまい、レイアは体を湯に沈める。


「じゃ、じゃなくて……その……傷が残っちまったみてえで……」


 九郎の言葉に一瞬キョトンとしたレイアは、傷と言う単語でやっと九郎の言いたいことを理解した。

 レイアの豊かな胸の下、埋もれるようにして残っていた火傷の痕。


「え? あ、ああ……。これはワザと残してるんですよ。これは私の戒め……それと……恥ずかしいですけど乙女心? と言うか女の勲章と言うか……」


 自分の胸を押し上げるようにして谷間へと下から潜り込ませたレイアの手に、少し突っ張った肌の感触が伝わる。

 歪な炎の形に残った九郎の手の平の痕。

 思い返すと、九郎は殊の外、レイアの身に刻んでしまったこの傷痕が治るかどうかを問うて来ていた。

 その一場面を思い出し、面映ゆい想いに身をくねらせたレイアは、ずっと気に病まれるのもと、「傷を残した理由」を告げる。


「その……あれ? 結構恥ずかしいですね……ホントに……。いや、まあ私も守ってもらえた事があるんだぞーって……いえ、騎士としてそれはどうなんだって思うかも知れないですけど……」


 気恥ずかしさから努めて軽く言ったつもりだったが、レイアは違った羞恥に身悶えることとなっていた。

 『吸い込む岩インヘイルロック』に襲われ捕まった時に、凍った湖の冷気から守る為に九郎が付けてしまった傷跡を、大事に残している事はまだ誰にも言っていなかった。

 何も出来なかった戒めとして……そして男に守ってもらった勲章としてレイアは傷跡を残していた。レイアの捨てきれない乙女心の形でもある。


「だから、この傷はクロウ様が気に病む必要はありません。この傷跡は諦めそうになる私のお守りでもあるんです……」


 レイアは湯の中で自分の火傷の痕を撫で、心の中に留めていた自らの弱さを曝け出す。


「心の弱い私が……未だ挫けずにいられるのはこの傷のおかげもあるんですよ。私が諦めた物ですら救った……」


 瞳を閉じて九郎の指の痕を感じるレイアは、少しだけ潤んだ瞳を九郎に向けた。


「……『負けない』クロウ様が『勝った』証ですよ……」


 レイアの囁きは、九郎の赤い耳にも届いたようだった。


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