第098話 悪
――――何故躊躇ってしまったのだろう……――――
夜の帳が落ち、始春祭の祭りの火が赤々と燃えるレミウス城下街を見下ろしながら、九郎は自問する。
街の灯りは春の訪れを祝う人々の、命の煌めきともとも思える暖かな物だ。
レミウス城のベルフラムの寝室の隣の部屋で、九郎は一人で考え込んでいた。
風に乗って喧騒すら聞こえて来そうなほど、煌々と踊る灯りに対して九郎の表情は暗い。
春を運ぶ風が、何処か冷たく感じて九郎は自分の肩を抱く。
冷気など今までこの世界に来てから殆んど感じた事など無かった筈なのに、今日はずっと身震いがする。
それが自分の内側から来る寒気だと気付き、九郎は顔を覆う。
雄一を取り逃がしたことを、否、雄一を殺せなかった事が九郎の心を寒々しい物にしていた。
九郎は拳を振り下ろせなかった事を、今更ながらに後悔していた。
☠ ☠ ☠
「クロウっ!!」
グリデンが九郎の勝利を宣言すると、ベルフラムが観客席から飛び降り駆け寄って来る。
溶け始めた泥が白い豪華な衣装を汚す事も厭わず、泥の中を走って来る。
レイア達が慌てて後を追うのを見ながら、九郎は胸の中に溜まった緊張の塊を吐き出すと、その場にドッカと腰を下ろす。
何とも言えない幕引きを終えた九郎が、腑に落ちない表情でベルフラムを迎える。
「クロウっ! 大丈夫なのっ!? 怪我は!? 傷を見せてっ! レイアっ! 早く来てっ!!」
いつもなら飛び込んでくるはずのベルフラムの表情は、どこか悲壮で泣きそうな顔だ。
夕闇に残る僅かな光の中で、心配そうに九郎の体に目を走らせている。
回復の魔法を使えるレイアを呼ぶ声にも、余裕が全く見られない。
「大丈夫だって。俺は丈夫に出来てんだよっ! どこも怪我しちゃいねえさ」
「だってクロウ! 一杯刺されてた! 一杯痛そうだったじゃない!」
「ば~か。アレは演技だよ演技。俺はのれえからな! 相手を油断させ、捕まえる為の演技って奴だ。最後のだって俺の炎の前じゃ刺さりもしなかったぜ? なんせベルの魔法の剣と同等の威力があっからよ? 鉄だって何だって溶かしちまったのさ」
九郎の体を目を皿にして確かめるベルフラムに、九郎は苦笑しながら答える。
最後の雄一の妻たちが放った一撃は、確実に九郎を貫いていた。
だが、雄一に馬乗りになった状態であった為、貫いた刃の先は観客席からは見えなかっただろう。
そうあれば良いと期待して、九郎は胸を叩いて見せる。
「本当? 本当に大丈夫なのね? やせ我慢とかじゃ無いのね? 後で傷が開いて死んじゃったりしたら泣くからね?」
泣き顔で言われても困るとばかりに、九郎は憮然とした表情で頭を掻く。
「俺が怪我した所見た事ねえだろ? いつも言ってんだろ? 俺は大丈夫! 大大大大大だーい分、丈夫にできてんだよっ!!」
両手を大きく広げて大げさに言いやる九郎に、ベルフラムはやっと泣き顔に笑顔を加える。
なら遠慮はいらないとばかりに飛び込んでくるベルフラムを、九郎は苦笑しながら受け止める。
白いドレスは今は泥に汚れて斑模様だ。それでもかまわず頬を擦りつけてくるベルフラムを見やり、九郎は何とか守り抜けた実感を持つ。
「クロウしゃまぁっ!!」
「クラヴィスさん! 早く確認をっ!」「はいっ!!!」
飛び込んで来るデンテを迎え入れると同時に、九郎はズボンをしっかり押さえる。
クラヴィスが鼻を擦りつけてくる様子を察して、生き残ったのに社会的に死ぬかもしれないと、冷や汗が噴き出てくる。
(大体なんでレイアが仕向けてんの?!?)
九郎が半眼でレイアを睨むが、レイアの真剣な表情に眉を下げる。
やはり皆に心配をかけてしまったのは間違いない。いっその事レイア達には『不死』を打ち明けても良いのではとの思いを抱く。だが、ベルフラムに罪の意識を抱かせない為には、やはり隠すべきだと思い直す。
そんな九郎達に水を差して来るものが現れる。
「こ、こんな決闘を認める訳にはいかんっ! 妹よ! 早くその賊から離れよっ!」
「いまさら何言ってるの? お兄様も認めたでしょっ!?」
九郎の無事を喜ぶベルフラムがエルピオスの言葉に眉を吊り上げる。
しっかと九郎を胸に抱きすくめながら、親鳥が雛を庇うようにして牙を剥く。
「そもそも前提が間違っておったのだ! 領主の娘を自分のモノと宣言すること自体がなっ! 貴族とは王によって賜った身分の者! 勝手な言い分で譲渡を認める訳にはイカンっ!」
結果が決まってから勝負に文句を付ける者を説得するのは、九郎の経験上非常に困難だ。彼らが認めないのは最終的には自分が負けたと言う事実であって、勝負の行方では無いからだ。
九郎が眉を顰めながら苦み走った顔をする。
エルピオスとしても、手段を尽くして雄一に協力し、強引な手を使ってまでベルフラムの身を雄一に献上しようとしていただけに、最後の最後に自分の手の届かない場所で勝手にやり取りされ、納得できない何かがあるのだろう。
「おあいにくさまっ! 私の身の上は王より上の方々から認めてもらっているわ!!」
ベルフラムが咬みつかんばかりに反論する。
「王より上位の存在など存在する訳が無いではないかっ!!!」
「あら? お兄様がそんな事仰って良いのですか?
「ならば神にでも認められたとでも言うつもりかっ!!」
「ええ、その通りよ! 私の身体はクロウのモノ! これは神によって認められたわ! お兄様もご存じでしょ? クロウが審判の部屋で弁明した時、私はクロウのモノと宣言したわ! お兄様は認めたくない様子でしたけど、クロウはちゃんと刑を受け、自身の身が潔白である事と、私の言が正しい事を証明した筈よ? それともお兄様は審判の神『ソリストネ』の裁決に疑問を持たれるの?」
ベルフラムの言葉にエルピオスの言葉が詰まる。
まがりなりにもエルピオスは、国教である『白の神』の神官である。
聖輪教会の幹部である自分が、神の審判に異を唱えるのは立場的にも困難だ。
ベルフラムの勝ち誇った顔でエルピオスを睨みつける。
そこにアルフラムがアルベルトを伴い近づいて来る。
「今の試合はナッシン卿の勝利とする」
「お父様っ!?」「閣下!?」
突然のアルフラムの言葉にベルフラム達が目を瞠る。
目の前での勝利をまるで見ていなかったような物言いに、正気を疑う。
その場に居る殆んどの者が、アルフラムが何を言ったのか理解できないでいる。
「かの『英雄』であるナッシン卿が、神聖な決闘において反則をおかす筈があるまい。そこの男が我が娘を人質に取り卑劣な真似をしたのであろう」
印象が凝り固まっているのか、アルフラムの言葉は雄一側に多分に偏っている。
式典や決闘時の雄一の言葉など聞いてはいなかったかのようだ。
観客席からもざわめきが聞こえる。
流石にどう見ても反則を犯したのは雄一の方であって、それは雄一側の立会人であるバムルも認めた事なのだ。
「何処をどう見たら私がクロウの人質に見えるって――――」
「私がそう見たのだ。領主の裁決である」
「公爵閣下……」
アルフラムは抑揚の無い声で、ベルフラムの言葉を遮る。
クラインが苦しげに呻く。
クラインもかつて仕えた主人が、これ程誤った裁決を下した事に、居た堪れない様子を見せている。
「お父様の目は節穴…なん…です……か……」
ベルフラムが眉を上げて食ってかかろうとアルフラムを睨みつけ、そして目を見開く。
ベルフラムの目にはアルフラムの冷たい
「あなたはいったい誰っ!!?」
「公爵閣下……いえ、アルフラム様……!!!」
ベルフラムが杖を構えるのと同時に、俯いたクラインが剣を抜く。
誰もがベルフラムの言葉に驚きを表す。
その驚きはクラインの行動でさらに増す。
剣を抜いたクラインが、一瞬でアルフラムとの距離を詰め、剣を横に一閃する。
「クライン! 血迷ったか!?」
「お爺様!?」「クラインさん!?」
アルフラムの隣にいたアルベルトが怒声を発し、レイアや九郎が思わず声を出す。
アルフラムの顔に横一線の赤い線が走り、続いて目から血を噴き出す。
「領主に向かって剣を振るうとは! 極刑どころでは済まされぬぞ!」
「既に黄泉路の支度は終えておりますので、今更死など恐れはしておりませんな……」
エルピオスの言葉を受け流しながら、クラインは剣をカチンと鞘に納める。
ベルフラムだけがアルフラムを見つめ、目を凝らしている。
「アルフラム様……。我々はお互い歳を取り過ぎたのでしょうな……。目が曇り、若い命が眩しいのかもしれません……。曇り切った
クラインはベルフラムに一度目を向けると、アルフラムに語りかける様に自嘲する。
かつて仕えた主の曇った眼を諌めるかのようなクラインの行動に、誰もが息を飲む。
長年仕えた主に向かって剣を振るったクラインは、どこか寂しそうに空を眺める。
沈黙が夕闇に落ちる。
その沈黙を破って、青い粒子がアルフラムの目から立ち昇り、続いてアルフラムの痛みとは違う種類の絶叫が木霊する。
「ああああああっ! 『
「!?」
目元を覆い、瞼の裏の景色に怯える様にアルフラムが尻餅をついて後ずさる。
いきなり恐慌をきたしたアルフラムの様子に誰もが絶句する。
切り裂かれた眼の痛みよりも恐怖に慄き、必死に逃げようとしている。バタバタと手を付きながら逃げ惑う素振りを見せるアルフラムは、悪夢にうなされた夢遊病患者のようだ。
「『
大声で助けを呼ぶ様は、今まさに喰われようとしているかのように迫真に迫っている。
ベルフラムがアルフラムの言葉に何故か怒りを表す。
恐慌状態の父親を見て、拳を握りしめ口を真一文字に結んでいる。
その目はアルフラムの背後を睨むような、憤りに耐える表情だ。。
「どうなされました!?」
「その声はクラインかっ!? 何故今クラインがここに!? お前はベルフラムの捜索に向かったのでは無かったのか!?」
クラインの問いに答えたアルフラムの言葉に、今度は多くの者が口元を覆う。
アルフラムがおかしい。
『
それがアルフラムには昨日の事の様に感じられるのだろうか。
「アルフラム公爵閣下! 『
クラインが大声で問いかける。
「我が軍は壊滅し残すところは近衛5人しかおらぬ! どうしてあの化け物を倒す事が出来るのだっ!!」
「父上はナッシン卿に救われたのでは無いのですかっ!?」
アルベルトが困惑した様子で尋ねる。
クラインの暴挙など忘れたように、父親であるアルフラムへと詰め寄っている。
「ナッシン卿など会った事も無い! それよりも逃げねばならん! 国王に助力を乞わねば領地がっ!!」
何処へ向かっているのかも分からぬ様子で、アルフラムは手を振り回し地面を這う。
「操られていた……のね…………」
ベルフラムの重苦しい呟きが、夕日と共に沈んで行った。
☠ ☠ ☠
半時後にやっと落ち着き始めたアルフラムの言葉に、アルベルトはおろかエルピオスまでもが驚愕を示した。
アルフラムは『
1ヶ月もの間話したことはおろか、つい先程の話の内容すら覚えてはいなかった。
アルフラムの記憶は大口を開けて襲い掛かる『
アルフラムには雄一と会った記憶も無く、心から絶望した瞬間に意識が無くなったようだった。
「まさに『人形遊び』って事なのね……」
ベルフラムがポツリと溢した。
雄一がベルフラムに執拗に絶望を与えようとしていた理由が、分かったような気がした。
雄一は絶望した、心を失った人間を操る事が出来る。
これがベルフラムの出した結論だった。
アルフラムと共に城へと戻った近衛の騎士達も、同僚の記憶と違って皆青い目をしていた。
グリデンが沈痛な面持ちで近衛の騎士たちの目を潰すと、皆アルフラムの時と同様に恐慌をきたしだした。
近衛騎士達も『
アルフラムの目を切り裂いた時と同じように、騎士たちの瞳から青い光が立ち昇るのを見ながらベルフラムは九郎に言った。
「ユーイチの『
思い返せばチンピラに捕まった時の衛視も青い目をしていた。
どれ程の者達が雄一に『支配』されているのかと考えると気が重い。
グリデンとクラインが引き受けてくれたが、青い目の人間を全て調べなければならない。
「レイアは大丈夫なのかしら?」
「それは流石に酷いと思いますですよ? ユーイチと言う男が操ってまでして、レイアさんがクロウ様を好きになるように仕向けるとは思えなモガッ!」
「な、な、何を言ってましゅのでひゅかっ! クラヴィシュしゃむっ!!」
ベルフラムの言葉にクラヴィスが諌める様に言い咎め、レイアがとばっちりを食って慌てていた。
普段なら飛び上がって喜ぶクラヴィスから知らされたレイアの気持ちも、九郎の耳には入って来なかった。
「クロウ? どうしたの?」
「え? ああ……何でもねえよっ! ちょっと昨日徹夜しちまったから眠気が……な……」
心配するベルフラムの声が遠くに聞こえた。
九郎は見上げてくるベルフラムの瞳から目を逸らし、自分の中に渦巻く怨嗟の感情を隠した。
☠ ☠ ☠
――――何故殺さなかった――――。
九郎は暗い部屋で一人、自問する。
殺せる、殺せないと言う実力の差から来る事実では無く、覚悟の問題だ。
九郎の心の中に焦燥と後悔と、雄一に対する憤りが渦巻いていた。
九郎の追撃の拳を止めた光景が、何度も頭の中に蘇り、その度に言いようの無い怒りが込み上げてくる。
どんなに最低な男でも、あの少女にとっては雄一は身を呈して庇うに値した。
雄一を庇った少女を見て、九郎はそう思っていた。
九郎にとっては下衆で残忍な印象しかない雄一だが、彼女には庇うに値する大事な存在なのではと思ってしまった。
そもそも悪と正義など見方を変えれば180度違ってくる。
九郎の生前の友達にも、悪そうな奴もいれば嫌味な奴もいるし、十全に聖人君子と言える者など一人もいない。だが九郎にとってはかけがえのない友であり、仲間であった。
少女が庇った雄一にもそういった、少女にとって大切な何かがあったのではと思っていた。
だからこそ九郎は拳を振るうのを躊躇ってしまっていた。
――――だが、少女の瞳は青かった。
九郎の心にほの暗い感情が渦巻く。
雄一を少女が身を呈して庇ったと思っていたが、もし少女が操られていたとするならばその見方が途端に邪悪極まりない行為に姿を変える。
雄一をその身を呈して庇った少女が、その実雄一に操られ楯にされたと言う事になる。
九郎の良心を見込んでの行動か、それとも本当に少女を犠牲に生き延びようとしたのかは分からないが、雄一の性根を360度悪と断じるに値する行為だと言える。
自分の命の価値を失った九郎には、少女を犠牲にしてまで生き延びようとした雄一が、反吐がでるくらいに悍ましい物に見える。
「あの時……俺が拳を振り下ろしていれば……あの子ももしかしたら……」
――救えたのかもな……。とは九郎は言えなかった。死によって救われる命が有る事は知っていたが、死の無い九郎にそれを言う権利は無いように思えた。だが、雄一の思うがままに操られている人生が、生きているとも考えられなかった。どうすれば正解だったのかを考え、悩み、それこそ自分の独断で結論付ける事こそが越権に思えた。
もっと早くに殺しておけば良かった。
その感情だけが九郎の中に確かに存在していた。
ベルフラム達を守り切ったと言う安堵の感情は既に無く、不安と焦燥だけが九郎の心を満たしていた。
「クロウ……いる?」
扉から灯りが漏れ、その隙間から赤い髪が覗いた。
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