第094話  降ってわいた話


「レミウス領領主アルフラム・ダリオ・レミウス・アプサルティオーネの名において宣言する――――


 ――これよりベルフラム・ディオーム・レミウス・アプサルティオーネとユーワン・ホーク・ナッシンとの婚姻の儀を執り行う――」


「………え?」


 頭上から降って来たアルフラムの言葉に、ベルフラムが呆けたような声を出す。

 意味が分からない。

 父は約束してくれた筈では無かったのか。

 式典の最後を飾る花冠を受け取ればそれで終わりでは無かったのか。


「そんな!? お父様!? 約束が違います!!」


 騙され、裏切られていた事に気付いて蒼白の顔でベルフラムが叫ぶ。

 迂闊だったと内心で歯噛みする。


「知らぬ」


 ベルフラムの悲壮な声にアルフラムは抑揚の無い、冷たい一言で答える。

 あれだけの決意を込めて訴えた言葉は、父にはなんら届いていなかったのだ。

 子供の戯言として受け止められ、容易くあしらわれてしまった事にベルフラムは気付く。

 そして、目の前に吊り下げられた『自由』と言う言葉に浮かれ、最悪の展開を予想できなかった自分自身に腹が立つ。


「いや~。素晴らしい計らいだねぇ~。春の到来を告げる始春祭での結婚式! それもこの国の『英雄』たるこの俺とアプサル国一番の領主の姫さんと結婚たぁ縁起がいいじゃない!」


 ベルフラムが焦燥の双眸をアルフラムに向けた時、パチパチと音を立てて一人の男が参列者の中から姿を現す。

 突然の出来事にざわめき出していた周囲の参列者に、静寂を求める様に手を叩きながら。

 その声にベルフラムが怒りの視線を向ける。

 ベルフラムの怒りの視線を涼やかに受け流しながら、雄一が両手を掲げて周囲を見渡す。

 役を終えた役者の様に周囲に片手で礼をしながら、殊更濁った笑みをベルフラムに向ける。


「これからす・え・な・が・く可愛がってあげるからヨロぴくね~」


 煽る様な物言い。

 まるで子供の積み上げた積み木を蹴飛ばして笑う様な下卑た瞳。

 雄一の嗜虐的な瞳が、この男が自分に絶望を与える為にこの演出を企てていた事を物語っている。


「お断りよっ!」


 口調すら取り繕わず、強い語気でベルフラムが吐き捨てる。

 何故この男が城に滞在中に何もして来なかったのか。

 この男の目的は自分に絶望を与える事だったのだ。

 単に嗜虐的欲求を満たすためなのか、それとも他に理由があるのか――。

 どちらにせよ自分がこの男の手の上で転がされていた事に、悔しさが込み上げてくる。


「お~。またまたつんけんしちゃって~。照れ隠しなら夜にしてよ~」

「ふざけないでっ! お父様! 私は結婚を望まないと申し上げた筈では無いですかっ!」


 悔しさを滲ませながらベルフラムはアルフラムに向かって訴える。


「私は公務が終われば自由にして良いと言っただけだ。これは公務の一環だ。粛々と受け入れよ」


 ベルフラムの訴えにも何の痛痒も見せず、アルフラムは厳かに言いやる。


「お断りします! 私の身は全てクロウのモノ! 髪の毛の一本から血の一滴まで全てあの人に捧げたの! 何処の誰だろうと、例え国の『英雄』だろうとこの身を自由にする権利は無いわ!」


 だが、もうベルフラムも引く事は無い。裏切られたと知っても、尚ベルフラムはひたすらに足掻く。

 絶望したりなんかしない。

 今迄足掻いてきた全ての感情をぶつける様に、ベルフラムは毅然と言い放つ。

 目に力を込めてアルフラムと雄一を睨みつけるベルフラムに、雄一が面倒そうに肩を竦める。


「クロウねぇ~……。ま~だそんな男の事気にかけてんのぉ~?」

「あなたにクロウの何が分かるって言うのよ!!」


 雄一の言葉にベルフラムが眉を吊り上げる。

 自分の事よりも怒りが込み上げてくる。

 自分の好きな人を侮辱されたと感じて、ベルフラムの周囲に魔力が漏れ熱気が迸る。

 赤い髪が浮き上がり、ゆらめく炎をかたちどる。

 そんなベルフラムに雄一がニタニタと嗜虐的な笑みを向ける。


「で~もさぁ~。死んじゃった人間の事なんて気にしてもしょうがないじゃ~ん?」


 一瞬の間、謁見の間に静寂が訪れる。


「何言ってるのよ! クロウは――――」

「だ~って殺しちゃったも~ん。一昨日の夜に?」


 ベルフラムの叫びを遮り、雄一は笑いをこらえる様に顔を覆い、横目で見下ろすようにベルフラムに視線を送る。


「嘘ばっかり言わないでっ! クロウはレイアの屋敷で私の帰りを待ってくれてるんだからっ!!」


 遮られた言葉を意地になってもう一度口にする。

 両手を握りしめ、口を真一文字に結び、ベルフラムは雄一を睨みつける。

 ベルフラムの周囲に漏れ出ていた魔力を伴う熱気が、炎へと形を変えて迸る。


「あ~れ~? じゃあ見間違いかなぁ~? 城に侵入した賊がいたからプチッと潰しただけなんだけど~?」

「嘘言わないでっ! あなたのいう事なんか全部嘘ばっかりじゃないっ!!!」


 雄一の嘲るような言葉に、ベルフラムは目を瞑って首を振る。

 もうこの男の言葉を聞きたくない。

 それを態度で示すかのように大声で叫ぶ。


其方そなたが身を捧げた者はもうこの世にはいない。なぜならこの方は『来訪者』なのだ。一騎当千の『英雄』が殺したと言うならば、それはもう覆らない事実。ならば其方そなたの身はまた父上のモノ。父上の命により輿入れする事に何の問題があろう? 死者の国にモノは持ち込めぬ」


 突然横からエルピオスが歩み出て、朗々と詩を読み上げる様に言葉を投げかけてくる。

 ベルフラムだとて雄一の実力は間近で見ているのだから、その恐ろしさは分かっている。

 分かっているからこそ、ムキになって否定しているのだ。

 恐ろしい力を持った怪物が、九郎を殺したとのたまう。

 その言葉がどれほどの恐怖を駆り立てているのかは、ベルフラムの心が一番分かっているのだ。

 だからこそ、認める訳にはいかないとばかりにベルフラムは虚勢を張る。


「な、なら私ももう死者の国の住人よ! お、お父様は未だ私の死亡を取り消してはいないわ! 死者との婚姻なんて望まない事ね!」


 こいつらは嘘吐きだ――。

 それならば嘘の価値を無くしてしまえばいい。そうすればこんな恐ろしい言葉を聞かなくて済む。

 そんな思いでベルフラムは詭弁を弄する。

 それでも自分で言ってて震えてくる。

 九郎の死を自ら受け入れたような気がして、即座に頭を振り嫌な想像を打ち消す。


「世迷い事を……。その様な物ここで父上が翻せば問題無かろう? 其方そなたはどうしてそこまで婚姻を拒むのだ? 神官長はかの伝説の『来訪者』だぞ? 庇護下に入ればこの領地も、其方そなた自身も繁栄を極めると言うのに」


 エルピオスが苛立った様に声を荒げる。


(どうして婚姻を拒む? どうしてそれが分からないのよ? 嫌いなのよ! その下卑た男が! 『来訪者』? クロウだって『来訪者』よ!! なら私はクロウと結婚するわ! クロウとだったら喜んで結婚するわよ!!!)


 ベルフラムは喉まで出かかった言葉を飲み込む。

 クロウが『来訪者』だと言ってしまえれば、エルピオスは黙らせる事が出来るだろう。

 だが、ベルフラムは言わない。


 何故なら九郎が自身を『来訪者』という事を、あまり周知して欲しく無い様子だったのを知っていたから。

『10人分の真実の愛』を集めないといけない九郎の『神の指針クエスト』を知った時、ベルフラムは一度九郎が『来訪者』だと周知したらどうかと提案した事があった。

 しかし九郎は、ベルフラムの提案に困ったような顔をして、頭を掻いて乗る気でない様子を見せていた。

 ――「看板だけに寄って来るんに、『真実の愛』は見込めそうにねえんだよなぁ……」――

『英雄』としての強大な力を持っておらず、肩書だけで『英雄』視されるのを快くは思っていない様子だった。


 何をそんな贅沢な――ベルフラムはこのセリフを言う事は無かった。

 何故ならベルフラムも『領主の姫』と言う看板に寄って来る者達を忌諱きいしていたからだ。

 ベルフラム自身が当初九郎を『来訪者』だと見込んで近付いていたのだから、九郎の言葉には実感が持てる。自分も忌諱きいしていた人間と同じように、九郎を利用しようとしていたのだから。


 だからこそ、ベルフラムは誰にも九郎が『来訪者』だとは打ち明けていなかった。

 それこそ家族同然のレイアやクラヴィス達にも……。


「『来訪者』との縁は領地の、ひいては国の為! 貴族の身であるのなら其れがどれほど大事な事か分かっておろう? 貴族の責を果たされよ!」


 目の前のエルピオスも『来訪者』と言う看板みつに寄って来ただけの、浅ましい虫。

 以前の自分と同じように、『来訪者』を利用しようと企んでいる、――利己的な人間。

 エルピオスの言葉に、ベルフラムは九郎が言っていた事の正しさを改めて理解する。

 九郎が『来訪者』と周知されれば、この様な輩が九郎の周りに集って来ることになるのだ。


 ベルフラムは唇を噛みしめて、怒りを滲ませながらも沈黙して項垂れる。

 またもや訪れる僅かばかりの静寂。


「まーまー。エルピオスもあんまり俺の嫁いぢめんなよぉ~。真実を知る時間は必要だよぉ~? 嘘と思うなら確かめればいいじゃ~ん? ほら、俺って紳士だしぃ~?優しいし~?」


 その静寂を破ったのは雄一の意外な提案だった。

 近くにいるエルピオスの肩を抱くようにして、エルピオスの腹を軽く小突きながらベルフラムにいやらしい笑みを向ける。口元を吊り上げ、細い目を更に細めてベルフラムを見下ろすと、その視線を扉へと向ける。

 思っても見なかった雄一の言葉に、ベルフラムの心は激しく揺さぶられる。

 雄一はベルフラムに確認して来いと言っている。確認すれば九郎が死んだことが直ぐ分るとも。

 それ程の自信を持った雄一のセリフに、ベルフラムの顔色が血の気を失ったように青くなる。


「そんなっ……クロウっ!!!」


 ベルフラムは思わず駆け出す。

 心の奥底へと押し込んでいた不安や恐怖が溢れてくる。

 嘘に決まっている――信じたいと願う心と、雄一の恐ろしい力に対する恐怖が鬩ぎ合う。

 扉に向かって駆けだすベルフラムを、雄一はニヤニヤと見送っている。

 扉まであと数歩の所まで来た時、参列者の中から5人の騎士が飛び出してきてベルフラムの行く手を遮る。

 槍や剣を手に持ち、扉を守るように立ちはだかる騎士達。

 ベルフラムはいつも必ず帯に携帯している、魔術の練習用の小さな杖を素早く取り出す。


「どきなさいっ! ――『深淵なる赤』、ミラの眷属にして温もりを与えるかそけき炎よ! 集え! 『トゥテーラ・フラム』!!」


 怒りの内に溜まっていた魔力を解放するかのように、ベルフラムは魔法を唱える。

オレンジ色のピンポン玉位の球体がベルフラムの周囲を取り囲むように現れ、ベルフラムを中心に回転する。

 触れれば鉄をも溶かす熱量を持った、炎の衛星。

 ベルフラムを押し止めようとした騎士達の鎧や槍が、炎の玉に触れて削られたかのように溶け落ちる。


  ジュッ!


 炎が肉を焼いたのかと錯覚した。

 ベルフラムの耳に聞こえた蒸発音。


 ジュッ! ジュッ! ジュッ! ジュッ! ジュッ! ジュッ! ジュッ!


 その音がそうで無かった事を、ベルフラムは見せらる・・・・


 ベルフラムの周囲、四方八方から水の槍が飛来し、ベルフラムの魔法の炎を打ち消して行く。

 それは槍と言うより水の光線。

 鉄をも溶かす熱量を含んだベルフラムの魔法の炎が、高圧の水によって打ち消されていく。


 思わず足を止めたベルフラムの腕を一人の騎士が掴む。捕まれたと思った瞬間には逆側をも抑えられ、捻り上げられる。

 握りしめていた魔法の杖が落ちる。

 両腕を拘束され身動きも取れず、暴れるベルフラムの耳に雄一の嘲笑が響き渡る。


「だ~めだよ~ん。メインキャラが離脱しちゃぁ~」

「何処まで愚弄するつもりなのっ! 離しなさいっ!」


 ベルフラムの双眸に思わず涙が溢れてくる。

 またもや翻弄されてしまった自分が悔しくて、情けない。

 猫が鼠をいたぶる様に、雄一はベルフラムの思いを愚弄し弄んでいる。

 僅かな光をこれ見よがしに掲げ、目の前で吹き消す事を楽しんでいる。


「そんなことしなくてもちゃ~んと確認させて、あ・げ・るからぁ~」


 雄一が涙を滲ませたベルフラムに、倒錯の表情を見せながら片目を瞑る。


 その時――扉の向こう側から凛とした女の叫び声がベルフラムの耳に届く。


「――『流れ廻る青』ベイアの眷属にして凍てつき穿つ青の氷柱よ! 貫け! 

   『クリス・グラキエス』!!」


 叫びに呼応して、謁見の間の重厚な扉が穿たれる。

 重い音を立てて扉を穿った氷の騎士槍ランスが、ベルフラムを押さえつけていた騎士の一人を吹き飛ばす。

 続いて激しい音を鳴らして扉が開け放たれ、小さな影が二つ、謁見の間に飛び込んでくる。

 弾かれた毬の様に飛び出してきた二つの影が、ベルフラムの腕を捉えていたもう一人の騎士を跳ね飛ばす。


「ベルフラム様っ! ご無事ですかっ!?」「しゃまっ!!」

「レイア!? クラヴィスとデンテも!? どうしてっ……」


 ベルフラムを守るように両手を床に付け、尻尾を逆立てる二人の少女。

 振り返ると扉の向こうで細剣エストックを突き出した格好のレイアが、氷の槍を解除して駆け寄って来る。

 彼女たちはベルフラムの部屋で公務が終わるのを待っていた筈だ。

 クラヴィスとデンテはそもそも城に居るのを知られてはいけない状況だ。

 知られてしまえば罰せられる立場だ。それなのに――。

 どうして? ――ベルフラムは先の言葉を紡げなかった。

 少女達の想いをベルフラムは既に知っていたから。

 だからこそベルフラムも守らなければならない。

 ベルフラムは零れ落ちた杖を拾い上げ、しっかりと握りしめる。


 ベルフラムを取り囲んでいた5人の内、二人が倒された事に一瞬動きが止まった騎士達が、再びベルフラムを捉えようと動き、そして音を立てて崩れ落ちる。


「先程この二人が飛び出して行きましてな……よもやと思いましたが……。式典の内容が変えられていると、アルベルト公から知らされまして……。どういうおつもりでしょうか? 答えて頂けますかな?」


 いつの間にかベルフラムの傍らに剣を抜き放ち、静かにクラインが立っていた。

 静かに、それでいて剣呑な怒気を孕んだ声色で剣先を壇上へと向ける。

 かつて仕えていた主に剣を向けるクラインに、周囲の近衛の騎士達がざわめく。

 そんな中、クラインの言葉を聞いてベルフラムの顔がさらに青ざめる。

 ベルフラムが焦りを露わに雄一に視線を向ける。


「ほ~ら。助けがきたよぉ~。ピンチに訪れる仲間の演出! いやぁ~素晴らしいねぇ~。そんで知らされる真実! いやぁ~ゾクゾクするねぇ~!!!」


 雄一が手を打ち鳴らしゲラゲラ笑いながら、残酷な容貌をベルフラムに向ける。

 レイア達の行動すら雄一の演出の一つだったのだと知って、ベルフラムの心は激しくざわつく。

 何故アルベルトがベルフラムの窮地をクライン達に知らせたのか、何故この男がこの救出劇を演出したのか、何故今そんな言葉を・・・・・・口にするのか・・・・・・――。


「クライン! レイア、クラヴィス、デンテっ! クロウは城には来てないよね!? 城に来たりしてないわよね!? クラヴィス言ったものね? クロウはちゃんと留守番してるって!!」


 ベルフラムは縋りつくようにしてレイアに尋ねる。

 必死な形相のベルフラムにレイアが困惑し、狼狽える。

 ベルフラムはクラヴィスの肩に手をかけ、声を荒げる。

 クラヴィスは言った筈だ。九郎だけはレイアの屋敷で待っててくれていると。

 自分を信じて待っていてくれていると。

 しかし、クラヴィスが何も言わない。

 この賢い少女が、ベルフラムが何故必死に九郎の行方を確かめているのか、それすら悟ったように顔を強張らせ沈黙している。


「……嘘……」


 ベルフラムの頬に涙が伝う。

 食いしばった口元が痙攣する。

 足がガクガクと震え膝が崩れ落ちる。

 しっかりと握りしめていた筈の、小さな杖が再びポトリと床に落ちる。

 クラヴィスの腹に顔を埋めるようにしてベルフラムは項垂れる。

 そのまま幽鬼の様な瞳を雄一に向ける。


「いいねぇ~。その顔! その表情! ……そろそろ頃合いかなぁ~?」


 手を叩いて極上の劇を楽しんでいた雄一が、顎に手をやり片眉を上げる。

 値踏みするような瞳。

 涎を垂らさんばかりの下卑た口元。

 絶望と言う名のスパイスを、これでもかと振り撒いて匂いを確かめている表情。

 その表情に、ベルフラムに残された最後の一欠けらの感情に火が灯る。


(負けない! 私は負けない! 負けてやらないっ! 諦めないっ! 絶対に諦めたりしない!! どんな絶望的な状況だってあの人なら諦めたりしない! クロウなら絶対に諦めないっ!!)


 ベルフラムの瞳に再び光が宿る。

 絶望なら知っている。

 飢えから体を動かす事も出来ず、目すら見えなくなって、排泄したことすら分からなくなって、声すら出せなくなった。

 死の縁に横たわっていた。

 目の前に広がる死という安寧に、手を伸ばそうと思った。

 一度自分は諦めたのだ。

 生きる事を――。


 ベルフラムは瞳を閉じる。

 瞼に浮かぶのは暗がりの中の黒い髪と大きな背中。

 この世界の人よりも少し貧弱な、それでいて力強い背中。

 生きる事を諦めた自分をも生かそうと奮闘していた背中。

 諦めた命すら運ぶ、決して手放そうとせず足掻いていた大好きな青年の背中。


(私はあの時捧げたの! この身を! この命を! クロウに預けたのっ! なら、私が勝手に諦めたりしたらいけないっ! 諦める事なんて出来ない!!)


 袖口で涙を拭って、ベルフラムは雄一に向き直りしっかりと床を踏みしめる。

 傍らに落ちた魔法の杖を再び拾い上げ、雄一に向けて構える。


「死んでないっ!! クロウはお前なんかに殺されたりしないっ!」





「……………チッ。

 ……………………

 ……………………………

 ………………………………………

 ……………………………………………………まだ折れねえのかよ」


 怒気を含み、毅然と言い放ったベルフラムの言葉に、それまで余裕と愉悦を滲ませていた雄一の顔が、初めて苛立つ様子を見せていた。


「クロウは死んだりなんかしないっ! 私の大好きな人が……私が大好きになった人が……お前なんかに負けたりしないっ!

 だって……だって……クロウは『私の英雄』だからっ!!!」


 ベルフラムが心の底から叫ぶように声を張り上げた瞬間、頭上でガラスの砕ける音が大音響で鳴り響いた。

 そして続く大きな振動とくぐもった声、降り注ぐ色ガラスと漆喰が音を立てて床を鳴らす。

 まるでベルフラムと雄一を隔てる様に、騎士たちの物語を描いたステンドガラスが砕け散り、その破片がキラキラと光を反射して降り注ぐ。

 もうもうと巻き上がる漆喰の砂粒と降り注ぐガラスに、誰もが息を飲む。

 ザアッと降り注ぐ光のカーテンが眩いばかりに煌めき降り注ぐ様は、まるで英雄譚に詠われる神の降臨の如く神々しい。


 舞い上がる埃の中に赤い光が混じって消える。


「ってててて……。ふぃーなんとか潜入成功したったぜ……。ってこうしちゃいられねえっ!! 早くベル達に合流しねえとっ…………って……いんじゃねえか、全員」


 埃が再び舞い落ちる中、尻餅をついて腰をさする影が浮かび上がる。

 埃が静まり、姿を現した黒髪の青年が慌てたように周囲を見渡す。

 まばらに落ちて来るガラスの粒が煌めく中、九郎の間の抜けた声がやけに大きく響き渡った。

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