第078話  安堵


 少し汗ばんだ胸の袂を無造作に広げ、ベルフラムは朧気な瞳を僅かに開く。

 薄暗い部屋はカーテン越しに夕闇の色を僅かに透かしている。


「暑い……」


 ゆっくりと体をくねらせると、それに合わせるように体に何かが触れる。

 温かな人の体温を感じてそちらに目をやると、デンテが幸せそうにベルフラムに体を寄せて眠りについている。

 逆側ではクラヴィスが体を丸めて同じように寝息を立てていた。


「クロウ……」


 体に伝わる体温が思った者とは違う事に、ふと寂しさを覚える。

 自分がこれ程弱い性根だとは思ってもみなかった。たった3ヶ月前に出会った男にこれ程傾倒してしまう自分がどうにももどかしい。母を失ってから8年。初めて安らげる場所を得られた気がしていた。


 誰も彼もが自分を見てはいなかった。

 近付いて来るものは皆、自分の後ろにいる父を見ていた。

 自分が透明な幽霊にでもなってしまっているような、手を伸ばしても誰にも触れる事が出来ないような気がしていた。


 貴族の姫君として生まれたベルフラムは、その肩書きだけが自分をかたどっている様なそんな無力感を感じていた。


 九郎は最初から自分を自分として見てくれていた。

 貴族であることを示し、傅かれる者としての地位を示してもなんらその事に興味を持たなかった。

 最初は地位の上下を知らない未開の蛮族だからかと思っていた。

 それともただ強がっているだけだと…そう思っていた。

 無礼な口のきき方も子供に頭を下げたくないと言う小さなプライドだと思っていた。


 それでもベルフラムは少し嬉しかった。

 自分の肩書が外れた様な気がしたからだ。

 九郎は自分の名前を呼んでくれた。それだけで自分がこの世界に存在している確かな証拠に思えた。


 今は自分の名前を呼んでくれる人が周りにも増えた。

 傍らに眠るクラヴィス達を見ながらベルフラムは眼を細める。

 クラヴィス達も自分を自分として見てくれている。貴族でも領主の娘でも無くただのベルフラムとして、それでも傍に居てくれる。


(クロウ……)


 それでも一番安らげるのは九郎の傍だとベルフラムは思っている。

 飄々として、どこか頼りなさそうなあの青年が自分に一番の安らぎをくれると確信している。


 ずっと自分を守ってくれていた存在だからだろうか。『大地喰いランドスウォーム』の一件以来、九郎はずっとベルフラムを精神的にも肉体的にも守ってくれていた。

 子供の我儘に付き合って、家を出た自分に生きる術を教えてくれた。

 何故あれほど安心できるのか確かな答えは出て来ない。ただ、孤独からも死からも守ってくれた九郎は、全ての事から守ってもらえるようなそんな思いがベルフラムにはあった。


 そんな安心クロウが傍に居ない事にベルフラムの瞳に涙が滲む。

 とたんに世界の敵意に晒された様な心細さを感じてシーツの裾をキュッと握る。 クラヴィス達は自分にとって守らなければならない存在だ。家臣として、家族として守らなければならない。心の安らぎはくれるけれど、彼女たちは守りたい存在なのだ。安穏と自分が寄り掛かれる存在では無い。


「クロウ……どこぉ……?」


 ベルフラムの口から、自分でも分かるくらい情けない声が出ていた。

 母親を探す子猫の様な頼りない声。


「なんだ?」


 不意に呼び声に答えられてベルフラムの心臓は跳ね上がる。

 なんとも暢気な、まるで緊張感の無い声の主をベルフラムは急いで探す。

 薄暗い部屋の中はどうにも視界が狭い。

 狭い理由は眼を凝らすと分かってきた。

 部屋の一角に自分たちの着ていた服が干されている。部屋の梁を渡るようにして結わえられた紐に、何枚もの服が下着も含めて全て干されている。


 ベルフラムはクラヴィス達を起こさないように、そろりとシーツを抜け出す。そこで自分が今大きなシャツ一枚だけを羽織っている事に気が付く。視線を戻すとクラヴィスとデンテも同様の様だ。

 ベルフラムはやっと自分が入浴中に寝てしまった事に気が付く。

 昨日は九郎の救出の作戦を練っていて良く寝れなかったからだと、一人で言い訳するが仄かに顔が赤くなるのは止められない。


 そろりと足を進めると、部屋の隅で九郎が胡坐をかいて座っていた。

 取り囲むようにして干された服からは湯気が立ち昇っている。


「何しているの?」


 飛びつきたいのを我慢しながらベルフラムは何となく尋ねる。

 あんな情けない声で呼んで抱きついたら、それこそ赤子の様だと自分の感情を押しとどめる。


「んあ? 乾燥」


 単語で返されベルフラムは首を傾げる。干からびている途中なのだろうか。

 そう思いながらベルフラムは暖簾の様に干された服を掻い潜る。

 そこでベルフラムは九郎の言葉の意味を知る。何気なく触った服が思いのほか熱を帯びていた。

 そう言えばこの部屋は冬だと思えない程暖かい。少し汗ばむほどだ。

 九郎は体を炎に変えて服を乾かしている途中だった。


「もう充分乾いているわよ……早く元に戻ってよ」


 呆れている風を装いながらベルフラムは努めて平静に言葉を発する。

 何か自分だけ心細い思いをしていたのが、どうにも納得がいかない。


(クロウも前に「私がいなくなると寂しい」って言ってくれたのに……)


 なんだかあれほど死を間近に感じた『大地喰いランドスウォーム』の穴が、無性に懐かしくて面はゆい。


「思ったより早く乾いたな。これで乾燥機機能ゲットだぜ……家電街道ばんざーい……」


 意外そうに言いやる九郎はどことなく不満気だ。新たな力を得たと言いながらも言葉に力が無い。


「もう熱くなってない?」

「ああ……。そっかわりい。部屋熱くなりすぎちまったか? どうにも体を変質させてっと温度が分から……っておおいっ!」


 九郎はそう言いながら体の力を抜く。ベルフラムは火照るような熱気が急に弱まったのを感じて、感情を抑えきれずに九郎に飛びつく。


「クロウ……クロウ……」


 やっと安心できる場所だと頬を寄せ、何度も名を呼ぶベルフラムに九郎はすわ何事かと目を見開く。

 目を瞑っても感じられる九郎の息遣い。肌を通して伝わってくる確かな体温。合わせた胸に響く鼓動。

 これこそが求めていたものだとばかりにベルフラムは九郎に縋りつく。


「なんだぁ? 怖い夢でも見たってか? 甘えてばかりじゃ子供扱いはやめられねえなぁ?」


 からかうような軽口にすら安心を覚えて、ベルフラムは九郎の胸に顔を埋める。

 あれほど大丈夫だと言っていて、ベルフラムも大丈夫だと思っていたのに……。

 九郎が居なくなってしまうかもと、僅かの可能性を考えただけでこれ程心が掻き乱されていたのだ。

 信頼していない訳では無い。九郎は何が有っても大丈夫だとはベルフラムが一番思っている。守るべき者では無く寄り掛かってもいい存在なのだ。頼りないと感じても心の底では頼りにしている。どこか矛盾していると感じるが九郎はそんな人なのだ。


「少しくらい甘えたっていいじゃない……。貰ってくれる気はまだ無いんでしょ?」


『何を』とは聞き返してこない。それでも完全に拒否される事を恐れて『まだ』と付け足してしまう。

 ベルフラムは困り顔で頭を掻く九郎の胸からそっと見上げる。自分だけが寂しかった事が悔しくて、少しやり返したかっただけだが、思ったよりも効果があったようだ。但し自分の胸もチクリと痛む。


「いつか受け取ってね?」


 困らせすぎるのも本意では無いので、ベルフラムは頭を庇う振りをしながら冗談めかした口調でそっと囁いた。いつも小言と同時に降って来る拳骨は今日は降っては来なかった。


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