第067話  ピンクの尻尾


「おい、色男のにーちゃん! 4人相手はきつかったみてえだな? おおん?」


 アプサル王国レミウス領レミウス城下街の外側へと広がっている質素な宿屋の一階で、遅めの朝食を終えた黒髪の青年、九郎に向けて険の含んだ言葉が投げかけられた。

 嫉妬をありありと含んだガラの悪い男の言葉に九郎は胡乱げな瞳を向ける。

 目に隈は作ってはいないが、九郎の憔悴しきったような表情に、声を掛けた男は下品な笑みを浮かべていた。


 昨夜遅くに部屋を取った九郎が、美しい少女4人と宿の一室に消えていった事を男は言っている。

 周りで朝から酒を飲んでいる他の客達も耳を欹てている様子だ。

 丸いテーブルに腰かけて宅を囲んでいる九郎の周りには、赤髪の美少女ベルフラム、金髪の美女レイア、そしてメイド服の幼女クラヴィスとデンテが朝食を取っている。


 九郎は大儀そうに男に視線を向けると大きなため息を一つ吐く。

 馬鹿にされたのかと思い、男の視線に剣呑な光が宿る。


「てめえ、馬鹿にしてやが……ん?」


 声を荒げて拳を握った男の動きが途中で止まる。

 男は九郎の表情をまじまじと見やる。

 九郎の頬に一筋の光るものが流れ落ちていた。

 目は光を失い、口元は微かに歪められて僅かに痙攣している。


「……ぬってさぁ……いつまでお預けできると思う……?」

「あ?」


 九郎の小さく漏れ出た言葉に男が訝しがる。


「犬ってさぁ……いつまでお預けできると思う? 餓死寸前でもできちゃうもんなんか? 目の前にご馳走並べて、待てっていつまで耐えれんだ? 死ぬまで? なあ!!」


 いきなり男の首元を捻り上げ喚き出した九郎に、男が驚き目を向く。


「ああ……ご馳走喰いたかったな……って思いながら死んでくんか? それとも生存本能で食べちゃうもんなのか? どうせ死ぬなら腹いっぱい食って……って思うんだろな……なあ!?」

「な、何言ってやがんだ……」


 男は尚も喚き続ける九郎の腕を振り払おうと力を込める。しかし九郎の腕は岩の様にビクともしない。

 この細腕の何処にこんな力がと、男の顔色が変わる。


「お前に目の前のご馳走食えねえ犬の気持ちが分かんのかよ? 俺だってなぁ……明日死にますなんて言われたら形振り構ってねえよ! 理性なんて糞喰らえで喰っちまうよ! でも、俺にゃあ、それが来ねえんだよっ!」


『不死』である九郎にとって、死亡宣告などもはや訪れない。

 血の涙でも流すかの勢いで九郎は男を宙に吊り上げる。

 男の顔色はもはや紫色に近い。どうやら首が締まっているようだ。周りの客達も九郎の尋常ではない気迫と力に視線を外していく。そして勘の良い者は九郎の怒りと憤りの原因に気が付く。

 この青年は昨日何も出来なかった・・・・・・・・のだと。目の前に並べられたご馳走びしょうじょたち食えなかった・・・・・・のだと……。

 昨日より遥かに同情を含んだ視線が、九郎の背中に次々刺さる。


「クロウ、静かにして頂戴よ……ご飯に埃が入っちゃうわ。どうかしたの?」

「い、いや……なんでもねえ……。悪かったなおっちゃん。まあ、そう言う事なんだ……」


 ベルフラムが少し眉に皺を寄せながら九郎に言葉を投げかける。口元を布で拭っている所を見るとベルフラムは食事を終えたようだが、レイア達は黒く硬いパンを塩味しかしないスープでふやかしながら口に運んでいる。

 とても食えたものでは無い味だが、ベルフラム邸の面々に食べ物を残す選択肢は存在しない。

 なので各自なんとか胃袋に不味い食事を詰め込んでいるといった具合だ。

 先に食事を終えたベルフラムは、少々九郎を嗜める雰囲気もあったが、どちらかと言うと本気で九郎の体調を慮っている様にも見え、九郎は我に返って吊り上げていた男を静かに降ろす。


「いや……兄ちゃんの言う事は尤もだ……悪かったな。そりゃご馳走目の前にして食えねえのは辛えよな……」


 吊り上げられていた男は激しく咳き込みながらも、九郎の言い分の本質を理解したのか、九郎に謝罪の言葉を告げるとそそくさと席を立つ。


(今朝は最強にやばかったんだ……)


 九郎は椅子にどさりと腰かけ直すと、もう一度大きくため息を吐き出す。

 慣れた・・・と思っていたが、環境が変わるだけでこれ程狼狽えるとは思っていなかった。

 九郎は光を失った目で天井を見上げる。


 ダブルベッドに5人で就寝……この言葉の危険度に気が付いたのは今朝の事だった。

 普段から一つの大きなベッドで寝起きしている九郎達であったが、屋敷のベッドは大人が優に5人は寝そべる事ができそうな大きな物だ。『不死』の力で体温の変わることない九郎の周りにはベルフラム達が集う事にはなるが、レイアは少し離れた所でいつも就寝していた。

 レイアは寝相が悪いので、偶に九郎の腕に肌や胸があたる事はあったが、そこまで接近する事などは無かった。

 レイアと二人きりならいざ知らず、幼い少女達三人を体に取りつかせながら事に及ぼうとするほど九郎の理性のタガは外れていない。

 ただ、若い男である九郎には少しの肌の触れ合いでも血液が下半身に集まる事になってしまい、その時はいつも頭の中で萎えるシチュエーションを思い浮かべて鎮静化を図っていた。

 だが九郎は、『ヘンシツシャ』の力でこの刺激的な生活にも慣れて来たと思っていた。

 野宿の時はせまい荷車の中で寝ていたので距離自体は近かったが、九郎以外は皆防寒の為に毛皮の衣服に身を包んでいた為、薄い夜着で寝ていた屋敷の時よりは刺激的では無かった。

 しかし今朝は違った。

 目が覚めると九郎は天国にいた。

 挟まれていたのである。

 薄い夜着一枚を隔てたレイアの胸に。

 九郎は自分の現状を深く神に感謝した。

 いつもなら遠くで背を向けて寝ているであろう、レイアの豊満な胸元が九郎の目の前に迫っていた。

 ダブルベッドとはそれ程大きなベッドでは無い。必然的に5人が密集する事になる。

 隙間風の吹く安宿の部屋は九郎以外の少女達には耐えがたかったのか、皆一様に体温が変わらない九郎に暖を求めて集う事となっていた。いつもなら遠くのレイアも同様にである。

 しかし、いくら刺激的で魅力的なレイアの胸に九郎が盛り上がろうとも、幼い年齢のベルフラム達も共に寝ている。流石の九郎にも我を忘れて盛り上がる事は出来なかった。

 そこでいつもの様に素数を数えたり、元の世界にいた時に味わった酷い体験を思い出して鎮静を図っていたのだが……。


 いつもならそれで何とかなっていた――しかし今日は違った。

 いつもなら苦い思い出と共に萎んで来る九郎自身は何時まで経っても収まる気配を見せなかった。

 顔の真横に柔らかいもモノを置いて鎮静できる程、九郎は賢者では無かった。

 そこで九郎は禁断の思い出に手を付けたのだ。

 思い出したくも無い、九郎最大のトラウマに……。

 絡んできた男の所為で思い出したくも無いトラウマを再び思い出す事になって、九郎は我を忘れてしまったと言う訳だ。


(思い出したくもねえ事を思い出させるんじゃねえっての……。あん時以来レイアが前より大胆になってきちまったのもなぁ。いや、それは俺にとっちゃ良い事なんだろうが……TPOがなぁ……)


「大丈夫? お腹痛いの?」


 苦虫を噛み潰した顔をしている九郎にベルフラムはなおも心配そうだ。

 男の生理現象を教えるにはまだ少し幼い少女に、九郎は嘆息しつつも平静を装う。


「いや、何でもねえよ。俺が毒に強いってのも知ってんだろ?」

「そう……なら良いのだけれど……」

「ほら、後はレイアだけか? 急いでねえからゆっくり食ってていいぞ? あんま旨くねえしな……。昼は『ソードベア』の肉で俺が美味い飯を作ってやっからよ。テールスープって知ってっか? 尻尾をじっくり煮込むと旨えダシが出んだわ」


 思い出したくも無い話題を明るい話題へと変えようと九郎が提案する。

 九郎の提案に少女達は顔を輝かせる。

 何でも残さず食べる事を義務付けている九郎達一行でも、どうせ食べるなら当然旨い飯の方が良いに決まっている。

 今日の朝食が酷かっただけに、昼食は期待できそうと顔を綻ばせている。


「しっぽ……? そうでしゅ、デンテ、クロウしゃまに聞きたい事があるんでしゅ……」


 九郎が言った昼食のメニューの味を想像し、嬉しそうに話し合っていた少女の一人、メイド姿の小さい方が思い出したかのように九郎に話しかける。


「なんだ? 俺の魅力か?」

「クロウしゃまはデンテと同じ獣人なんでしゅか?」


 尻尾と言う単語から思い至ったのだろうか。

 メイド服の少女デンテと、その姉のクラヴィスは犬の耳と尻尾を持つ獣人だ。


「いや?俺は獣人じゃねえと思うんだけど……」

「クロウしゃま、この前尻尾があったでしゅ」

「尻尾? クロウのお尻にそんなもの無い筈よ? いつも見てたじゃない。この前っていつの事?」


 デンテの質問に九郎がどうしてそんな疑問が生まれたのかと頭を捻る。

 まだこのアクゼリートの世界の事をそれ程良く知っている訳では無いので、九郎が人間種だと思っているベルフラムやレイアも実は猿の獣人の括りなのだろうかと、一瞬思って言い淀む。

 だが、デンテの疑問の理由を聞いてベルフラムがすかさず反論している。

 幼い少女に尻をいつも見られている事は事実であるが、周囲の目が有るところでは止めて欲しいなと九郎が眉を下げる。


「レイアしゃんを皆でぺろぺろした時でしゅ……」

「デンテ、俺はぺろぺろはしてねえからな? レイア、顔が怖い……」


 いつもは尻尾など無いと言ったベルフラムの言葉に、デンテは九郎に尻尾が有るように見えた時の話をベルフラムに説明している。

 デンテが言っているのは、先日凍った湖で魔物に引きずり込まれたレイアを助け出したは良かったが、その後レイアが凍死しそうになっており、皆で温めた時の事だろうと思われた。

 クラヴィスとデンテはあの時、特に冷えていたレイアの手足の指を温める為に自らの口に含んで温めていた。


(――あん時のレイアは可愛かったなぁ……)


 普段はどちらかと言うと九郎に対してツンとした態度を取っているレイアが、あの時は妙にしおらしかった。

 レイアを温める為とは言え、レイアと肌を直接合わせる事となった九郎は役得だったと言わざるを負えないだろう。

 もちろん緊急時だったので、邪な考えより先に焦りの感情の方が大きかったが、それでも滑らかな肌に触れた感触を思いだし九郎の鼻の下が若干伸びる。

 今朝の感触をも思い出し下半身に血が集まる感覚を覚え、九郎が慌てて想像を払う。


「あの時デンテ見たと思ったでしゅ。クロウしゃまのお尻にピンクのしっぽが……」


 デンテの言葉に九郎の血が瞬く間に冷えて行く。

 レイアの肌の感触も、眼下に見た胸の膨らみも、はにかんだ様に九郎に身を預けてきたレイアの可愛い表情も……すべてが瞬時に灰色に変わる。

 今朝がた九郎のいきり立ったモノを瞬時に沈めた九郎最大のトラウマ。

 九郎が大事な物を失った事件。


「!? クロウどうしたの? やっぱりお腹痛いの? 大丈夫!?」


 ベルフラムの慌てた声を遠くに聞きながら九郎は静かに引きつった笑みを浮かべた。

 暗く淀んだ九郎の瞳から、再び一筋の涙が頬を伝った。

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