第064話  失われたもの


「ベルフラム様落ち着いて下さいっ!!」

「止めないでよクラヴィス! クロウとレイアがっ! クラヴィスはクロウ達を見捨てる気!?」


 九郎とレイアが水中に引きずり込まれていったのを唖然と見ていたベルフラム達だったが、直ぐに駆け出したベルフラムをクラヴィスが必死で押し止める。

 いつもならクラヴィスも一緒になって水中へ身を翻した状況だったが、ベルフラムが先に水へ飛び込もうとして我に返る。

 クラヴィス一人なら間違いなく飛び込んでいた状況でも、ベルフラムも一緒となると話が違う。

 九郎を助けたいと言う思いと同等に、クラヴィスはベルフラムを守りたいとも思っている。


「ベルフラム様は泳げるのですか? 水中で戦えるのですかっ!?」


 強めの語気で尋ねるクラヴィスにベルフラムの力が弱まる。

 クラヴィスの肩越しに伸ばされていた、ベルフラムの腕が力なく垂れる。


 ベルフラムの魔法は強力だ。

 クラヴィスはベルフラム程強い人を知らない。

 一瞬で多くの者を無力化するベルフラムの魔法には畏敬の念すら覚える。

 だが、魔法は声を出さずに使えるモノでは無い。

 水中で声を出す事が出来ないなら、ベルフラムはクラヴィスよりも戦えないと思った。


「だって……クロウが……」


 クラヴィスは力なく項垂れ泣き始めたベルフラムの肩を抱く。


(本当に優しい人だ……ベルフラム様は……)


 泣きじゃくるベルフラムの背中をあやすように軽く叩きながらクラヴィスは想う。少し笑ってしまったかも知れない。

 ベルフラムの泣く所を見るのはこれで二回目だ。

 一度目はクラヴィス達がベルフラムを守ろうとした時。あの時もベルフラムはクラヴィス達に逃げろと泣いていた。

 出会った時の毅然とした態度からは想像も出来なかった、自分たちを助けてくれたベルフラムが自分たちの身を案じて流した涙に少し戸惑ったのを覚えている。


 あの時クラヴィスは心に決めた。

 自分たちを守ろうと涙を流してくれるこの少女を守ろうと……。

 親に愛されず、捨てられ、孤児として生きてきたクラヴィスの心に、暖かな物をくれた少女を守ると自分に誓っていた。


 クラヴィスは、力なく項垂れ涙を流すベルフラムを心配そうに見つめる妹に声をかける。


「デンテ、ベルフラム様を守って」


 クラヴィスの言葉に妹のデンテの表情が一瞬強張る。デンテの瞳に涙が滲む。

クラヴィスの言葉の意味を理解したのだろう。

 ずっと一緒だった妹のデンテはクラヴィスの短い言葉でも、クラヴィスが何をしようとしているのかを直ぐに悟る。

 ベルフラムが連れ戻されようとした時も、デンテはクラヴィスの一言だけでやるべき事を理解してくれた。


「お姉ちゃん……」


 クラヴィスはベルフラムを抱え、デンテの傍に降ろす。

 そして服を脱ぎ、下着姿になる。冬の風が冷たく肌を刺す。

 荷台の藁で長い髪を縛り、包丁を咥える。

 ベルフラムと同じように九郎も大切な人だ。

 助けにならないかも知れないが、自分に出来る事は数少なく、例え囮だろうと何かの役には立つだろう……。

 ベルフラムが無事なら妹は大丈夫だ。


「待ちなさい……」


 心を決めて駆け出そうとしたクラヴィスの肩に手が掛かる。

 瞳に涙を溜めながら、ベルフラムがはっきりとした声で湖へと飛び込もうとしたクラヴィスを止める。

 その表情は何かに耐える様な、苦しそうな表情だ。

 一瞬戸惑いの表情を見せたクラヴィスにベルフラムは続ける。


「クラヴィス! 私が役に立たないのは分かったわ……。でも、あなたも行ってはダメ……。クラヴィスも水中では力が出せないわ……」

「ですが……! 囮くらいなら……」


 ベルフラムの言葉に反論するクラヴィスの肩に力が籠る。

 自分の力が役に立たないであろうことはクラヴィスも分かっている。

 クラヴィスは素早さでは屋敷のだれより早い自信があったが、力は妹のデンテにすら劣る。

 獣人特有の素早い動きも、水中では2割も出しきれないだろう事も分かっている。


「私は信じるわ……だからあなたも信じて……。『私の英雄』は……クロウは凄いんだから……きっと……」


 ベルフラムは双眸から溢れる涙を拭おうともせずにクラヴィスに言う。

 ――クロウを信じて待て――。

 その言葉にクラヴィスの尻尾が垂れる。


「クロウならきっと大丈夫よ! 氷を溶かしちゃうほど熱い人なんだから……。でも、レイアは凍えてしまうでしょうから……デンテ、薪を集めて! クラヴィスも火を焚く準備をしなさい!」


 涙を流しながら無理やり笑うベルフラムに、クラヴィスも力なく頷くことしか出来なかった。

 ベルフラムは項垂れるクラヴィスの頭を優しく撫でると、その瞳を湖に向ける。


「クロウ……信じてるからね……」


 ベルフラムの小さな声がクラヴィスの耳を過っていた。


☠ ☠ ☠


「エロ触手だの亀だの卑猥すぎんだよこの湖はっ! 喰らえ俺の超必殺技!!

  『昇天する心地セブンスヘブン』!!!」


 今日の不運に悪態を吐くかのような九郎の叫びが水中に響き渡る。

 大声で叫ぶが何の変化も起こらない。

 静寂が辺りを包む。


(失敗したか!?)


 九郎は亀の口の隙間を見やる。

 何も起こらないかに見えたその時、岩の様な亀の口から大きな泡が漏れ出てくる。

 ボコリと漏れ出した泡が九郎の顔面に直撃する。


「づあっっっっ!?」


 九郎は顔面に熱湯を浴びせかけられたような熱を感じのけ反る。

 何が当たったのかと九郎が右手を頬に当てる。

 だが、そこ・・にあるはずの肉が無い・・

 固く軽い骨の感触を九郎の右手は伝えてくる。

 九郎の顔面の肉はふやけた海苔のようにボロボロになって剥がれ、泡と共に立ち昇っていく。

 九郎の顔面は今や骨だけとなっていた。

 次の瞬間亀の頭がぐずぐずになって瓦解し始める。


「やべえっ!!!」


 九郎は慌ててレイアの足を引き抜く。

 危なくレイアの足まで駄目にするところだった。

 落ち窪んだ眼下で九郎はレイアの足を観察する・・・・

 未だ顔面は再生されていないが、九郎は何もない目で目を凝らす・・・・・

 骨折し赤黒く腫れているが、レイアの足が溶け落ちていないことに、九郎は安堵の吐息を漏らす。

 徐々に顔面が再生を始める。


「危ねえ……。てかこんな毒喰らった覚えねえぞっ!?」


 瓦解を始めた亀から急いで遠ざかろうと九郎は必死で足を蹴る。


昇天する心地セブンスヘブン』――九郎が繰り出したこの技は、本来なら体を毒に『変質』させるだけの技として使ったつもりだった。

 麻痺毒や睡眠毒など多くの毒をくらい、その毒に『変質』出来るようになっていた九郎は、切り離した右足首が亀の胃袋まで到達したと感じた瞬間、足首を毒に『変質』させ、亀をなんとか行動不能にしようと考えていた。

 どれ程大きな生き物でも、毒を喰らって無事ではすまないと短絡的に考えた末の行動だ。

 しかし、その効果は九郎が思うよりもずっと、極悪な効果を発揮していた。

 どの毒が効果があるのか全く分からなかった九郎が、自分の足を『変質』することの出来る全ての毒・・・・に『変質』させようとした事が原因とは、とんと気が付いていない。


 毒と言うものはその効果によって成分が違うが、九郎が経験した毒の種類は多い。

 シアン、プロテアーゼ、フッ素と様々な毒を経験していた九郎は、あろうことかその全ての毒を思い浮かべた。

 ただでさえ個々で強力な毒物を混ぜ合わせる危険性は、狂気の沙汰。洗剤を混ぜ合わせる危険性を遥かに越えるものだった。

 なにより、九郎が知らぬ間に倒していた災害級との魔物、『サファイアバジリスク』の毒が、今の状況を齎していた。


『サファイアバジリスク』――『石化の魔眼』と呼ばれる能力を持つとされ、驚異的な硬さの鱗を持つ為、倒す事が適わない局地的災害とまで呼ばれる魔物。

 その恐れられていた『石化の魔眼』正体は、この魔物の周囲に散布される強力な腐食毒。半径50メートル四方にいる生物全てを死に追いやる、所謂マスタードガスに似た性質を持っていた。

 ちなみに九郎は、『サファイアバジリスク』と初めて遭遇した時に寝ていたのでその毒の凶悪さに気付いていない。


「賭けには勝ったがやりすぎちまったぜっ! 畜生っ!!!」


 未だ崩壊しながら泡を立ち昇らせる亀から必死で遠ざかる九郎が叫ぶ。

 胸元に抱きかかえたレイアに泡が当たったらそれこそ取り返しがつかない。

 レイアはぐったりと力なく九郎に抱えられていたが、腕から伝わる僅かな体温と小さく上下する大きな胸に、九郎はレイアを死なせずにすんだと胸を撫で下ろす。

 九郎の顔面は既に再生され自分の頬に水が当たる感覚を感じたが、切り離して胃袋まで到達させた右足首だけは未だ再生の途中の様だ。


(――自傷の傷は治りにくいのか?)


 赤い粒子が足首に纏わりつく感覚を感じながらも九郎は考える。

 思い出してみれば、他者から受けた傷より自傷の傷の方が治りは遅いように思う。

 通常なら傷がついた事も分からない程の指を少し齧っただけの傷でも、血が流れる時間は思った以上に長かった。

 ベルフラムの為に腕を切り落とした時はどうだっただろうか……と思い出してみるが、あの暗闇でどれ程時間がかかっていたのかはよく思い出せない。


(まあ、滅多な事じゃやらねえけどよ……)


 九郎は岸を目指して足をばたつかせる。

 レイアを抱きかかえている為腕が使えずスピードが出ないのがもどかしい。


「がっ!!!!」


 ふいに再生しかけているであろう右足に鋭い痛みを感じる。


「また現れやがったのか! 猥褻物!」


 忌々しげに九郎は叫ぶ。

 毒から逃れようとして慌てているのだろうか、『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の群れが九郎の剥き出しの右足の傷口から潜り込んでいた。

蝕肉蛭エクリプスリーチ』は危険な場所から逃れようとしているのか、九郎の右足に群れとなって群がってきている。

 背中を突かれる感触に九郎が慌てる。

 意識の無い今のレイアに自力で穴を守る術は無い。


「畜生! 役得だとは思えねえぞっ!」


 九郎は右腕でレイアの顔を胸に抱きすくめるようにして耳や鼻、口元を覆う。ボコボコと九郎の右手から泡が際限なく立ち昇る。同時に今までレイアの膝裏を支えていた左腕をレイアの股の間に潜らせる。上腕部をレイアの尻に当て、左手はレイアの胸元に添えて炎に『変質』させ温める。横四方固めの様な体勢だ。

 左上腕部に感じるレイアの柔らかで滑らかな太腿と尻の感触に体の奥底が熱くなるのを感じる。

 九郎はピンク色の蛭に埋もれるように水中を泳ぐ。

 右足に群がった『蝕肉蛭エクリプスリーチ』がピンクの帯の様に水中に蠢いていた。

 足首から大腿部へと潜り込んで来る『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の感覚に、九郎は吐き気を感じる。

 皮膚下に蠢く物の感覚は、痛みよりも嫌悪の感覚が大きい。

蝕肉蛭エクリプスリーチ』の成体が九郎の目に突っ込んで来る。

どれ程焦っているのか、炎に『変質』させた九郎の顔面にも多くの『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が纏わりつき、九郎の炎に身を焦がし浮き上がっていく。

 ゾルリと九郎の目玉を押しのけ、大きな『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が潜り込む。

 身を焼かれながら侵入した『蝕肉蛭エクリプスリーチ』は数度体をくねらせると『不死』の力で削り取られる。

 九郎は抵抗する事も出来ず、傷口から這い上がる蛭の感触に耐えて水面を目指す。

 青白い幻想的な世界が、緑の体液で暗く恐ろしい光景に変わっていた。


「ひうっ!!!」


 突如感じた嫌な予感に九郎は悲鳴を漏らす。


「まじかよまじかよまじかよまじかよぉぉぉぉぉぉぉおおおおおお!!」


 九郎は身をくねらせながら絶叫する。

 皮膚の外。脹脛に感じる蠢く感触。

 布を突き破る力は無いと思っていたが、足首がもげていて大きな隙間が生まれていた。

 その隙間に潜り込むようにして大きな『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が九郎のズボンに入って来た。


「やめてやめて勘弁して勘弁して!」


 悲壮な表情で九郎は括約筋を閉める。

 岸まではあと少しの距離だ。

 身体に纏わりついていた『蝕肉蛭エクリプスリーチ』は殆んどが身を焼かれ、もしくは九郎の体に潜り込み削られている。

 あと少し耐えれば………。

 九郎は必死に泳ぐ。

 これがもう少し違う生き物だったのなら、九郎はこれ程焦らなかったかも知れない。

 しかし今九郎の穴に潜り込もうと身をくねらせている『蝕肉蛭エクリプスリーチ』は、九郎の知るナニかにそっくりなのだ。

 痛みなどより、もっと恐ろしい想像に九郎は顔を青く染める。

 しかし、九郎は足を動かしていた。

 いくら尻の筋肉を閉めようとも、足をばたつかせて防げる筈が無かった。


「ちょっとマジ勘弁し………………アッ―――――――――!」


 やっと足が着く場所まで辿り着いたと思った瞬間、九郎の頭の中で花が散った。


 九郎が下半身を炎に『変質』させていれば、九郎の貞操は守られたのだろう。

 焦ってなければ防げた顛末だった。

 しかし、いざ自分に降りかかる貞操の危機に、九郎の頭は混乱の極みだった。

 男でもいきなり痴漢に遭えば体が硬直してしまうものだ。

 氷を割って水面に顔を出した、九郎の頬に一筋の涙が伝っていた。


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