第063話  不可抗力と酸素ボンベ


 肌を刺すような強烈な冷気が九郎を襲う。

 九郎は毎日経験しているにも関わらず、一向に慣れてくれないいつもの感覚に身を竦める。


 レイアと共に引きずり込まれるようにして潜り込んだ湖の中は、冬の午後の僅かな光を透過して蒼白い世界を作り上げていた。

 レイアの片足を咥えこんだまま、ゆっくりとした動きで水底へと歩を進める岩の様な頭を持つ亀は、必死に抗うレイアの蹴りや剣の突きを意に返す様子も見せないでいた。


(今までで一番まずい状況だぜ……)


 身を凍らせる冷気にも『ヘンシツシャ』の力で暫くすれば慣れて・・・しまえる九郎と違って、レイアにとっては危険な温度だ。

 冬の季節に長く水に浸かれば、普通の人間なら心臓麻痺を起しかねない。

 それどころか、このままではレイアの息が持たない。


 身体を滑るように駆け抜けていく泡に九郎は焦りを募らせる。

 九郎は掴んでいたレイアの腕を自分の体に引きつけるようにして移動し、岩の様な亀の頭に渾身の蹴りを叩きこむ。

 しかし、人の何倍もの力を出せるであろう九郎の蹴りも、水中で体勢も悪く水の抵抗もある現状では効果が感じられない。

 ならばとレイアの足を挟み込んでいる亀の口に手をすべり込ませてこじ開けようと力を込める。

 しかしこれもビクともしない。熱ならばと体を炎に『変質』させてみても水の中、さらに岩の様な肌に効果は見られない。

 片足を挟まれたままのレイアが悲壮な顔を九郎に向ける。青白い顔色は水面下の世界の色なのかそれとも寒さの為なのか。

 レイアは青白い顔を歪めて首を指さし頭を振る。息がもたない事を伝えるかのような身振りに九郎も顔を青くする。

 剣も炎も効果が無い様子に、九郎はレイアの履いている鉄で出来ているであろう銀色のブーツに手を掛ける。靴が脱げれば脱出できる可能性がある。

 九郎はレイアに靴を指さし脱ぐようにジェスチャーで伝える。

 レイアが頷くのを見て、九郎は再びレイアの足を咥えている岩の様な口の上下に手足を掛けて力を込める。少しでも圧力が弱まればそれだけ靴を脱ぎやすいだろうとの考えだ。

 靴を脱ごうと水中で屈みこむように足元で忙しなく手を動かしていたレイアの顔はかなり苦しそうだ。

 冷気の為かその動きも酷く緩慢に見える。

 ゴボリとレイアの口から泡が立ち昇って行く音が聞こえる。


(くそっ! ビクともしねえっ!!)


 さらに力を込めようと九郎が歯を食いしばった時、肩を叩かれる感覚に九郎が振り返る。レイアが悲しそうな眼で九郎を見つめていた。

 レイアは振り返った九郎に泣きそうな顔で足元を指さし、続いて自分の胸を指して首を振る。

 青い顔で九郎がレイアの足元を見ると、レイアの鉄で出来たブーツは脱ぎ口が亀の口の圧力で拉げていた。

 靴を脱ぐことが出来ないと悟ったのだろう、レイアは自分の酸素がもう持たないと九郎に伝えたい様子だ。九郎に向かって水面を指さし、小さく手を振るレイアの表情は少し笑っているようにも見えた。

 その表情から、レイアが自らの最期を悟ったのだと九郎は愕然とした顔をレイアに向ける。

 そして込み上げて来るのは自分の無力さと、胸の奥が焼けるような怒りにも似た感情。


(早々に諦めてんじゃねえっ!!!)


 九郎は岩の様な口から手を外すと、怒りに満ちた瞳をレイアに向ける。

 亀の口から手を離したのを、レイアは九郎がレイアの言いたいことを了承したのだと思ったのだろうか。

 深く頷いて九郎に最期の別れの礼を送るレイアの胸元を、九郎が強引に引き寄せる。


(無事に帰れたらビンタ一発で許してくれっ!!)


 九郎は驚いて目を見開いたレイアの口に強引に唇を寄せると、肺の中にある空気全てを送り込む勢いで息を吐く。レイアの目が見開かれ、九郎を拒絶する様に突き放そうとするが、力では九郎の方が強い。

『不死』である九郎が生きるのに酸素は必要ない。

 肺の中の酸素全てを吐き出し終えると九郎の肺に冷たい水が流れ込んで来る。

 泡に隠されるようにしてレイアと九郎の口付けが終わると、肺の中を水で満たされる不快な感覚に顔を歪ませながら、九郎はレイアの靴を壊しにかかる。

 脛近くまである鉄のブーツを強引にこじ開けようと指を掛け左右に引っ張る。僅かな手ごたえ共に拉げて形の変わった鉄のブーツが歪む。

 大亀の口ならいざ知らず、鉄で出来たブーツなら壊せそうだと九郎は気合を入れる。


「うらぁああああああああああああ!」


 水中である事ももはや関係ないとばかりに声を出して力を込めると、レイアの履いている鉄のブーツのビスが弾け飛ぶ。

 そしてフワリとレイアの体が浮き上がる。

 九郎は即座に亀の頭を蹴ってレイアの腰に手を回すと水面を目指し水を蹴る。


「ぶはあっっっっ!!!!」


 氷を突き破るようにして水面に顔を出し、九郎が大きく息を吐くと、空気の代わりに水がドッと口から溢れた。


「た、たす、助かり……ました………。あり……」


 レイアが青白い顔で礼を言う。顔面は蒼白で唇は青く歯の値も合わない。

 多少なりとも温まるだろうと九郎はレイアの手甲を握って温める。


「礼は後だっ! もう少し頑張れっ!!!」


 九郎はレイアの手を握ったまま身体を炎に『変質』させて湖面に張った氷を割るようにして岸を目指す。九郎の発する熱に寄って少しは温められたのか、レイアが短い返事をした次の瞬間、レイアが再び水中へ沈んだ。握った手を離すまいと九郎が再び水中へ身を翻すと、眼下に黒い大きな穴が開いていた。

 便座の蓋が開くように、先程の亀が大きな口を開けて周囲の水ごと吸い込んでいた。奈落の穴の様に黒く開いた口は周囲の泥を巻き上げながら大量の水を吸い込み続けていた。


 大渦に巻き込まれるようにしてレイアの足が再び亀に捉えられる。

 もはや鉄のブーツに守られてはいないレイアの足が挟まれる。

 ゴキリと鈍い音が響きレイアが苦痛に顔を歪める。

 倒すしか逃れる手は無い――九郎が絶望を振り払う様に腰のナイフを抜き放ち、大亀に目を向ける。その視線の端に不吉な影が映る。


(一難去らずにまた一難って、今日はどんな厄日だっ!?)


 自分の不幸かレイアの不幸か……心の中で悪態を吐く九郎の視界に蛍光ピンクの悍ましい影が泥に紛れて向かって来るのが見えた。

蝕肉蛭エクリプスリーチ』の群れが巻き上がった泥に引き寄せられるかのように、大量に姿を現していた。


(レイアの魔法も水中じゃ唱えらんねえ……)


 九郎の顔に焦りが色濃く広がる。

 レイアの顔にも絶望が浮かぶ。

 噛み潰された足の痛みに眉を寄せ、目を強く閉じ耳を塞ぐ。

 それはもはや生きる死ぬでは無く、死に方を選んだ故の行動に見えて、再び湧き上がる憤りに九郎はがむしゃらに腕を振るう。


(ベルはお前の諦めの悪さが気に入ったって言ってたんだぞっ!!)


 炎に『変質』させた九郎の腕が、水に含まれていた酸素を膨張させ、細かい泡となって九郎の身体に纏わる。

蝕肉蛭エクリプスリーチ』が、水の中とて熱を失わない九郎の腕に触れて次々と力を失い浮かんでいく。

 九郎が腕を振るう度に黒く変色した大小の『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が緑の液体を吐き出し辺りを嫌な色に染める。

 レイアに寄って来る全ての蛭を払おうと九郎はがむしゃらに腕を振り回す。


(危ねえっ!!)


 目を瞑り耳を塞いでいたレイアの鼻に小さな『蝕肉蛭(エクリプスリーチ)』が近寄って来る。九郎はすんでの所でそれを握りつぶす。

 目の前に突如沸いた熱と泡に驚いたのか、レイアが恐る恐る目を開けるとそこには泡を纏って踊るように腕を振る九郎の姿が有った。


(くそっ! 両手だけじゃ全ての穴は塞げねえっ!)


 レイアの足を咥えた亀は、じっとレイアが息絶えるのを待つかのように動かない。

 ゴボリとレイアの口から大きな泡が零れる。


(二回目だから言い訳はしねえっ!!!)


 九郎はレイアの腰を抱き寄せ再び空気を分け与える。

 レイアの瞳は泣いている様な、笑っている様な複雑な形に歪むが、今度は拒む様子は見せないでいる。

 身体の炎は消し去る他無い。熱量を奪われる事の無い九郎の『変質』の力はレイアに密着した状態では使えない。レイアを傷付けてしまうからだ。水の中では精々火傷程度なのかも知れないが、女性の肌に傷を付ける事を躊躇ったからなのもあるが、それより傷口から『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が侵入する事を恐れたからだ。

 左手でレイアの頭を抱えるようにして耳を守り、九郎は口付けを終える。

 再び炎に体を『変質』させようとレイアを抱く腕を解こうした時、九郎の耳に鋭い痛みが走る。

 ぐりんと視界が回る。目の内側に影が蠢く。

 入られたっ!! ――と思った瞬間、今度は襲ってくる頭痛に耐える。次々と九郎の耳から侵入してくる『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の群れに、体中を蝕まれて九郎は吐き気を催す。

 皮膚下に入り込んだ蛭達はは九郎の『不死』の力に寄って時間と共に削り取られていくが、体を這いずる蛭の感覚は一向に減る事が無い。

 胃や腸まで滑り落ちて行った蛭などは、九郎の体を傷つけるまでのた打ち回ってしまう。


(ちくしょうっ! 食いたくなかったけど食う事になっちまったよ、ベル!)


 胃の中で蠢く蛭の感触に顔を歪めながら、九郎は顔だけ炎に『変質』させてこれ以上の侵入を阻止する。

 レイアは九郎の腕に顔を抱かれ、胸に片耳を付け口元を覆い、侵入を試みている蛭から必死で防衛している。

 開いてる片腕を炎に『変質』させた九郎がレイアの顔に集っていた『蝕肉蛭エクリプスリーチ』を退ける。


(――もう粗方やったか?)


 周囲を見渡す九郎の腕の中でレイアがビクンと体を震わせる。

 何処かに侵入されたのかと九郎が慌ててレイアを見ると、レイアが泣きそうな顔で股間を押さえて身をよじらせている。


(そりゃそこ・・も狙うよなっ!!!)


 形から想像は出来ていた。

 ズボンを穿いた九郎と違いレイアは長いスカートだ。

蝕肉蛭エクリプスリーチ』に服を突き破る力は無いが、レイアの穴を守っているのは薄布一枚だ。横からなら簡単に侵入されてしまう。

 レイアの踝まである長いスカートが邪魔をして、『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の侵入に抵抗できない様子。


(今度は足蹴にされても怒んねえよっ!!)


 九郎はナイフをレイアの股下に引っ掛けると一気にレイアのスカートを引き裂く。黒い布地に覆われた白い肌が目に飛び込んでくるが見惚れている暇はない。

 スカートを引き裂いたのと同時に姿を現した1匹の『蝕肉蛭エクリプスリーチ』。成体だったのが幸いしたのか、レイアの最後の白い防壁を押し込むように身をくねらせていた。


(がっつき過ぎなんだよっ! 童貞野郎がっ!)


 九郎はレイアの内腿に手を突っ込み『蝕肉蛭エクリプスリーチ』を握りつぶす。九郎の握り慣れた形の『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が緑の体液を吐き出し力を失う。


 辺りを注意深く見回しながら九郎は『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が残っていないかを確認する。

 周囲は緑の体液で視界が悪いが、蛍光ピンクの色は見当たらない。

 なんとか『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の群れを撃退したようだが、九郎に安堵している暇は無い。

 未だ、レイアの足は岩の様な亀に挟まれたままだ。

 九郎は右手に持ったナイフを見る。

 どんな物でも削り取る『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』なら、この固い亀の頭でも削り取る事は可能だろう。――但し、此処が水中で無ければの話だ。

 自傷の痛みに耐えて血を流しても、その血が水中では散ってしまう。


(何かねえのか! こいつを倒せる力は! )


 抱えていたレイアの体がビクンと痙攣する。うつろに開いたレイアの口から空気がコポコポと湧き上がる。レイアの顔は既に青を通り越して白に近い。


(酸素切れかっ!? 冷気!?)


 慌ててレイアの胸に耳を寄せると、聞こえてくる音がかなり弱い。

 冷たい湖の中にいすぎたのだ。レイアの体は既に動きを止めようとしている。


(酸素! 何かねえのか!? 肺の中身は全部使っちまった! 何か……何か……)


 九郎は焦る頭で必死に考える。

 くたりとレイアの体が力を失う。

 暗闇で光明を探すように九郎は考える。

 自分に出来る事、自分がやれることを頭の中で次々と思い浮かべる。


「有るじゃねえかよ! 空気なら!」


 思いついた事を叫びながら九郎はレイアの口を手で覆う。九郎の体に酸素など残ってはいない事を証明するかのように、口を開いても泡は一つも生まれない。

 だが、九郎の手のひらからはボコリボコリと大量の泡が立ち昇り始める。

 九郎が生み出している空気――『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』で削り取られた大量の空気が九郎の手のひらから次々と湧き出る。

 なんとか間に合ったのかレイアの胸が微かに上下したが、まだまだすることは山ほど残っている。


(これで酸素はどうにかなった! 後は冷気と亀だ!)


 一瞬の戸惑いの後九郎は口を真一文字に結んでレイアの胸に手を添える。迷っている暇はもう無い。

 九郎は右手でレイアの胸を押し上げるようにして、手のひらを炎に『変質』させる。添えられた手のひらから大量の小さな泡が噴き出す。心臓に押し当てた手のひらが触れた胸元を温めはじめる。

 九郎は後ろから抱きつくような格好でレイアの胸と口を押え熱と酸素を送り込む。僅かに動いていただけのレイアの鼓動が少しだけ早くなる。


(これで冷気も大丈夫だ! 後は亀だけだ!)


 現状、この岩の様な亀は動く気配が無い。しかしまたいつ『蝕肉蛭エクリプスリーチ』が襲って来るかも分からない。とにかく時間が無い事に、九郎は逸る気持ちを抑えきれない。

 最悪レイアの足を切断する事も考えるが、また吸い込まれたら元の木阿弥だ。

 だが、攻撃するにも九郎の両手は塞がっている。


(俺の足を食わせて『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』で削り取るか? だが上向きについた口じゃ精々端を削り取るくらいしか出来そうにねえ……。もっと広範囲に……もしくは一撃で……)


 焦りだけが心の中で大きくなるのを必死に押さえ込み、九郎は頭を回転させる。


(倒せなくてもいい……倒すことに固執するな! 動きさえ止められれば……)


 両手が塞がっている今、出来る事は限られている。

 短時間なら胸を温めている方の手なら使えるか……と九郎は脱出の方法を模索する。


(動きを止める……毒ならどうだ? いや、毒でも水中に散っちまう……いや……)


「これならいけそうだ……てかいってくれ……」


 天に祈るように九郎は言葉を零し、レイアの足首を挟んでいる岩の様な亀の口へと足をすべり込ませる。レイアの脹脛辺りを挟み込んでいる亀の口は九郎の足首までなら入りそうだ。


 九郎はレイアを横抱きにして口に左手を当て酸素を送り込むと、胸を温めていた右手を離しナイフを引き抜く。

 迷っている暇はないと自分に言い聞かせるが、それでも予測される痛みに身が竦む。一度目を瞑り素早く覚悟を決めると九郎は右足首を亀の口へとねじ込む。


「あばよ! 俺の右足!」


 すべり込ませた足首に九郎はナイフを突き立てる。


「があああああああああああああああああっ!!」


 襲ってくる形容しきれない痛みに九郎の目に涙が溢れる。

「この冷たい水の中なら多少は麻痺しているかも」と思った僅かな希望は、脆くも崩れ去る。

 脳が痺れる痛みに、みっともなく自身が泣き叫ぶのを隠す事も出来ずに九郎は何度もナイフを振る。

 ガチリとナイフが骨に当たる。これから訪れる痛みに九郎は顔を引きつらせる。

 一度経験があるからこそ分かる、骨を砕き神経を損傷する痛みに九郎は今すぐレイアを見捨てて逃げようとも考えてしまう。


 ――何も『神の指針クエスト』に『レイアの愛』が必要な訳では無い。誰でもいいのだ。これ程まで痛い思いをしてまで助ける意味があるのか。大体レイアは自分を嫌っているのではないか――。


 次々と思い浮かぶ自身を擁護する声に九郎の顔が歪む。

 だが、九郎はナイフを握る手に力を込める。


「俺には……惚れた女を見捨てる事なんてできねえんだよぉっ!!!」


 自分でも単純だとも、惚れっぽいとも思う。

 僅か一か月くらいで、それも自分を嫌っているであろう女性に惚れる事など今までの九郎には無かった事だ。一目惚れだったのだろうとも思えるが、それだけでは無い。

 確かにレイアは眼も眩むほどの美少女だ。プロポーションも抜群で見た目だけでも100点だと思う。出会った当初から気になっていたし、それとなく好みを聞いてそれに近付くように努力もしていた。

 しかし、それよりも九郎にとって大きな要因は一緒に暮らしたという事だ。

 同じ寝床で寝て、同じ飯を食い、同じ仕事に精を出す。その中では、徐々に距離を縮めていた元の世界の恋愛の数倍の速さで、レイアのふとした姿や表情を見る事が出来た。

 何気なく目で追う様になれば、その数は増えていく一方だ。

 恥ずかしそうに顔を赤らめる姿や、ベルフラムに叱られて落ち込んでいる姿、いろいろな仕草を目で追う内に九郎は既にレイアに惚れていた。

 ベルフラムの屈託のない好意やクラヴィス達の尊敬の視線は分かっているが、九郎にとってベルフラム達は恋愛の対象ではない。もちろん彼女たちが危機に陥れば体を削る事に躊躇は無いが、それはどちらかと言うと家族に対する愛情に近い。

 自分の身を切る覚悟が、九郎には誰かを守る・・・・・こと以外で考え付かなくなっていた。

 多少の自傷の痛みになら耐えられる。だが、発狂しそうな程の痛みに耐えて自分を守る必要はもう存在していない。


 ――だから――

 死にたくなる程の痛みに耐えてまで自分の体に傷を付ける事は、大切な誰かの為にしか出来ない。


 泣き叫びながら九郎はナイフを振り下ろす。

 踝の隙間にナイフが刺さり脳髄が痙攣を起こす。

 引き抜く刃に肉が掛かり、痛みに足がガクガクと震える。

 それでも九郎はナイフを足に突き立てる。

 ブチンと脳天に響く痛みと共にナイフが九郎の足を貫通する。

 もはや残すは皮一枚となった自分の足を九郎は睨む。


「こ、ここからが本番だ……」


 痛みに気を失いそうになりながら九郎は唇を噛みしめ意識を保つ。

 このまま足を食わせて『運命の赤い糸スレッドオブフェイト』で内臓を削り取る事も考えた。

 だが巨大な亀の一部分を削り取って、致命傷になるのだろうか。

 迷う時間が無いのにそれでも迷う。レイアを見捨てる気持ちはさらさら無いが、それでも失敗すればまた同じ痛みを味わう事になる。


(俺は死なねえ、痛くても死なねえ……。ぜってえ諦めねえ……)


 呪詛の様に心で念じながら、九郎は自分の勘を信じる事にする。

 九郎は足を切り離す。

 最後の痛みが頭を突き抜ける。

 そして九郎は意識を傾ける。自分の体から切り離された足に……。


(最初にバラバラになった時を思い出すんだ……。あの時、俺は弾け飛んだ目玉だけでしばらく動いていた……。俺の『フロウフシ』の『神の力ギフト』はバラバラになってからも動ける筈だ。手だって動いてたしな……。そして『ヘンシツシャ』の『神の力ギフト』は俺の体のどの部分でも『変質』させることが出来る……)


 千切れた足に意識を向ける。

 とたん目の前が真っ暗に変わる。


(この感覚も知っている筈だ! 最初に景色がぶれて見えた。俺は足だけでも観る・・事が出来る! それなら……)


 千切れた足首から赤い粒子が溢れだすのを九郎は必死で堪える。


 右足だけの感覚を頼りに、指で這うようにして九郎は暗闇を進む。

 ふと地面が無くなり体が落ちる感覚を覚える。

 勿論九郎の体が動いている訳では無い。

 足が喉を通って胃に落ちたのだ。

 足裏に焼けるような痛みを覚える。


(よしっ! 胃まで来たっ!)


 九郎のレイアを抱く手に力が籠る。

 九郎は最後の仕上げにと気合を入れる。


「エロ触手だの亀だの卑猥すぎんだよこの湖はっ! 喰らえ俺の超必殺技!!

  『昇天する心地セブンスヘブン』!!!」


 九郎の叫びが水中に響き渡った。

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