第062話  原産地ジャパン


「イテッ……」


 ピニシュブ湖を進んで3時間程。遠くの方にやっとのことで対岸が見えてきた頃。

 遥か遠くまで広がる薄く氷の張った湖面をボンヤリと眺めながら、歩を進めていた九郎の頬に小さな痛みが走る。

 頬に触れる指に微かな血が付いた事に九郎は訝しげに首を捻り、辺りを見渡す。

 薄い赤色の粒子が頬に着いた傷を瞬時に修復していくのを感じながらも、風で何か飛ばされて来たのかと足元に目を向ける。


「なんじゃこりゃ……?」


 足元に小さな蛭の様な物がうねうねと動いていた。

 長さ20センチほどの細長い体を伸び縮みさせ、氷の上でのたくっているその生き物は蛭と言うには奇妙な形をしていた。

 頭にとんがり帽子のような蛍光ピンクの突起を持ち、細い胴体は薄紅色。まるで矢印のような形のその生き物は、氷の上をしばらく蠢いていたが、やがて氷に張りつくようにして動きを止める。

 始めてみる生き物に九郎は好奇心から、その生き物を摘まみあげる。

 動きを止めていた生き物が再びうねうねと身をよじらせる。


「レイアー。コレなんて生き物か知ってるか?」


 荷車の後ろに付いて、荷台に乗ったベルフラムと何やら話していたレイアが顔を向ける。

 奇妙な生き物を高く掲げた九郎の手を、目を細めて見ていたレイアの表情が瞬時に険しくなる。


「クラヴィスさん! デンテさん! 直ぐに荷台に上がってくださいっ! 早くっ!」


 前方を先に進んでいた姉妹達に大声で叫ぶとすぐさま魔法の盾を張り、湖面を注意深く見据える。


「どうしたんですか?」「しゅか?」


 めったに聞かないレイアの大声に、驚いた様子でクラヴィスとデンテが走って来る。


「説明は後です! 早く荷台に上がりなさいっ!」


 レイアの強い口調に驚きながらも、クラヴィスは何か危険が迫っている事を察してデンテを掴んで素早く荷台に飛び乗る。


「何? どうしたのレイア!?!」

「『蝕肉蛭エクリプスリーチ』です! 耳を塞いでしゃがんで下さいっ! クラヴィスさん、ベルフラム様達と毛皮を被って!」


 突如慌ただしくなった状況にベルフラムが尋ねると、レイアが強い口調で返す。


「クロウ様は体を熱くしてください! この生き物は穴から侵入して体を食い散らす魔物です!!」


 レイアの言葉に九郎は慌てて上半身を炎に『変質』させる。掲げた生き物が不快な匂いと共に煙を上げて力を失う。どうやら生命力は弱いらしい。

 しかし、体内に侵入してくるとは穏やかではない。

 九郎はネットで見かけたアマゾンに生息していると言われている泥鰌ドジョウを思い出し、背筋が寒くなる。


 レイアの掲げた魔法の盾に小石がぶつかる様な小さな音が鳴る。


「走りますよ! ベルフラム様達は振り落とされないよう注意してください! クロウ様! 後ろは私が担当しますので合図を出したら走ってください!!」


 レイアの強い口調から状況の悪さを感じ取ったのか、ベルフラム達は短く返事をして荷車の縁を掴む。

 剣を抜き放ったレイアが周囲を睨みながらじりじりと荷車に近付く。


「今ですっ!!!」


 レイアの言葉に九郎は持ち手を力いっぱい引きつけ走り始める。

 後方で追走しているレイアの魔法の盾にガツガツと何かがぶつかる音がする。

 音の重さから、先程の生き物が小さな幼体で大きな成体も飛びかかっている様子だ。

 後方のレイアの盾にぶつかる音と、ベルフラム達があげる小さな悲鳴の声を背に、九郎は力の限りに足を動かす。

 時折九郎にもガツンコツンとぶつかる衝撃があるが、炎に弱いのか、直ぐに弾かれ動きを止める。

 走り続ける九郎の眼前に、成体であろう大きな蛭が橋の上でのたくっている。


「こんなとこまで出張ってんじゃねーよ! お前の原産地は日本だろうがっ!」


 長さ50センチ程、太さ8センチ程の『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の成体は、九郎が日本で見た事の有る――主にR18青年雑誌で――モノにそっくりであった。

 海外で日本の風評被害に一役かっている『SYOKUSYU』――いわゆる『エロ触手』と呼ばれるモノに……。

 目の前に這いずる『蝕肉蛭エクリプスリーチ』は今にも飛びかからんと胴体を擡げている。

 胴体を板バネの様にして跳躍してくるようだ。


「俺にそんな趣味はねえぞっ! くたばれっ!!!」


 九郎は叫びながら一気に加速し、『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の成体を踏みつける。

 素足であった事が災いして、ぐにゃりとした感触をリアルに九郎の足裏に伝えながら『蝕肉蛭エクリプスリーチ』は緑色の体液を吐き出す。

 何とは無しに股間がヒュンと寒くなる気がして九郎は顔を歪める。


「ぐたるとこまで再現してんじゃねえよっ!」


 無体な悪態を叫びながら、九郎は力の限りに荷車を引いて走る。

 ちらりと後ろを振り返ると、レイアが魔法の盾を器用に使って飛びかかってくる『蝕肉蛭エクリプスリーチ』を叩き落としている。

 透明な魔法の盾が今や蛭の体液で緑色に変色しているが、突進自体に攻撃力がないのか盾の強度が落ちる心配はなさそうだ。

 再び前に視線を戻し、荷車を引く手に力を込めた九郎の下腹部に鈍い痛みが走る。

低く飛び込んできた『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の突進が九郎の男の部分に直撃した。


「はぅ……………!!!!」


 ズボンを破るほどの力は無かったが、剥き出しの内臓に打撃を受けて九郎は短く呻く。

 足元がぐらつくのを懸命に堪えて、九郎は目の前に落ちた『蝕肉蛭エクリプスリーチ』を憎々しげに睨む。


「てめえもこの痛みを味わいやがれっ!」


 九郎は足首まで炎に『変質』させて、眼下にのたうつ『蝕肉蛭エクリプスリーチ』を力いっぱい蹴り飛ばす。

 またもぐにゃりとした感触を足に伝えながら『蝕肉蛭エクリプスリーチ』は黒く変色して宙を舞う。

 自分で蹴り上げたのに自分のモノまで痛くなるような幻痛に、九郎は顔をしかめるが、立ち止まってもいられない。


 遠くに見えていた対岸がもうあと少しの距離まで近付いているのを確認し、九郎は両足に力を込める。

 大小の岩がゴロゴロと散在している岸めがけて九郎は一直線に駆け寄っていく。

 荷車がガタガタと音を立て、乗っている少女達の悲鳴が聞こえる。


 速度を緩めず、対岸に激突するかの勢いで乗揚げ勢いよく後ろを振り返る。

 持ち手を持ったまま振り返った為、荷車が九郎の動きに連動する様に横に振られる。

 あわや一回転しそうな勢いに、蹈鞴を踏みつつ九郎が湖を見やるとレイアがかなり後方に見える。

 いつの間にか襲撃が治まっていた様で、時折後ろを振り返りながらもレイアの顔には安堵の表情が浮かんでいる。


「もうっ! もう少し優雅に淑女レディーをエスコートする事は出来ないわけ……?」


 荷台から毛皮を捲り上げてベルフラムが抗議してくる。

 半眼で膨れて頭を押さえている所を見ると、どこかにぶつけたのかも知れない。


「結構前にレイアが止まってって言ってたのに……」


 走るのに夢中で気が付かなかったが、『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の襲撃はそれ程長い時間だったわけでは無かったようだ。

 どうやら襲って来た魔物の形が九郎の恐怖心を掻き立てていたようだ。

 自分が男であって見慣れた形であっても、飛びかかってくる張型に九郎は尻がむず痒い気持ちになっていた。


「叩けば直ぐに死んじゃうんだから、レイアもクロウも大げさね……。これ……食べられるのかしら?」


 荷台に飛び込んできたのだろうか、ベルフラムが一匹のぐったりした『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の成体を興味深げに観察している。

 危険な生物が数多く生息しているこの世界では、穴から侵入して腸を食い破る生物とて弱ければそれ程騒ぐことなど無いのだろうか。

 ベルフラムの疑問に顔を引きつらせつつ、九郎はレイアの焦りようから、―――こいつの形がヤバいんじゃねえか……と顔を歪めた。

 この『蝕肉蛭エクリプスリーチ』の成体の形は卑猥すぎる。

 例えどれ程脆弱な生き物であろうとも、この形であれば恐怖心が煽られるのは仕方がない。

 レイアの様に年頃の少女であればこの生物に嫌悪感を抱くことにもなんら不思議が無い。

 ベルフラムの様に、肝心な部分が抜け落ちた性教育を受けてきた者には分からない恐怖感があるのだ。


「何かに似てるわね……。クロウ、食べてみる?」

「これは食べちゃいけませんっ!!!」

「ああっ!! 何すんのよぉ~!」


 ベルフラムが、ぐったりとしている『蝕肉蛭エクリプスリーチ』を鷲掴みにして首を傾げたのを見て、九郎はそれを即座に遠くに投げ捨てた。

 例え食べられたとしても、到底食べる気など起こらない。

食べ物の大切さは分かっていても、九郎にナニかに似ている・・・・・・・・ものを調理する勇気は無い。

 物惜しそうに九郎を睨んでくるベルフラムに苦笑いしつつ、九郎はレイアに目を向ける。

 体力が無尽蔵な九郎と違い、レイアは疲労困憊の様子で橋を渡り終える所だった。ベルフラム達を守りつつ、走っていたので肩で息をしている所を見るとかなり無理をさせていたようだ。


「スマン、レイア。聞こえなかったんだ」

「あれ程大声で言ったのにですか……? 周囲の音を良く聞くことも戦闘には大切ですよ………きゃっ……!」


 橋を渡り終えようとした時、レイアが足を滑らせてつんのめって転ぶ。

 岸に転がっている岩にでも足を取られたのか、銀色の金属製のブーツが岩に挟まれている。


「レイア、戦闘には体幹も大事だよな?」

「う、五月蠅いですよ……、ちょっと躓いただけ……」


 転んだ時に打ち付けたのか、涙目で額を押さえる様子が可愛らしくて九郎はからかう様に声を掛ける。

 レイアは顔を赤らめ九郎を睨み返す。先程九郎に講釈を垂れていただけにかなりバツが悪そうだ。

 岩に挟まった足を抜こうと力を込めている。

 かなりがっちり挟まってしまったのか、尻餅をついたまま四苦八苦している様子に九郎は笑いながら手を貸そうとレイアに近寄る。


「レイア、手を貸そうか~?」

「必要ありませんっ! ちょっと挟まっただけで……きゃぁっ!!」


 九郎の声にレイアが振り返って強がったその時、レイアが岩ごと足を湖に落とす。


「え?」


 レイアが驚いたように自分の足を見ている。

 レイアの足は岩に挟まれたまま徐々に湖の方へと引きずり込まれている。

 笑いながらレイアに歩み寄っていた九郎も、何か変だと駆け出していた。

 レイアの足を捉えていた岩がずるずると動く。レイアの足を捉えたまま岩は水中へと滑るように移動して行く。


「きゃぁぁぁぁぁぁあっ!!!」


 レイアの足を挟み込んでいる岩がギロリと目を見開いた。

 岩だと思っていたものは生き物だった。

 平べったい岩盤に見えた物は貝の様に口を閉ざした大きな亀の頭だった。

 岩に擬態して獲物を待っていたであろうその亀は、レイアの足を咥えたまま水中へと身を翻す。

 レイアが剣を抜き、亀の顔へ突き立てているが、亀の顔は見た目と同じく岩の様にレイアの剣を弾く。


 ずるりとレイアの下半身が水面へと沈む。

 湖面に張った薄い氷がパキパキと音を立てて割れて行く。


「レイアッ!!!」


 九郎が飛びつくようにレイアへと手を伸ばす。レイアが助けを求めるように九郎に手を伸ばす。僅かに触れたレイアの袖を九郎はしっかりと握り込む。

掴んだ袖を引っ張り上げようと、九郎が全身に力を込めた次の瞬間、九郎はレイアと共にもの凄い力で湖面の下へと引きずり込まれていった。

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