第061話 滑らないはだし
空高くに輝く太陽の柔らかな日差しが白に染まった世界に僅かばかりの暖をもたらし、舞い上げられた氷の粒がキラキラと太陽の光を反射して、美しい世界を作り出している中、簡素ながらもしっかりとした作りの黒いメイド服の上から銀の胸当てと毛皮のコートを着込んだ少女が小さな吐息を吐き出す。
淡い金の髪を腰辺りまで伸ばした少女がふと目頭を押さえ、再び顔をあげて目の前の光景を眺める。
(いえ、私もベルフラム様の言葉を信じられない訳では無いんですよ? 実際クロウ様が『ソードベア』を倒したことは確かだそうですし…………)
誰に弁明するでもなく心の中で一人考え込むレイアの目の前には、一人の青年と猪ほどの大きさの魔物が戦闘を繰り広げていた。
(『クリスタルバグ』を撃退した事も疑っている訳じゃ無いんです……。『クリスタルバグの蜜のしゃ~べっと』? も、とても美味しかったですし……)
青年の気合の籠った怒声が雪原に木霊する。
(ベルフラム様とクラヴィスさんの言う通り、クロウ様は凄いって………思って……たんですけど……)
青年と魔物の戦闘を眺めながらレイアはもう一度目頭を押さえ、傍の荷台に腰かけて同じく戦闘を眺めている赤毛の少女に首を向ける。
「ベルフラム様ぁ………」
自分の口から零れ出た言葉が思った以上に情けない声色であった事に、レイアの戸惑いの心境が表れている。
「………言いたい事は分かってるわよ………そんな声出さなくても……クロウは凄いんだから………………………きっと…………たぶん…………」
何を尋ねられているのかは分かっていると言いながらも、ベルフラムは半眼で戦闘を眺めて言葉を返す。
後半に続けられた小さな言葉がまるで自分に言い聞かすように自信無さそうで、レイアも弱り顔で笑うしかない。
レミウス城を目指して旅立ったベルフラム一行は順調に旅を続け、4日が経っていた。
あと1日も歩けば、レミウス城に到着すると一路街道を南下していた折に、一匹の魔物に出くわした。
一瞬警戒を強めたレイアだったが、目の前に迫る魔物の姿に安堵の吐息を漏らした。
先日遭遇した『ソードベア』――この辺りでは見かけない強力な魔獣などではなく、レイアも良く見た事の有る兎の魔物だった。
『
手早く仕留めようとレイアが剣を抜き放とうとした時、九郎がそれを制し「自分が行く」と向かっていった。
『ソードベア』を倒せる実力があれば瞬殺だろうとレイアも安心して成り行きを見守っていたのだが……。
「ちっ!! やるじゃねえかっ! ぐふぉぅっっっ!」
がなり立てながら、体制を立て直そうとした所に『
すぐさま起き上がってナイフを掲げているので、大したダメージを負っている訳では無さそうだが、それにしても動きが遅い。振りぬいたナイフが幾度も空を切り、掻い潜られた兎に良いように弄ばれている。
「くそっ! あったまきたぞコノヤロウっ! くらえっ! 俺の最大の必殺技! 『
空気を振動させるような激しい轟音と共に繰り出された拳が再び空をきり、雪に足をとられて盛大に転ぶ九郎。雪が間欠泉の様に吹き上がる。めげずにすかさず起き上がった九郎の顔面に『
「ぶへあっっっ!!!」
またもや地面に転がされる九郎をしり目に、『
「お肉……」
ベルフラムが惜しそうに呟くのがレイアの耳にも聞こえてくる。
別段、現在食料に困っている訳では無いのだが、手の届きそうな場所にあった食べ物が消えてしまった事に、多少の不満があるようだ。
「くそっ! 俺に恐れをなして逃げやがったか……! 前に戦った時とは色が違ってたし、きっと上位種なんだろうな……。白かったから『
悔しそうな悪態を吐きながら、九郎がとぼとぼと戻ってくる。
いいえ………あれは冬毛ですっ…………! とは言えない雰囲気だ。
「かなり攻撃を受けていたようですから、治療の魔法を使いましょうか………っくぴゅ!!!!」
いくら弱い魔物と言えどあれ程攻撃を受けてはダメージだって蓄積しているだろうと、九郎に歩み寄るレイアが奇妙な鳴き声を上げて九郎から目を逸らす。
「!! どうしたレイアっ!?」
突然肩を震わせ俯いたレイアに九郎が慌てて駆け寄りレイアの顔を覗き込む。
「な………なんでもありませ……ぷひゅっっ!!」
頻りに九郎から目線を外し、肩を震わせてしゃがみ込んでしまったレイアにベルフラムも怪訝そうに近寄って来る。
「どうしたの? レイ…ア…あはははははは! クロウっ! っ! やめてっ! こっち見ないでっ! あははははははっ……苦し……お腹痛い……」
困ったように顔を上げた九郎の顔面には、先程の兎の魔物に付けられたであろう見事な足跡が泥に彩られてくっきりと残っていた。クロウの目元に黒い足跡が残り、道化師ような風貌にベルフラムが腹をおさえて痙攣している。
しきりに笑いを堪えていたレイアもベルフラムの笑い声に釣られるように肩を震わせはじめる。
「あはははっ! やめてっ! お願いっ! こっち見ないでっ……! くくっっっ! ダメッ! あははははははっっっっ……」
「っく……ベルフラム様……お、落ち……着い……て………くぴゅっっっ!」
自分では気付いていないのか、九郎の困ったように眉を下げた表情が殊更滑稽で、諌めようとしたレイアが再び目線を外し蹲る。
なんとか九郎に顔の事を伝えようとするが、言葉を発しようと視線を向けると込み上げてくる笑いに息が出来なくなってしまい上手く伝えられない。
弱り切った顔で頭を掻いて立ちあがる九郎の耳に元気なデンテの声が響く。
「クロウしゃま~お姉ちゃんとでっかい兎捕まえましゅた~!」
どこに行ったのかと思えば、九郎が逃した『
くたりと力を失った『
「クロウ様っ! デンテを褒めてやってくださいねっ? 殆んど一人で仕留めたんですよ? ……ってクロウ様お顔に泥が付いてますよ?」
「そうかー偉いぞっデンテっ! 俺がしっかり弱らせたからなっ! 多分っ! しっかしあいつら……それで笑ってたんか……。教えてくれりゃいいのによ……」
複雑そうな顔で九郎はデンテの頭をワシャワシャ撫でて褒めると、無造作に顔を拭い振り返る。
「「あははははははははははははははっっっっっ!!!!!」」
何処が汚れているかも聞かずに無造作に顔を拭ったせいで、口の周りまで黒く縁どられた九郎の顔にレイアも堪えきれずに声を上げて笑い転げた。
顔を引きつらせた九郎が再び弱り切った顔をして、少女達の笑い声はさらに大きく冬の空に吸い込まれていった。
☠ ☠ ☠
「ここ、ピニシュブ湖を抜ければレミウス城はもうすぐですよ」
「はーでっけえ湖……」
九郎は眼前に広がる大きな湖に思わずため息を溢す。
見渡す限りに広がっている雄大な湖面に、クラヴィスとデンテも口を開けたまま驚きの表情で湖を眺めている。
「私もこの季節のピニシュブ湖を見るのは初めてよ。秋口はいいけど夏場は虫が多くて大変なのよねぇ……」
ベルフラムが眉を顰めて女の子らしい夏場の感想を語っているが、九郎は――今のベルなら食料集めと称して虫取りに出かけそうだ――とそこはかとなく考えてしまう。
麦わら帽子を被り、虫取り網を持ったベルフラムを想像して、それが妙にしっくりときて九郎は忍び笑いを噛み殺す。
「しっかし……どうやってこの湖を渡るんだ? 橋が見当たらねえけど、渡れるほど氷が張ってる様には見えねえぜ?」
九郎の問いにベルフラムが得意げに彼方を指し示す。
「橋はちゃんとあるのよ。この湖の橋はちょっとだけ特殊だから珍しいのかもね」
ベルフラムが指し示した方角には、何やら茶色いものが浮かんでいるだけに見える。橋と言うには高さが足りないように見えて、九郎は不思議そうに眉を寄せる。
「近寄って見ない事には分からないかも知れませんね。日が暮れる前に対岸まで進まないと大変ですから、急ぎましょう」
レイアがそう言って先を促す。
九郎は頷いて荷車を引きながら片手で額に影を作り、茶色い物体へと歩みを進める。
九郎の肩に登って来たデンテが、九郎の真似でもするかのように同じように彼方を眺めた。
近付いて見てみると、それは筏の様だった。
湖面に浮かぶように馬車2台程の幅の、木で組まれた――
レイアの説明では、どうやらこの湖は季節によって水量の上下が激しく、その度に橋が流されるのでこの形になったとの事だ。
「今は湖面が凍っているので渡りやすいですよ。夏場はゆらゆらして結構大変なんです」
レイアがそう言って浮き橋に片足を乗せ左右に振る動きをする。
凍りついた橋はぎしぎしと音を立てるが、動く気配は無い。
成程、確かにぐらぐらしていると渡りにくそうだと思いながら、九郎は荷車を引いて橋を渡り始める。
「っでっ!!!」
荷車を引っ張ろうと足に力を込めた瞬間、九郎は足を滑らせて勢いよく顎を持ち手に打ち付けて悲鳴を上げた。
そのまま橋に倒れ込んだ九郎が呻きながら体を起こそうとして再度足を滑らせる。橋が凍りついて固定されているのだから、当然橋の表面は氷で覆われていた。
「大丈夫? わ、わ、わ、わ、わっ!! きゃっ!!」
九郎を心配して荷台から飛び降りたベルフラムも同じように足を滑らせ尻餅をつく。
氷で覆われ、湖の水分で若干濡れた橋はとても滑りやすかった。
立とうとしては滑ってを繰り返す九郎とベルフラムを見下ろし、レイアが小さく息を吐くとベルフラムを抱え上げて荷台に戻す。その後九郎の手を取り、立ち上がらせる。
氷の上だと言うのに、しっかりとしたレイアの足取りに九郎は目を瞠る。
「すげえな、レイア。なんでそんなにしっかり歩けんだ? コツとかあんの?」
「クロウ様にはいつも言ってたじゃないですか。体幹をしっかりと持てば足を取られる事は無くなりますよ。ベルフラム様も偶には鍛錬してくださいね。ほら、クラヴィスさん達は大丈夫でしょ?」
九郎の疑問の声に、レイアが肩を竦めてクラヴィス達に目を向ける。
レイアと同じくクラヴィス達は、凍りついた橋の上で元気に走り回っていた。
時たま四本足で走っているが、足を取られそうな気配は感じない。
確かにレイアとの鍛錬で、何度も注意されていた事なのだが、九郎にはどうにも感覚が掴めず難儀している課題だった。
ベルフラムが面白くなさそうに膨れる姿に、レイアが嘆息しつつ荷台に手を掛ける。
「でも、直ぐに治る物でも無いですから……私が荷車を引きますからクロウ様は荷台へどうぞ」
レイアの言葉に九郎は苦渋に満ちた表情を浮かべる。
確かにこのままでは進むこともままならないのだが、大の男が荷車に座って少女が荷車を引いているのではどうにも格好が悪い。
先程兎相手に情けない場面を見られただけに、どうにかして格好を付けたいと九郎は代案を考える。
なかなか荷車の持ち手を離そうとしない九郎に、レイアが痺れをきらして強引に荷車を引こうとした時、九郎の頭に妙案が浮かぶ。
レイアの手を制して、九郎は靴を脱ぎ裸足になって飛び跳ねて見せる。
「これで滑らねえだろ?」
「クロウ様も強情ですね」
「女の子に運ばれるってのは俺の美学に反すんだよっ!」
足首から下だけを炎に『変質』させた九郎がしっかりとした足取りで歩き始めるのを見て、レイアが呆れたように肩を竦めた。
橋を覆った氷の道に、九郎の足跡だけが跡を作っていた。
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