第056話 盾
(こんな所で遭遇するとは……)
レイアは自分の心を冷静に保つことを念頭に置きながらも、自身の運の無さに愚痴りたい気分だった。
目の前に対峙している魔獣『ソードベア』はこの辺りの一般的な魔物では無い。
ここより遥か北、風の魔境を分断するように北西に聳えるエーレス山脈に生息する魔物の筈だった。
祖父のクラインから話だけは聞いていたが、その体毛は剣の様に変化し硬質で魔力を通した攻撃でしか通らない。
災害級と呼ばれる『
10年間剣の修行に明け暮れ、それなりに魔物とも戦ってきた経験のあるレイアだったが、祖父や父がいない今、頼れる者もいない中で戦う不安はかなり大きい。
(それでも今の私はベルフラム様の騎士!!)
カタカタ震える
(これ程の魔物が2匹も……)
気を強く持とうと大きく息を吐き出し、レイアは後ろにも同じ魔物が迫っている事を思い出す。
「クラヴィスさん! クロウ様をお守りしてください! 倒そうとせず、時間さえ稼いでもらえれば良いです! 近付くと危険ですから離れて牽制してください!」
「はいっ!」
声が震えるのを誤魔化すかのように大きな声を出して、レイアは自分でも残酷な事を言っていると自嘲する。
鍛錬を積んできたレイアでさえ足が震える強敵に、10にも満たない子供をけしかけている残酷さにはため息がでる。
家臣として主の為に身を呈するのは当然だと考えているレイアであっても、勿論幼い少女に犠牲を強いる事にためらいはある。
だが、この幾日かの間九郎に剣の鍛錬を施してきたレイアには、九郎の強さには毛ほどの信頼もおいていない。努力しているのは知っているし、向上心も度胸もあるのだが、九郎に剣の才能は無かった。
いくら教えても剣にも体にも魔力を通わせることが出来なかったし、力だけは人一倍あっても、それを相手に当てる術を持っていない。
剣士でも騎士でも冒険者でも、戦う時には体中に魔力を通わせて身体能力を底上げするが、九郎にはその『最初の一歩』が出来なかったのだ。
それよりは不意打ちながら歴戦の騎士であった祖父に一撃を入れたクラヴィスの方が、足止めだけならまだ希望があるとレイアは判断してのセリフに、クラヴィスは一間も入れずに行動している。
恐怖を感じていても守るべき者の為にすぐさま行動するクラヴィスの、家臣としての矜持に尊敬の念を覚えながら、レイアは目の前の敵に視線を向ける。
「レイアっ! こいつは私一人で何とかするからあなたはクロウの方へ!!」
後ろからベルフラムの悲痛な声が聞こえてくる。
確かに今のベルフラムであれば――多くの家臣を動く間もなく抑え込めるベルフラムの魔法であればこの『ソードベア』を屠る事も可能だろう。
だが、どれほど強力な魔法を使えようともベルフラムは戦闘に関しては素人だ。
特にベルフラムがあの時見せた『輝く炎の剣』の様な強力な魔法は、魔力を練るのに多くの時間を必要とする。
自分がその時間を稼がなければ、ベルフラムなど一瞬で距離を詰められてしまう。
「クロウは弱いんだから直ぐにやられちゃう!!!」
「うっせえベル! レイアっ、後ろは頼んだ!」
尚もレイアに頼むベルフラムの声に後方から九郎の激が飛ぶ。
自分たちの主はどうも大人しく守られてはくれない様子に、レイアはもう一度大きく息を吐き出す。
九郎は弱いのは知っている。
その弱い九郎が覚悟を決めて敵と対峙すると言っているのだから、九郎より強い自分が情けない事は言えない。
ゆっくりと剣を握る手に力を込める。カタカタと音を鳴らしていた右手が静かに『ソードベア』に向かう。
「レイア! しっかりベルを守ってくれよ! ガキんちょ達を守んのは大人の仕事だかんな! こんな雑魚敵とっとと片付けて手伝ってやっからよ!」
後方から飛んでくる九郎の根拠のない自信に苦笑しそうになりながら、レイアは『ソードベア』に向かって駆けだす。
(そうですね! 私達は大人なんですから!)
振るわれる巨獣の腕を魔法の盾で防ぎながら、レイアは
「手伝って頂かなくてもこの程度の魔物に負けるわけにはいきません!」
自分を鼓舞する様に声を張り上げレイアは数度剣を突き立てる。
僅かな手ごたえしか得られないのが不満だが、この『ソードベア』は自身の防御力の高さからか攻撃を避けようという素振りを見せない。
「はあっ!!」
一気呵成に繰り出したレイアの渾身の突きが『ソードベア』の胸元に突き刺さる。今度は確かな手ごたえだ。
「レイア!! 横!!!」
レイアが確かな手ごたえを感じて剣を引き抜こうと力を込めた時、後ろからベルフラムの声が飛ぶ。
剣を引き抜こうと力を込めたのに剣が動かない。
はっと気付くとレイアの側面から巨大な腕が迫ってくる。
「くうっ!!」
咄嗟に剣を手放し魔法の盾で身を庇う。
身体が浮き上がる感覚とその後打倒される衝撃でレイアはなぎ倒される。
ガラスの割れるような音と共に左腕近くで浮いていた魔法の盾が砕け散る。
ぐらつく頭を振りながら体を起こすと、後方からも金属の擦る音とクラヴィスの短い悲鳴が聞こえる。
確認している暇も有りはしないが、やはりクラヴィスでは荷が重かったのは確かだ。
「『ソードベア』の体毛は剣の様に変化します! 魔力を通した攻撃でないと効果はありません!!」
目の前の敵を睨みながらも、レイアは大声でクラヴィスに告げる。
後方の仲間たちに魔力を通した攻撃などできない事は分かっているのに、叫ばずにはいられなかった。
牽制していれば良いと言った所で、巨大な『ソードベア』にしてみれば五月蠅い羽虫も同然の小さな少女の動向が気にかかる。
(早く……早く仕留めなければ……)
気持ちばかりが逸っている。
今し方手を離した自分の剣は今も『ソードベア』の胸元に突き刺さったままだ。
剣も盾も失ってどうやって――一瞬の戸惑いの中、『ソードベア』が今度はベルフラムの方に向き直る。
敵の狙いが自分からベルフラムへと移った事を知り、またも考えるより先に体が動く。
(主を守れなくて何が騎士です! 私はこの10年間ベルフラム様を守る為に鍛錬してきたんです!)
怯む様子も見せず、しっかりと敵を見すえて精神を集中させるベルフラムの姿に誇らしさを覚えながら、レイアは『ソードベア』に両手の小手で体当たりする。
頬や腿に幾筋の線が走り、数本の体毛が足に突き刺さり鋭い痛みが体を襲う。
再び振り上げられ、叩きつけられようとする『ソードベア』の腕を睨みながらレイアも再び魔法の盾を張る。
『
叩きつけられる衝撃によろめきながらも、なんとか盾が間に合ったようで腕が切り刻まれていない事に安堵する。
(あと数度受ける前に剣を取り戻さなければ―――)
『ソードベア』の胸元に突き刺さったままの剣を見ながら、レイアはじりじりと距離を詰める。
動き続ける『ソードベア』の胸元に突き刺さった
なぶるように繰り出される『ソードベア』の両腕の攻撃を、レイアは吹き飛ばされないよう足を踏ん張りながらなんとか受け流し、あるいは受け止める。
硬質な反響音を響かせ、獣の唸り声とレイアの小さな苦悶の声が雪原に漏れる。
バリン
またもガラスの崩れる音が耳に聞こえ横なぎに吹き飛ばされるが、今度は間もおかずに身を起こして直ぐさまベルフラムの前へと駆け出す。
再び魔法の盾を張ろうと精神を集中させる。
ぐらりと視界がぶれる。
足がもつれたように感じられ重力に引っ張られるように地に膝が落ちる。
いくら盾を掲げていたとしても、自身の体重の十数倍もの巨獣の攻撃による衝撃に体の方が先に参ってしまっている。
(まだ……まだ!)
崩れ落ちそうになる両足を懸命に踏ん張り、唇を噛んで意識を保とうとするレイアの耳にベルフラムの声が響く。
振り返らなくても分かるほど、背中から暖かな熱風と魔力の凝縮された奔流を感じてレイアは勝利を確信する。
糸の切れた人形の様に地面に膝をつくレイアの目の前に、『ソードベア』が後ろ足で立ち上がり、上空から二本の腕を振り下ろすのが見える。しかしレイアはその自分の命を刈り取ろうと振り下ろされる両腕をよける素振りも見せず、それどころか期待に満ちた目で『ソードベア』を見上げる。
レイアの耳に、勝利をもたらす福音のような声が聞こえる。
「
――『深淵なる赤』、ミラの眷属にして鋼を溶かす原始の炎よ、舞い踊れ!
『アブレイズ・フラム・トリア』!!!」
ベルフラムの怒気の籠った高い声と共に、今まさに振り下ろされようとしていた巨獣の両腕がビクンと痙攣した。
遥か後方で同じような啖呵を切っている九郎の声がかすかに耳に届く。
(――私達の主人は本当によく似て来ましたね――)
薄く頬を緩めながら、レイアはゆっくりとした動作で立ち上がり『ソードベア』の胸元に突き刺さった剣を引き抜く。
先程は突き刺さったまま全く引き抜ける気配が無かったレイアの細剣
抵抗も無く引き抜けた理由はもはやこの魔獣が絶命し、筋肉が弛緩した為だ。
ベルフラムの魔法によって発現した、輝く炎の槍が地面から伸びるように『ソードベア』の両脇に交差して突き刺さっていた。
レイアが剣を引き抜くと同時に現れた、赤く煌めく大きな剣が『ソードベア』の頭上から振り下ろされる。
赤く輝く大刀が過ぎ去った軌跡をなぞるように、『ソードベア』の巨体が二つに割れて大量の内臓を大地に落とす。肉の焼ける匂いと、脂肪の沸き立つ音が微かに聞こえる。
剣を振り血を払うレイアの後ろには槍に縫い付けられ、倒れる事も許されぬまま二つに割れた『ソードベア』姿が黒い煙を立ち昇らせながら氷像の様に留め置かれていた。
「レイア! ボーっとしてないで、早くクロウ達を助けに行くわよ!!」
ベルフラムの声に弾かれるようにレイアは顔を上げ、走り出したベルフラムを追う。視界に九郎達がこちらに向かって走って来るのが見える。
「はいっ!!」
レイアは大きな返事を返してベルフラムに続いた。
ベルフラムの魔法の威力に大きな信頼と、自分の不甲斐無さに小さな劣等感を抱きながら……。
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