第054話 蜂蜜と熊さん
真っ暗な闇の中、数本の光が真上に広がる白い布を透過して九郎の目元に射し込んでくる。
か弱い光から朝の訪れを感じ、九郎は眼を覚ます。
藁の中から身を起こそうとするが四肢全てに重みを感じ、一瞬体を硬直させる。
「すまんレイア……起きてくれ……」
左脇に体を寄せるようにして眠る少女に首だけ傾けて小声で声を掛ける。
「ベルフラム様……蛙はがんばりますから……幼虫だけは……」
何の夢を見ているのかとは聞かなくてもわかるような寝言を呟きつつ、レイアがなおさらに九郎に抱きつく。
豊満なレイアの胸が九郎の体に押し付けられ、九郎は自分の体全部が硬くなっていくのを感じる。
目を瞑って強制的に鎮静しなければ腹の上で寝ているデンテやクラヴィスが浮き上がってしまうと、馬鹿げた想像をしながら自分の中のトラウマを探す。
(考えるな! 感じるんだ――――じゃないっ! 考えるな! 感じるなっ! この感触は金髪美少女の柔らかな胸じゃないっ! めり込むほど肥えたおばさんの腹だ!! 電車で寝てたら気が付いた時にもたれかかって来ていた、あの最悪香水ババアの腹肉だ――よーし……萎えてきたっ!)
思い出したくも無い自分のトラウマ体験に置き換えた事で、頭の中がスッと冷える。九郎はハイライトを失った瞳を開く。心はとても静かだ。まるで凪の海のように――。
「私がお守りしますから……」
静かに揺蕩っていた九郎の心の海に、幼少の頃に見た怪獣映画の登場シーンのような大波が起きる。
耳元で囁かれたレイアの寝言に再び体が硬直する。
さらに抱きつかれた事により、九郎の鼻孔にフワッとした少女特有の甘く若い香りと汗の混じった匂いが飛び込んでくる。
ぎぎぎと首を傾けるとレイアの顔が至近距離で映し出される。
長いまつ毛と整った鼻筋、僅かな光の中でも輝くような金髪が白い頬を滑るようにハラリと落ちる。
自分の体が再び熱く熱を持つのを必死に抑えながら、九郎は大きく息を吐く。
(天国行きか地獄行きかを決めるって言ってたが……充分ここは天国で地獄だと思うぜ……神様よぉ……)
再びトラウマを呼び起こし、何とか平静を保つと九郎は仕方なく逆側に抱きついているベルフラムを起こす事にする。
大体なんでこんなにレイアが近くに来ているのかと、叫びたい気分だ。
いくら荷台がいつものベッドより狭いとは言え、レイアと九郎の間にはデンテやクラヴィスが寝ていた筈だし、レイアは九郎から一番遠い位置で背を向けて寝ていた筈だ。
野宿という事で服を着こんでいたから何とか平静を保てたが、いつも通りの寝巻なら九郎の理性は吹っ飛んでいただろう。
「ベル、朝だ……起きてくれ……」
「む~……もうちょっとだけ……」
いつも寝起きが悪いレイアを起こす事を諦め、九郎は反対側の腕に抱きついて小さな寝息をたてているベルフラムに声を掛ける。
お約束のセリフを呟くベルフラムがくっついている片腕を持ち上げると、何度か揺する。
片腕に抱きついていたベルフラムが人形の様に軽々と上下すると、軽い音と共に藁の上に放り出される。
「ひゃんっ!? ……ってクロウ……おはよう……どうかしたの……?」
眠たげに眼を擦りながらベルフラムが、引きつった顔の九郎に目を向ける。
「すまんがレイアを起こしてくれ……このままじゃ起き上がれねえ……て言うか起き上がっちまう……」
「?? ……何? 寝惚けてるの? レイアー……起きなさーい」
健全な若い男の生理現象を子供であるベルフラムに説明できず、苦悶の表情でベルフラムに救援を頼む九郎の言葉に、ベルフラムは訝しがりながらもレイアの顔をペチペチ叩く。
「なんでレイアが隣に来ちまってんだよぉ……」
寝惚けまなこでレイアを起こしているベルフラムが九郎の呟きに間をおかずに答えをくれる。
「前にも言ったと思うけど、クロウの体ってとっても温かいのよ。野宿だと殊更実感するわ」
寒い外気からも熱を奪われることの無い九郎の体は、冷める事の無い『湯たんぽ』と同じ。九郎に引っ付くように体を寄せているレイアを揺すりながら、ベルフラムは素足を九郎の胸に乗せる。
自由になった手で腹の上で丸くなっているクラヴィスとデンテをゆっくりと藁へと降ろしながら、九郎は自分の体が電気アンカーのような状態で、寝ている間に暖を求めて全員が寄って来た事を知って渋面していた
ひたすらに便利家電の道を突き進んでいるのではと、大きなため息を吐きつつ九郎は自由になった両手で荷台の後ろ、白い雪の壁に手を触れる。
意識して手のひらを炎に変質させると、腐食して行く様に雪の壁が崩れ落ち、朝日が眩しく照り込んで来る。
昨夜、就寝しようとした所、レイアが寝ず番をすると言いだした。
なんでも野宿で警戒しないのは危険すぎるとの事だ。
なら、最悪寝なくても活動できる九郎が警備を引き受けると言ったが、レイアは首を縦に振らない。
冬の野宿で最低限度の防寒具しか身に着けていないのだから、九郎の暖かさは凍死したりしない為にも必要だとの理由と、ベルフラムの主である九郎にその様な真似はさせられないと言いはった。
ならばとクラヴィスがレイアと交代で番をすると言いだしたが、年下の少女たちに番を任せて安穏と眠りに付けるほど九郎の精神は太くは無い。
そこで九郎は積もった雪に突っ込んで行き、荷車の大きさの溝を作り、その中に荷車を入れると入り口も塞ぎ、雪原と同化して埋まってしまう事を提案した。
積もった雪を溶かす事など九郎の力を使えば直ぐに出来るし、上に帆布を広げれば雪が降っても大丈夫だ。
それでも多少渋っていたレイアだったが、薪になる木も少ないこの地方で
横になったのに最後まで起きていたのか、レイアは今も夢の中の様だ。
「レイアは寝てる時もよくしゃべるわね……」
ベルフラムが目を細めて、今度はクラヴィスやデンテに抱きつき暖を求めているレイアの頬をつつく。
「ベルは寝てる時は静かだよな」
入り口を溶かし終えた九郎が、鍋に雪を入れて両手で温めながら声を掛ける。
「それは起きてる時はうるさいって言うこと?」とベルフラムが抗議してくるのを、苦笑で返しながら九郎は昨日の残りの兎の肉をナイフで細かく刻み、じっくりことこと煮込み調味料とチーズを千切って入れていく。
乾いたパンをちぎって入れるとリゾットのような味のパン粥が良い匂いを立ち昇らせる。
「クロウだって寝言よく言うじゃない……あら、おいしそうね……」
起き出して来たベルフラムが九郎の両手に手をかざしながら鍋を覗き込む。調理中の九郎の手は電熱ストーブの様に赤く変質し、それだけで周りの温度を数度上昇させているようだ。
「俺は聞いたことねえぞ?」
「あたりまえじゃない……何言ってんのよ? いつも数を数えてたり、でも3,5,7,11って飛び飛びなのよね。後たまにおばちゃんだ、おばちゃんだって苦しそうにしてる時もあるわよ」
夢の中でさえ素数やトラウマ思いだしをして精神の鎮静を測っていると聞いて、九郎は顔を引きつらせる。
適齢期の美少女が隣で寝ている刺激的な環境の中、夢の中でさえ自制している事を指摘され自分の精神は未だ
(そういやあ…今日は危なかったもんなぁ……。『ヘンシツシャ』の力はシチュエーションが変わったら効果がねえのかもなぁ……ってあんまり慣れすぎたら今度はEDまっしぐらじゃねえか!?)
この先レイアとの距離を縮めた時、自分が不能になっている可能性を思い浮かべ、九郎はため息を吐いた。
白く眩しく煌めく雪原の空に、九郎のため息が白い煙となって消えて行った。
☠ ☠ ☠
「クロウ様クロウ様、あれ何ですか?」
荷車を引く九郎の後ろからクラヴィスが遠くを指さす。
パン粥で朝食を終え、九郎達は街道を進んでいた。
「んー……でっかい松ぼっくり?」
冬の寒空の下、正気を疑う様な格好の九郎が目を細めながら答える。
九郎の今の姿は、上半身裸と言う馬鹿げた格好である。
歩いていると正面から風が吹いて来て、荷車の中で少女たちが身を竦めるのに気付いて、応急の措置である。
九郎は現在上半身を炎に『変質』させ、正面から吹く冬の風を温めている状態だ。
「食べられるんでしょうか?」
「分かんねえなぁ……」
見たことも無い物を発見したらとりあえず食べられるかを知ろうとするクラヴィスの問いかけに、――クラヴィスもベルと似て来たな――と苦笑しながら九郎は頬を掻く。
遠くの細い木の枝に、半透明の松ぼっくりのような形の木の実がぶら下がっていた。光を反射してきらきらと光るそれを、松ぼっくりと言って良いのか思案しながら、九郎は首を傾げる。
「あれは『クリスタルバグ』の巣ですよ」
隣で歩くレイアがしたり顔で説明を始める。
昨日は一番後ろを歩いていたレイアも、九郎の温風に引き寄せられる様に距離を縮め、今は隣を歩いていた。
警戒も何も、この視界の開けた、木々の少ない街道で後ろに居ても隣に居てもそう変わりは無い事に気付いたのだろう。
『クリスタルバグ』は冬に活動を活発化させる冬の魔物の一種で、透明な体を持ち、樹液や冬に咲く花の蜜を食料としているらしい。性格は刺激しなければ大人しい虫のようで離れて進んでいる状態で危険は無いようだ。
「蜂だったら、蜂蜜とか獲れんじゃねえ?」
「刺激しない分には大人しいだけです! 対策も無く手を出せば全滅もありえるんですよ?」
九郎の言葉にレイアが眉を顰める。
なんでも『クリスタルバグ』の針には毒があるらしく、刺されて死んでしまう様な毒では無いが、刺されると抗えない眠気に襲われると言う。
冬に活動する『クリスタルバグ』に刺されるという事は、冬の最中に雪原の中で眠りこける事になり、眠ってしまえば凍死は免れない。
「それに『クリスタルバグ』の蜜は取れませんよ。あの巣の中の蜜は…言うなれば精霊のように
なんとも不思議な物がこの世界にいるのだなと思いながら、九郎は物惜しげに巣を見やる。
この世界に転移してから3か月程経ったが、街での生活でも『甘味』成分が殆んどなかった。
酒好きだった九郎は今はかなり『甘味』に飢えている。
酒自体は売っているので買おうと思えば買えたのだが、未成年の多い――レイアはこの世界では成人しているらしいが――生活の中、一人だけ酒を飲む事は憚られ、それに一人嗜好品に金を使う事にも抵抗があった。
かと言って果物等を購入しても、味がぼやけた洋梨のような物や、煮物に使った方がよさそうな大根のような味の瓜しかない。
そのようなぼやけた甘味でもベルフラム達は大いに喜んで口にしていたことから、この地域で『甘味』は手に入れる事が難しい味なのだろうと諦めていた。
荒野で見つけた紫色のサボテンの汁を恍惚の表情で舐め取っていたベルフラムを思いだし、その結論に達していた九郎だが目の前にあるかもしれない『甘味』に胸がときめいた。
しかし「触れない事には仕方がない」と再び荷車を押し始めたその時、クラヴィスが僅かに耳をピクつかせて警戒の声を上げる。
「レイアさん! あれ何ですかっ!?」
透明の松ぼっくりが下がっている枝のすぐ近くに大きな白い塊がのそのそと動いていた。
周囲の白さに溶け込むようなその塊は、白銀色の毛並みの巨大な獣に見える。
のそのそと四本足で歩くその獣は、顔は馬と鰐とを合わせたような黒い面長な顔で、長いふさふさとした尻尾を持っていた。
白銀色の獣は枝の下まで移動すると、後ろ足で立ち上がり前足で枝を撓らせる。
顔と手足のみ黒い毛並みのその獣は、透明な松ぼっくりから飛び出してきた透けた蜂、『クリスタルバグ』を物ともせずに大きく口を開いた。
鰐の様に大きく上下に開かれたその口で獣は周りに飛び交う蜂もろとも、『クリスタルバグ』の巣を一飲みにする。
「『ソードベア』ですっ! この近辺にはそう現れる魔物では無い筈ですが……危険で手ごわい魔物です! 注意してくださいっ!!」
レイアの焦った声に九郎は腰のナイフを引き抜く。
『ソードベア』と呼ばれたその獣は、『クリスタルバグ』だけでは満足できなかったのか数度鼻をひくつかせると、こちらの方にのそりと動き始めた。
「逃げらんねえのか? 動きはそれ程速そうじゃねえけど」
「走る『ソードベア』は馬より早いんです! クロウ様、ベルフラム様たちをお願いします!!」
腰に吊るした細身の剣を引き抜きながらレイアが後ろを振り返る。
その瞳が大きく開かれ、レイアは突如後方へ駆け出す。
地面の雪を大きく舞い上がらせ、レイアは荷車の後ろを睨んで大きく息を吸い込む。
「ベルフラム様っ!! 後ろにもいます! ――『流れ廻る青』ベイアの眷属にして凍てつき留まる静かな水よ! 防げ! 『スクートゥム・グラキエス』!!!」
叫んだレイアの目の前に戸板程の大きな透明の盾が現れ、ガインと音を響かせた。
大きく弾かれたレイアが空中で体制を立て直し、ベルフラムの前で剣を肩の位置に掲げる。
何処に潜んでいたのか、もう一匹の白銀の獣『ソードベア』が街道の脇の雪の中から姿を現していた。
「クラヴィスさん! クロウ様をお守りしてください! 倒そうとせず、時間さえ稼いでもらえれば良いです! 近付くと危険ですから離れて牽制してください!」
「はいっ!」
レイアの言葉に、クラヴィスが荷台の包丁を掴んで九郎の横を走っていく。
それを見たデンテが一瞬おろおろ周りを見渡し、積んであった鍋を持ってクラヴィスの後を追う。
「馬鹿野郎っ!! 子供が無茶しようとすんじゃねえっ!!!」
先程よりも早いスピードで距離を詰めてくる前方の『ソードベア』に向かっていく少女たちに、九郎は怒声を上げながら後を追う。
「レイアっ! こいつは私一人で何とかするからあなたはクロウの方へ!!」
ベルフラムが腰帯から短い杖を取り出しながら、後方の『ソードベア』に向かう。
「クロウは弱いんだから直ぐにやられちゃう!!!」
「うっせえベル! レイアっ、後ろは頼んだ!」
悲鳴のようなベルフラムの叫びに怒鳴り返しながら、九郎は前に向かって走り出す。
獣人だからかクラヴィスもデンテも、ものすごい速さで雪原を駆け、前方の『ソードベア』を取り囲むように位置取りすると、両手を地面につけ低く唸り声を上げる。
『ソードベア』は二人の少女を気に留めるでもない様子で、九郎の目の前に向かって迫りくる。
遠目に4メートル程だと思ったが、近くで見ると四本足で歩いているのに『ソードベア』の頭は九郎よりも高い位置にある。
『ソードベア』の瞳が九郎を見下ろし、笑うかのように大きく口を開く。
此れが名前の由来かと思える鋭い牙がギラリと光を反射させる。
(怖ええええええええ!!! でけえええええええええ!!!)
自分を餌としか見ていない獣の瞳孔に、震える足を一つ叩くと、九郎は後ろにいるであろうレイアに激を飛ばす。
「レイア!! しっかりベルを守ってくれよ! ガキんちょ達を守んのは大人の仕事だかんな! こんな雑魚敵とっとと片付けて手伝ってやっからよ!」
九郎の大声に刺激されたのか、『ソードベア』が大きく唸り声を上げ攻撃の仕草に入った。
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