第041話 二日の恩
「あ゛~……疲れたぁ……」
そう言うなりベルフラムはベッドに倒れ込む。その後ろから九郎が、寝入っている獣人姉妹を抱きかかえながら寝室に入ってくる。
結局、今日の『風呂屋』には老若男女合わせて50人を超える人が詰めかけた。
タダと言う響きはそれ程市民を魅了するのかと、ベルフラムは後半押しかけて来た人々を思い出して眉を寄せる。
「明日からが本番だぞ? ちゃんとできそうか?」
4人の中で九郎だけが、疲労を感じさせない様子で姉妹達をシーツの中へと潜り込ませている。
九郎とて、日に4度《ベルフラム達の風呂を入れると5度)の風呂の入れ替えと湯の用意、その他、客の捌きと右に左に飛び回っていた筈なのだが……とベルフラムは重い瞼で九郎を眺める。
「それより布が全然足らないわ……明日の朝に買ってこないと……」
「自前の手ぬぐい持ってきてる奴もかなりいただろ? 体を拭く布は明日からは持って来るんじゃねえのか?」
今日屋敷を訪れた人々の多くは、湯を使う時に必要な布は殆んどの者が持参していた。一枚銀貨3枚もする布を、まだ儲けも出ていない内から大量に用意することに九郎は難色を示す。
「最低あと5枚は必要よ……体を拭く布は持参してても、濡れた体で屋敷の中をうろつかれるのは困るもの……。あとは安いもので良いから籠ね。脱いだ服を入れる物が必要よ」
「んじゃあ、明日の朝に俺が市場で探してくっか……。ベルはクラヴィス達とその間に風呂の用意をしておいてくれや」
一瞬ベルフラムの表情が曇る。
「なんだ? 何か心配事でもあんのか? なんなら一緒に行くか?」
ベルフラムの表情の変化に目聡く気付いて、九郎が尋ねてくる。
(こんなことだから、何時まで経っても九郎に子供扱いされるんじゃない)
ベルフラムは首を振ってすまし顔に戻る。
ベルフラムは、この街に戻って来てから、否、出会ってからほぼ片時も離れなかった九郎と、少しの間だけとは言え離れる事に不安を感じていたのだが、それを九郎に知られてしまう事を癪に感じていた。
「何でも無いわ……。明日しなければならない事を少し考えてただけよ。じゃあ、九郎は午後の開店までに布と籠……あと、お昼も買って来て頂戴」
そう言ってベルフラムはシーツの中に身を沈める。
隣に寝転ぶ九郎にいつもより少しだけ身を寄せて……。
☠ ☠ ☠
「まさか廃屋に住んでおられるとは……」
馬車の中でクラインが苦悶の表情を作る。
ベルフラムが街の東にある、5年も前に打ち捨てられた屋敷いる事を掴んだのは今朝の事だ。
家臣の一人が調べた情報によると、街中で噂になっている『風呂屋』と言う店が打ち捨てられた廃屋に現れたという。そしてそこの従業員と思われる少女が赤い髪で緑の瞳と、ベルフラムの外見に酷似していたという。
急ぎ、従者とメイド、レイアを伴い今は廃屋と化してるであろう屋敷へと向かっている。
この事が市民に広まれば――クラインは腹部を抑えながら、ベルフラムの事を考える。
「お爺様……」
目の前に身を固くして緊張の面持ちで孫娘のレイアが座っている。
どうしてもベルフラムが屋敷を出て行った本質的な原因が分からず、仕方なくその原因の一端であるレイアとクラインが、ベルフラムに謝罪して屋敷に戻ってもらう算段だ。
「どうにか姫様の怒りが静まるよう、謝るしか方法が思い浮かびません。私めとレイアでなんとか姫様の機嫌を直して頂けるよう努めましょう……」
クラインはそうレイアに告げると自身も表情を引き締めた。
(多少手荒になってでも戻って頂かなければ……)
クラインは焦る気持ちを隠すように馬車の外へと視線を向ける。
石畳で舗装された道は途切れ、むき出しになった土が馬車の車輪を跳ね上げる。
しばらく激しく揺られる馬車の中に沈黙が訪れる。
やがて馬車が止まる。
クラインは、静かに襟元を正すと馬車を降り、一瞬息を飲む。
クラインの目の前には朽ち果てた小さな屋敷が佇んでいた。
屋根は所々崩れ、壁には弦がからまり、本当に人が住んでるのかと疑いの念が込み上げてくる。屋敷の横には洗濯物なのか大きな布が幾枚も干されており、人が住んでいる事は確かなようだが……。
(このような場所に本当に姫様が?)
そう思わずにはいられない程酷い屋敷に、レイアも息を飲んでいた。
クラインはレイアを伴い屋敷の扉に近づくと緊張の面持ちで扉を数度叩く。
暫くして屋敷の中から人の気配がし、軋む音を立てながら扉が開く。
「まだ開店前よ! 昼を過ぎてからいらっしゃい!」
扉から顔を出した赤い髪の少女――ベルフラムを見て、クラインは一瞬自分の目を疑う。
赤い髪の少女は確かにベルフラムなのだが、髪の毛は汚れた布で纏められ、ドレスも薄汚れており、手には箒を持っていた。
その姿はまるで場末のメイドの様であり、およそ貴族の令嬢のする格好とはかけ離れていた。
ベルフラムの姿に眩暈を覚えるクラインだったが、その口から出そうになる戸惑いの声を飲み込むとベルフラムに恭しく礼をする。
「姫様……お探ししておりました……」
「!! ……クライン……」
一瞬呆気に取られていたベルフラムだったが、その緑の瞳に瞬時に警戒の色が浮かぶ。
クラインは慎重に言葉を選びながらベルフラムに深々と頭を下げる。
横に伴っていたレイアも慌ててクラインの後に続いて頭を下げる。
「姫様。
「姫様、私もクロウ様を悪しざまに言った事を深く反省しております。何卒、機嫌を直しては頂けないでしょうか?」
ベルフラムは深く頭を下げたクラインとレイアを一瞥すると、子供とは思えない冷たい声でクラインに問う。
「私は言ったわよ、『私の英雄を馬鹿にする者達と一緒に暮らす事など出来ない』と……。ならクライン。お前は私がクロウのものだと認めるの?」
「――――それは………、」
クラインは言葉に詰まる。
ベルフラムは貴族の娘。もうすぐ許嫁も決まる身だ。
どこの誰とも分からぬ輩のものになるなど、認める訳にはいかない身分だ。
クラインは額に流れる汗を拭いながら、必死にベルフラムの説得にかかる。
「ですから、それは……アルフラム公爵様の指示を仰がねば……姫様もお判りでしょう? このような場所にアルフラム公爵閣下の令嬢が住んでいると知れたら、レミウス家の名が地に落ちてしまいます」
途端、ベルフラムの瞳が極寒の冷気を帯びた気がした。
――これか――クラインは自分の主人の逆鱗にやっとの事、気が付いた。
ベルフラムは理由は分からないが、家名を気にするクラインに怒ったのだと。
しかし、一度口に出した言葉は戻す事などかなわない。
「姫様も、この様な屋敷におられますと、凍えてお体に障ります。食事だって儘ならない筈です。行方不明になられた時の姫様の様な、痩せ細った姫様に戻ってしまわれたら大変でございます」
なんとかこの屋敷を離れるようにと、クラインは言葉を選びながら訴える。
しかし、ベルフラムは極寒の瞳を細めると、意に返さない口調でクラインに答える。
「あら、クライン。あなたはここの情報を知らずに来たの? この屋敷はアルバトーゼの街の中で一番暖かな場所よ? お湯に体を沈める経験などしたこともないでしょう? それに食事もきちんと取っているわ。ここでの食事は屋敷よりもずっと美味しいもの。これで心配事はなくなった? ならとっとと屋敷に帰りなさいな」
突き放すような言い方で、ベルフラムはクラインを追いやる。
「このような場所で取れる食事が、屋敷の料理より美味しいなどと! 姫様! 変な意地を張るのは、もうおやめくださいっ!」
堪り兼ねたようにレイアが声を上げる。
「そう……レイアはその年でまだ贅を凝らした料理が美味しいと思ってるのね? なら一度屋敷の食堂で一人で食べてみなさいな。――何の味も分からなくなるから……」
ベルフラムはレイアの言葉を鼻で笑うと冷たく吐き捨てる。
埒が明かない――クラインは、ベルフラムがこの場所を離れる気が全く無い事を悟ると、最後の手段に打って出る。
クラインはベルフラムの腕を掴み強引に引っ張る。
ベルフラムが短い悲鳴を上げて抵抗の意を示す。
「クライン! クライン・ストレッティオ! 離しなさいっ!」
「姫様! 後でどんな叱責も受けます! ですから一度屋敷にお戻りください!」
もみ合うように激しく体を離そうとするベルフラムをクラインは意に介さず、ベルフラムの腕を掴み外へと連れ出す。
「やめなさいっ! 痛いっ! ……助けて……」
――クロウ……ベルフラムが、今は買い物に出かけていて、いる筈の無い九郎の名を叫ぼうとした瞬間。
クラインの視界は、こちらに向かって走り寄って来る小さな影を捉えた。
――子供?
クラインが目を瞠る。
走り寄って来る影は小さな子供だった。
仕立ての良いメイド服を着た小さな少女。
「ベルフラム様!!」
少女は大声でベルフラムの名を叫ぶと、クラインに向かって飛びかかった。
いつものクラインであれば即座に切り捨てる事が可能だっただろう。
しかし、飛びかかって来たのが子供であった事、効き手でベルフラムの腕を掴んでいた事、少女がベルフラムの名前を叫んだ事、その少女のスピードが予想を遥かに上回って速かった事。いくつもの要因が重なり、クラインの反応が僅かに遅れる。
「ぐっ!!」
飛びかかってきた少女はクラインの腕に飛びつくと手に咬みついてきた。
鋭い痛みと共にクラインのベルフラムを掴む手が緩まる。
「!! お爺様!? ―――きゃっ!」
レイアが瞬間腰の剣に手を伸ばし、クラインに加勢しようとしてそのまま横に吹っ飛ぶ。
先程飛びかかってきた少女よりさらに小さなメイド姿の少女が、レイアに体当たりしたのをクラインは眼の端に捉えていた。
少女はレイアに体当たりした反動を使って、ベルフラムの方へと飛びつくと、ベルフラムの服の襟元を咥えて飛び
小さな少女が、同じ少女と言えど、自分より大きなベルフラムを咥えて大きく飛び
二人のメイド姿の少女はベルフラムを守るようにクラインとレイアの間に身を置くと、両手を地面に付いて唸り声を上げる。
メイド服の腰辺りから、毛先立った尻尾の様な物がピンと立っていた。
「――まさか………獣人………?」
クラインは驚愕の声を上げる。
クラインも獣人自体は知っている。何度も冒険者として見かけたこともある。
だが、どの獣人も粗野で野卑な風体をしており、メイド姿の獣人など見たことが無い。
そもそも獣人蔑視の強い貴族社会で獣人をメイドにするなどとは考えも及ばない。
二人の少女の格好が、貴族の社会そのものを侮辱しているように感じ、クラインは腰の剣に手が伸びる。
「やめなさい、クライン! 私の家臣に手を出さないでっ!」
「獣人風情を家臣などと! 姫様はいったいどれ程レミウスの名を汚すおつもりか!?」
ベルフラムの言葉に、クラインは腰の剣を抜き放つ。
主人であるベルフラムが言ったセリフはクラインのみならず、レミウス家に仕える全ての家臣を獣と同等に見ることと同義である。
クラインは腰の
「クラヴィス! デンテ! 逃げなさい! あなた達では敵わないわっ!!」
クラインが殺気の籠った眼を見せるや、ベルフラムは悲鳴のような声で二人の少女に命令する。
ベルフラムの命令に二人の少女がビクッと身を竦ませたのが分かる。
(逃がすつもりはありません。……レミウスの名を汚す者は……)
クラインが剣呑な目つきで二人の少女を睨んで、その動きを予測する。
二人の少女は未だ頭を低くし、喉の奥から威嚇の声を上げクラインを睨む。
「
獣人の少女の一人がベルフラムの命令にすぐさま意を唱える。
「私がいたら逃げ切れないわ! 心配しなくてもあなた達はクロウが何とかしてくれるからっ!!」
「
ベルフラムの続く言葉に小さな少女が駄々をこねるように首を振る。
「たったの2日の恩なんて忘れてしまいなさい!」
ベルフラムの悲鳴の様に絞り出された声。悲痛なベルフラムの叫びに、少女がクラインを睨みながらも訴えるように語る。
「お腹一杯食べたのは初めてでした! 温かいお湯に入った事も、髪を洗ってもらった事も、ベッドで寝た事も、服を着た事も無かったんです!」
ベルフラムの顔が歪んで行くのがクラインからも見て取れる。
少女の言葉にクラインは苛立ちをさらに強くする。
――服を着た事もないとはまさに獣ではないか――と。
「優しくされた事も、頭を撫でてもらった事も、全部全部初めてだったんです!」
クラインの苛立ちを他所に、少女は静かにベルフラムに語り続ける。
「最初はいつの間にか死んじゃったんだと思ってたです。死んじゃって天国に来たからって……」
「だからっ! 天国みたいな暮らしも、クロウが全部引き継いでくれるわよ!」
「でも私達を拾ってくれたのはベルフラム様です!」
ベルフラムのかすれた声が少女の強い口調に遮られる。
ベルフラムの瞳に涙が溜まる。
「大丈夫よ! 私は殺されたりはしないのよ!? あなた達が命を掛ける意味なんて無いわ!」
ベルフラムは尚も逃げようとしない少女たちに最後の頼みとばかりに訴える。
しかし、その訴えにも少女たちは逃げようとはしない。
「でもベルフラムしゃまがいないと
「だから……私達は……私達の
少女達の体から、獣と違った殺意が膨れ上がっていた。
得物を狩る為の殺意では無く、何かを守ろうとする敵意。
クラインは目を細めて、少女達に剣を向ける。
「獣風情と言った言葉は否定しましょう。獣は自らに勝るものに牙は向けない……貴様らは……獣以下だっ!!」
その言葉と共にクラインの剣の先が消えていた。
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