第019話 一瞬先の闇
ズズズ
大地が揺れる様な感覚に九郎は眼を覚ます。
馬車での旅も8日目を過ぎ、道中も平和そのものだ。
初めは戸惑った馬車の揺れも、慣れてしまえば心地よい揺り籠へと変化する。普通であったら尻の皮が捲れる気もするこの世界の馬車であろうとも、『不死』であり、
(地震か…?)
秋口の穏やかな気候も合わさって、眠ってしまっていたようだ。
九郎は、まだ焦点の合わない目を擦ろう右手を擡げ、ふと腕に重さを感じ右手を見る。
「………………何やってんだよ、ベルフラム……」
「あ……」
右手の人差し指にベルフラムが吸い付いていた。
決まりが悪そうにベルフラムは顔を赤くし、慌てて両手をブンブンと振る。
「いやっ……あのね? 今日の分が……昨日より少なかった気がしたのよ! だからまだ残ってるんじゃないかなって……」
必死に誤魔化そうと、赤い髪を整えながらベルフラムが答える。
ベルフラムが、九郎の指から染み出る、赤紫のサボテンの味を知ってしまってから3日。
ベルフラムは事ある毎に九郎に蜜をねだるようになっていた。
当初は、「見た目」的にマズいので断っていた九郎だったが、余りにしつこくねだるベルフラムに根負けして、一日に一回だけ、周りを気にしながら、こそこそと馬車の中で与えることになっていた。
「そうよ! 今日は昨日より少なかったわっ! だからもうちょっとだけっ!」
自分の言葉の正当性を自分で認め、ベルフラムはそう結論付けて九郎ににじり寄る。寝ている間に男の指を舐めていた事に対する気恥ずかしさが無いのか、それとも恥ずかしさより甘味への欲求が打ち勝ったのか……。ベルフラムは九郎に向き直って顔を近づけてくる。
「わかった! わかったから、もう少し小さい声で! な?」
観念した口調で九郎はベルフラムをあやす。何も
九郎が右手の人差し指に意識を傾けると、指先から透明な液体が染みだし始める。
その動作を見たベルフラムは眼を輝かせて九郎の指を咥える。
尻尾があったら、扇風機の如く振り回してるような表情だ。
「ん……ちゅぷ………………れろ………ちゅぱ……」
馬車内に響くベルフラムの短い呼吸と指を舐める音。
(たしかにあのサボテンは旨かったけどよっ! こーまでして味わいたいもんか?!? 貴族のお姫様なんだろ? もっと甘いモノも、旨いモノも、食ってんじゃねーのかよっ!)
恍惚とした表情で指を舐めるベルフラムを眺め、九郎が言いたいことを言えない苦悩に顔を歪めたその時――、
ズズン!
再び大地が動くような音がした。
「なんだ?!?」
「ちょっと! クロウ! 垂れてる、垂れてるわよっ!」
驚いて立ち上がろうとする九郎にベルフラムの抗議の声。
九郎の指が唾液にまみれて糸を引いている。
そして唾液の粘度とは違う液体が大きな水滴となって落ちそうだ。
「あーーーーーん」
最後の一口とでも言いたげに、ベルフラムが目を閉じながら口を開け舌を出す。零れないように両手を口元に添えている。
「がっつきすぎだっ!! んなに気に入ったのかよ!」
「ええ、ずっと舐めていたいわ! はいあーん」
今迄のベルフラムの返答の中で一番の返事が満面の笑みと共に返ってきた。九郎は一瞬赤面して、ベルフラムの舌に指を擦りつけ、馬車の窓から顔を出す。
「何かあったんですか?」
馬車の外を見ると護衛の冒険者達が顔を青くして遠くを凝視していた。尋常では無い様子を感じ取り、九郎は馬車から飛び降りるとバーランの元に走っていく。
「どうかしたんですか?」
九郎は再度バーランに尋ねる。
バーランは青い顔で進行方向を見ていて答えてくれない。
何があったのかと、九郎はバーランの目線の先を追う。
――――大地が裂けていた。
なだらかな丘の上から九郎が見たものは、次々と落下していく木々や岩、そして
大地の裂け目は幅100メートルは有ろうかと思うほど巨大で、うねりながら作られていくひび割れにそって、一瞬盛り上がった後、折り曲がる様に地面を飲み込んで行く。
進路上にあるもの全てを飲み込みながら地割れはゆっくりと移動していた。
「『
零れ落ちるように、バーランの口から出た単語に、九郎はもう一度聞き返す。
「何なんですか?!? ランドスウォームって!?!」
九郎の問いに答える代りに、バーランはまだ崩れていない地割れの先を指さした。
「?? ………山?」
バーランが指し示した方向に大きな山があった。
何が言いたいのか解らぬまま、目を細めてその山を良く見る。
―――山が波打つように動いていた。
大地を泳ぐように、その山は地上と地中を行き来している。
その軌跡がひび割れと化し、大地の崩落を招いている。
「なんなんすかっ!! あれはっ!!!」
九郎が大声で山を指さしながらバーランに尋ねる。
「『
バーランは仲間の冒険者に急ぎ声を掛けて、進路を変更するよう叫んでいた。
九郎も慌てて馬車に乗り込むと、御者台で目を丸くしていた御者に此処から離れる事を伝える。
「何があったのよっ!?」
馬車に戻った九郎にベルフラムが心配そうな眼を向けていた。
「わかんねえけど、ランドスウォームって化け物が出た! 地面がひび割れて崩壊してやがる。急いで離れねえとやべえ!!!」
速度を速める馬車の揺れに耐えながら、九郎が矢継ぎ早に答える。
ベルフラムもランドスウォームを知っていたのか青ざめた表情でベッドのシーツを掴む。
「なによ! 災害級の化け物じゃない!? 後少しで帰れるってのになんでよっ!」
「どのみちあの地割れじゃ、迂回しなきゃどうしょうもねえよ! いいから何かに捕まってじっとしてろ!」
涙目で不満を叫ぶベルフラムに、九郎も語気を荒げながら答える。
1時間ほど経っただろうか。
馬車が速度を緩める気配に、九郎はほっと胸をなで下ろす。
辺りに夕闇が満ちてきて、西日が窓から差し込んで来る。
後続の馬車も追いついたのか、馬の嘶(いなな)きが後方から聞こえてくる。
「なんとか……なったのか……?」
九郎が外を見ようと顔を上げたその時。
ズズズズズズズズズズズズズズズ
再び激しい揺れと共に馬の狂ったような
下りのエレベータに乗った感覚――。そして雷の様に大音響で響き渡る恐ろしい音。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」
「やばいっ! 地割れに飲み込まれた!?!」
ベルフラムの甲高い悲鳴が響く。メキメキと音を立てはじめた馬車の屋根に、九郎はとっさにベルフラムを引き寄せると、覆いかぶさるようにして体を丸める。
ベルフラムが腕の中で悲鳴を上げつづけている。人は恐ろしさを感じた時、本能的に体を丸めるものなのか。頭を手で庇い、膝を丸めて蹲るベルフラムに、ふとそんな感想が頭を過る。
しかし体を小さくするのは正解だ。九郎は小さくなったベルフラムに覆いかぶさり痛みに備える。
備えた途端、ガスッと重い音がして、九郎の左肩が潰れた。屋根を突き破って飛び込んできた何かが、九郎の肩を砕いていた。
(くそっ! 速攻で『再生』させねえとベルフラムも潰れちまうっ!!)
赤い粒子を傷口から噴き出し、九郎は体を再生させる。岩が、木が、馬車の屋根を突き破って九郎の背中に降り注ぐ。九郎は『再生』に集中し、それらが体を突き破る前に塞いでいく。
何時間も続いていたのか……それとも数秒だったのか。突如体が跳ね上がる。
「いでえっっ!!」
跳ね上がった衝撃で後頭部をしこたまぶつけ、九郎は呻く。
がらがらと土砂が崩れる音を聞きながら、落下が止まった事を知って九郎は大きく息を吐く。
ベルフラムが腕の中で震えているのを感じながら、九郎は耳を澄まして周囲を伺う。
ガラガラと土砂が落ちる音が聞こえる。目を凝らしても何も見えない。闇の中でベルフラムの嗚咽の声だけが響いている。
「……大丈夫か?」
「……大丈夫……じゃ……ないわ……」
恐る恐る問いかけた九郎の問いに、ベルフラムはしゃくりあげながら答えてくる。
「!! 何処か怪我してんのか!?!」
九郎は慌ててさらに問う。体を突き貫けた岩は無かった筈だが、見えないことが不安を煽る。
「怪我はしてないわよっ! でも怖かったのよっ! 死ぬかと思ったわよ! 大丈夫な訳ないじゃないっ!!」
極限の恐怖からか、緊張が緩んだからか、ベルフラムは怒ったように涙声でがなっていた。耳元で大声で叫ばれ九郎は眉を寄せる。
「俺も生きた心地がしなかったぜ……。まあ、無事ならそれでいい」
これだけ喧しかったら、怪我をしていないのも本当なのだろう。九郎は胸を撫で下ろして優しく言いやる。
「余裕ぶらないでよ! 弱いくせに!」
それに対してベルフラムは、恐怖に混乱しているのか、理不尽な罵りの言葉を返してくる。
「弱いのは関係ねえだろう……」
九郎はますます眉を下げてぼやく。
「だって……」
ベルフラムが言い訳しようと顔をあげる。その額にポタリと水滴が落ちた。
一瞬の沈黙が流れた後、ベルフラムの怒気が緩んだ気がした。
「なによ……あなたも怖かったみたいね……。男なのに泣いちゃってさ……」
先程までとは打って変わって優しい声色。ポタリ、ポタリと顔に掛かる水滴にベルフラムが少し笑ったようだった。
「馬鹿言ってんじゃねーよ! 男が怖くて泣くわきゃねーだろ? 汗だよ! 汗! ――まあ、すっげービビったのは確かだけどなっ!!」
九郎は、お互いの顔も見えない暗闇に安堵しながら、血まみれの顔で笑って答えた。
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