四十

 午後1時半を過ぎ、美名は唯介が置いていった千円札を持って近くのマクドナルドに徒歩で行った。

  店に入ると、休日のためか幼い子供を連れた客で席は混雑していたので、テイクアウトでてりやきバーガーのアイスコーヒーセットを注文した。

 美名は午後からも特に予定はなかった。

 ポルターガイスト現象が原因となって理佐が離婚になるなど、想像もしていなかった。あれがきっかけとなって、破綻していた夫婦仲が奇跡的に改善した城岡家とは正反対だ。

 生きていれば、何が起こるかわからない。雷に打たれる確率も決してゼロではないし、大地震に見舞われて住むところを失うこともあるかもしれない。心霊現象にだって遭う。そしてそれらの天変地異が、家族という利害関係を伴いならがも愛憎が複雑に絡み合う関係にどのような作用を及ぼすのか、あらかじめ予想することなど不可能なのだ。

 マンションの出入口まで戻ってきた。テイクアウトの袋の口の隙間からは、フライドポテトの油とてりやきソースのにおいが漂ってくる。

 マンションの前に、ふたりの男が立っていた。手前にいる男は身長が高く、手に高級そうなカメラを持っている。その向こうには、小柄で丸刈りの、白のポロシャツに紺色のパンツを履いた男が、手にタブレット端末のようなものを持って、マンションを見上げている。

 何かの調査だろうか、と思ってそのふたりの横を通り過ぎようとすると、小柄な男が美名に近寄ってきた。

「あの、すみません。ちょっといいですか。このマンションにお住まいの方ですか?」

 あまりにも男が不躾に近寄ってくるので、美名は一歩後ずさった。

「そうですけど……」

「わたし、週刊文潮の記者の渡辺と申します。このマンションのことで、ちょっと取材してまして。よろしいですか?」

 これまで雑誌の取材など受けたことのなかった美名は、この渡辺という記者が立ちふさがるように目の前に移動してきたため、思わず立ち止まってしまった。

 記者は美名にかまわず続ける。

「あの、インターネット上でこのマンションが違法建築だという内部告発があったということですが、ご存知でしょうか?」

「あ……」

 いつか見た、匿名掲示板のあの書き込みを即座に思い出した。マンションの3階でいろいろとややこしいことがあったため、すっかり忘れていた。

「ご存知なんですね?」記者がもう一度聞いた。

「え……、ちょっとだけ、見たことは有りますけど……」

「マンションのほかの住人の方はどうでしょう。何か、マンションの所有者や住人のなかで、ウワサになってることはあるでしょうか?」

「……知りません」

「あなたの部屋の所有者は、あなたのお父さん?」

「え、いえ。たぶん名義は両親の共有名義になってると思いますけど……」

「購入を決めるとき、何かおかしなことはなかったですか? できれば、お父さんかお母さんにも取材の協力を願いたいんですが、今おうちにいらっしゃいますか?」

 記者があまりに威圧的に質問をぶつけてくるので、美名は、

「すみません」と言って逃げるようにエレベーターのなかに駆け込んだ。エレベーターの中までは記者は追ってこなかった。

 部屋に戻って、テーブルの上にマクドナルドの紙袋を置いたが、食欲は完全に消えてしまった。

 週刊文潮と言えば、コンビニや駅でも必ず販売している有名な週刊誌だ。芸能人の不倫ニュースを頻繁にスクープするので、買ったことはないものの美名もその雑誌名は頻繁に目にする。

 以前に図書館にこのマンションが建っていた地域を調べに行ったことを思い出した。このあたりは前は田んぼと古い戸建てが建っていて、その前は川だ。

 マンションの購入は、新築の10年前。真子が唯介との再婚を決めて、新たな新居としてここに引っ越してきた。当然、もう新築とは呼べない。廊下のコンクリには老人のシミのような斑点がぽつぽつと生じ始めているし、外壁の色も経過年数を示すように微かにくすんで来ている。

 美名にとっては10年前のマンション購入に関することなど、知る由もない。このマンションがどのように建築されたのかなど、ただの購入者である真子も唯介も一切知らないだろう。

 しかし週刊誌が何かを嗅ぎ付けたとなると、遠くない将来、何かスキャンダルが出るに違いない。

 冷めたてりやきバーガーと、しなびて放物線状に曲がっているポテトを無理に食べながら、スマホでずいぶん前に見た内部告発の書き込みを、ブラウザの履歴を辿って再び表示させた。


 レス番号190

 >>190

 それじゃ、ヒントだけ。

 テ○○○○○スY

 Yは地名ね。

 もうほとんどバラしちゃったみたいなもんだな。

 これで書き込みは最後にする。それじゃ。


 ワンフロア4部屋で5階建て。X県R市のテンレジデンス山之井。

 ポルターガイスト騒動があったため、努めて忘れようとしていたが、これに該当する物件が果たして日本中でほかにあるだろうか。やはり、このマンションには何か問題あるのだろうか。

 午後5時前に、唯介がスーパーの買い物袋を両手に持ってファミレスのパートから帰ってきた。

 唯介は「ただいま」と言った後、美名の姿をリビングに見つけると、すぐに続けて、

「なんかね、表に変な人いたの、知ってる? 週刊誌の記者らしいんだけど、違法建築のマンションの調査をしてるとかなんとか……。何を調べてるのか知らないけど、迷惑な話だなあ」と言った。

「ここ、違法の建物なの?」

「そんなわけないでしょ。ちゃんと行政がチェックしてるはずだし。デベロッパーも、当時やり手の社長として有名になってた『テンリアルエステート』ってベンチャー企業で、今は業態を金融のほうにも広げて営業してるはず。心配ないよ」

「そう?」

 玄関が開いて、「ただいま」という声が聞こえてきた。

 教習所から宏司が帰ってきた。宏司は唯介に、

「何か飲み物ある?」と聞いて、教習所の学科の教科書が入ったバッグをダイニングテーブルの椅子の上に置いた。

「麦茶でいい?」

「うん」

 宏司は唯介が用意した麦茶を一気に飲み干した。

「どうだった?」と唯介が問う。

「ダメっぽい。やっぱり高校中退だと、どこも門前払いみたい」と恨み言のように言った。

 もう間もなく、宏司は教習所通いは終わる。教習所での学科試験も一回でパスして、路上教習をあと5回残すのみだった。

 その後に働く先を探して、何度か求人の面接にも行ったらしいのだが、たとえバイトの短時間労働でも、高校中退の引きこもりだった宏司を労働者として欲しがる事業者は一社も見つからなかった。

 先日街の中心部に近いところにあるガソリンスタンドに面接に行ったときなどは、一見人が良さそうな店長から面接という名の糾弾を受けることになり、ひたすら宏司の人格を攻撃する言葉を2時間近くに渡って投げつけられたらしい。

「採用されない理由が、これまでどこにも採用されず働いたことがないっていうんじゃ、永久に無理だよなあ」怒りと悲しみが混ざったように、宏司は言った。

「残念だったけど、気楽に探せばいいよ。何なら、大検を受けて大学受験してもいいんだから」唯介が言った。

「うん」

 宏司はダイニングテーブルの上に空になったコップを置くと、逃げるかのように自室に入って行った。

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