三十九
6月が終わり7月に入ったが、梅雨はまだ明けない。6月中が例年よりも降水量が少なかったのを埋めるかのように、7月に入っても雨の日が続いた。
お祓いをした次の土曜は、朝方まで雨が降っていたが、午前7時には止んでしまった。
”今日やっぱり試合あるみたいだから。ごめん"
8時過ぎたときに、園田からそんなメッセージが届いたため、デートは中止になった。
「お昼ちょっと用意できなかったから、なんか好きな物これで食べて」
唯介はそう言って千円札を一枚ダイニングテーブルの上に置くと、ファミレスのパートに行ったので、美名は自宅のなかでひとりになった。
真子は朝早く仕事に行った。宏司は自動車教習所に行った。
宏司は教習所の帰りにときどきハローワークに行って求人案内を見てくるようになったらしく、ハローワークで配布している黄色い紙の求人一覧のビラを持って帰ることがあった。高校を中退して長く引きこもり生活をしていた宏司にとっては、職を求めるのは大きなハンデがあったが、本人は「なんとかなるだろう」と楽観的な見通しを持っていた。
何もすることがないので、リビングのソファに寝そべって、テレビを見ながらドライフルーツをつまんでいると、スマホがメッセージの着信の音を鳴らした。
”美名ちゃん、今家に居る? ちょっといい?”という理佐からのものだった。
”だいじょうぶですよ。どしたんですか?”
”もし迷惑じゃなかったら、ウチに来てくれない?”
”はい。今すぐ行ったんでいいですか?”
”うん。お願い”
いったい何の用だろう。そう思いながら、美名はテレビを消して301号室に向かった。
インターホンを押すと、閉じたままのドアを隔てた向こう側から、
「入ってきて。急にごめんね」と理佐の声が聞こえてきた。
「おじゃまします」
玄関でサンダルを脱ぎ、リビングに入った。
台所で理佐が、氷の入ったコップに緑茶を注いでいた。
「今日も、暑いわね。急に、ごめんね」理佐はもう一度言った。
理佐は赤いノースリーブのワンピースを着ている。
「あ、いえ。どうせ暇でしたから」
理佐がソファを指さして、美名に座るよう促した。
ガラステーブルの上に、緑茶のコップが置かれた。
「ありがとうございます」と言って美名は一口飲んだ。
美名の正面に座った理佐は、意味有り気なわざとらしい大きなため息を吐いた。いつも快活な理佐にとっては、あまり似合わないような振る舞いだ。
「どうかしたんですか?」
理佐は少しのあいだ、じっとテーブルの一角を見つめていたが、やがて開いた口からは、意外な言葉が出てきた。
「あのね、わたし近いうち、ここ出ていくかもしれない」
「え、それって、どういう……お引っ越しされるんですか?」
「いやあ……」
そう言ったきりまるで言葉を失ったかのように少しのあいだ黙っていたが、やがて顔に苦笑を浮かべながら、
「離婚するかも」とあっさり言った。
「え、いきなり……。なんで、ですか?」
歳の差のある夫婦だということは知っていたが、理佐とはよくしゃべるものの、その配偶者である鷺宮英一郎のことはほとんど知らない。たまに廊下やエレベーターですれ違うくらいで、会話を交わすこともなかった。出張や留守にしがちなのが多いようだが、どんな職業に就いているのかも知らないし、聞いたこともなかった。
「あのね、ついこないだのポルターガイスト騒動、あったでしょ? 直接の原因はそれだと思うんだけど」
理佐と英一郎が意見対立していることは美名も知っていたが、あれ以降も英一郎は理佐の訴えをまったく相手にせず、それどころかモラルハランスメントまがいに頭がおかしいやつ呼ばわりを繰り返し、ひどく罵られたことなどを、自虐的な嘲笑を浮かべながら美名に説明した。
「まあ、決定的だったのは、霊能力者の須磨さんに大金を支払ったのを、めちゃくちゃに否定されたことかな。実際、美名ちゃんとこもあれ以来、何も起こってないんでしょ? だから結果からみれば、効果があったってことになるんだけど、ウチの旦那はそもそもそういう怪奇現象は全く経験してなかったし……、というか仕事であんまり家に帰って来てなかったんだけどね。だから須磨さんにお祓いしてもらったのが完全に無駄な行為に思えたらしくて。わたしが独身時代に作った貯金から出したんだから、別にいいじゃない、と言ったんだけど、今度はカネの使い方を知らないバカな女だ、なんて言われてね」軽い口調でそう言いながら、理佐は涙ぐんでいた。
美名が黙っていると、理佐はさらに話を続ける。
「自分で言うのもおかしいけど、それまではずっと仲良かったのよ。だから、あれがきっかけね。……いや、今思うと最初から、こうなる気がしてたかもしれない。わたしは初婚だったけど、あの人はわたしとの結婚が三回目で、わたしより少し若いくらいの子供がふたりいるんだけど、結婚を決めた当初からその子供たちに、カネ目当てだのなんだの言われて。わたしの両親にも、そんな年上の男はやめろと強く反対されて、わたしも意固地になったからほとんど絶縁状態になっちゃったし……。やっぱり、たぶん最初から無理があったのよ、自分でも気づかないふりをしていただけで。あの怪奇現象がそれを気づかせてくれたのね」
「そう、ですか……」
コップの中に入っていた氷が解けて、カランという音を立てた。その音が静かな部屋のなかに、不自然なくらいに響いた。
「せっかくお祓いしたのに、出ていくんじゃ無駄になっちゃったなあ」虚空に向かって、理佐は言った。
「ご主人は、その後もここに住み続けるんですか? それともどこかに引っ越しされるんですか?」美名がそう訊くと、
「知らない」と理佐は短く答えた。
もうふたりの仲は修復できないくらいに決裂している、と美名は察した。
「ごめんなさい、へんな話して。でも誰かに聞いてもらいたくても、ほかにも誰もいないから。正式に決まったら、またお知らせするわね。もう少しはここに住んでると思うから、それまではよろしくね」
理佐はそう言うと、手を伸ばしてきて、美名に握手を求めた。美名はその手を軽く握った。
「あ、そういえば!」手を離すと、理佐が叫ぶように言った。
「なんですか?」
「美名ちゃん、彼氏できたでしょ」
理佐は打って変わってニヤついた表情になった。
急にそんなことを言われたので、なんと答えていいかわからず戸惑っていると、
「この前偶然だけど、彼氏と一緒にいるとこ、見ちゃったのよ。すっごいかっこいい男の子じゃない。美名ちゃんもなかなかやるわねぇ。でも、自転車の二人乗りはしちゃダメよ」
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