三十八
月曜の朝、お祓いの日。午前8時過ぎに霊能力者の須磨はマンションにやってきた。
前に来たときは打って変わって、まるで時代劇の武士が切腹するときのような白装束に身を包んでいる。手には、何が入っているのかわからないが、かなり膨らんだボストンバッグを持っていた。
前に来たときのスーツ姿では普通のサラリーマンのようだと思ったが、白装束を見ると印象が一気に変わった。まるで、超自然的な力を持っている異界からやってきた存在のように感じる。
「301号室から順番に、ひとつずつお浄めいたしますので、少々お待ちください。最後になる城岡様には、長くお待たせすることになるかもしれませんが、ご容赦ください」須磨は共有部分の廊下でそう言い、頭を下げた。
「だいたい、何時くらいになるでしょうか?」と唯介が尋ねると、
「おそらく早くても午後になると思います」と須磨は答えた。
須磨はもう一度深く頭を下げて、理佐とともに301号室に入って行った。
「ずいぶん、本格的だなあ」宏司が須磨のいで立ちを評して言った。
「午後からになるんだったら、午前中だけでも仕事に出ればよかったわ。無理に言って休みもらったのに」と真子が言う。
唯介が真子をなだめるように、
「まあ、待つしかないよ。こっちが須磨さんに頼んで早くしてもらったんだし」と言った。
「そうね……」
午後二時を過ぎ、日が少し傾き始めたころに、須磨はようやく305号室にやってきた。
301号室と302号室でのお祓いを済ませて、疲労が溜まっているのか、半日経たないうちに少しやつれたように見える。
「お待たせいたしました。それでは、始めさせていただきます」
須磨が深々と頭を下げると、唯介が、
「お願いします」と言ってお辞儀をした。
真子と宏司と美名も、続けて礼をする。
「こちらの、ソファ移動してもよろしいでしょうか。床に座った状態でお浄めの儀式をいたしますので」
「あ、はい。大丈夫です。宏司くん、そっち持って」
唯介と宏司がソファを担いで、窓の手前まで持って行った。リビングのテレビ台の前から台所のテーブルまでの空間が空いたので、ずいぶん広くなった。
「あ、美名ちゃん。わたしの部屋の押し入れにあるから、座布団持ってきて」
「うん」
真子の部屋に入り、美名は座布団を五枚持ってきた。それを一枚須磨に足元に敷いて、
「どうぞお座りください」と言った。
「あ、これは、ありがとうございます。失礼いたします」
須磨のすぐ背後に唯介と真子が座布団を敷いて正座し、その後ろに宏司と美名が並んで座った。
須磨はボストンバッグのファスナーを開けると、糸で綴じた古めかしい本と、ひとつの玉が二センチほどはありそうなゴツゴツした数珠を取り出した。
「それでは始めさせていただきます。お浄めというのは、形式ではございません。とにかく、お鎮まりいただくよう、祈る気持ちのみが大事でございます。わたくし、これから2時間あまりほど、お経のようなものを唱えさせていただきますので、皆様もご一緒にお祈りくださいませ」
両手で手に持った数珠をこすり合わせるように合掌して、じゃらじゃらと音を立たせる。
「ノウマウサンマンダバザラダンカン、ノウマクサンマンダバザラダンセンダンマカロシャダソハヤタヤウンタラタカンマン……」
喉を締め上げたような掠れた声で、須磨が何かを唱え始めた。
美名は思わず宏司の顔をちらと見た。兄は目を閉じて、微動だにしない。何かを祈っているようにも見えた。
須磨は時折り咳き込みながらも、ときに数珠を持った手を上に振り上げるしぐさをしながら、ひたらすお経を唱え続けている。
美名と宏司はしびれる足を何度か左右に動かしたりしながら、正座のままその様子を背後から眺めていた。唯介は開始30分後くらいには足を崩して胡坐になった。
1時間40分ほどが経過して、
「クシャティガルバ オンカカカビサンマエイソワカ オンカカカビサンマエイソウワカ オンカカカビサンマエイソワカ」
うなるようにそう唱えると、須磨はその場に崩れ落ちるように前のめりになったが、すぐに上体を起こしてこちらに振り向いた。
額からは汗が玉になって噴き出していて、頬を伝って汗の粒がひざの上に落ちている。
「以上で、終了となります。ありがとうございました」そういって床に手を着くと、きれいなお辞儀をした。
「ありがとうございました」唯介が頭を下げた。
須磨はバッグのなかから黄色いタオルを取り出すと、汗をぬぐい始めた。
「何か、お飲み物でも……」と唯介が言うと、
「いえいえ、けっこうです。お気持ちだけいただきます」さっきまでとは一変して、明るい声で言った。
真子が立ち上がり、台所の引き出しから封筒を持ってきて、それを須磨の前に差し出す。
「どうぞ、お納めください」
「ありがとうございます。頂戴します」
須磨は相撲取りが手刀を切るようなしぐさをしてその封筒を受け取り、バッグのなかに入れてファスナーを閉じた。
「前にも申し上げましたとおり、こちらの障りを起こしている原因となるものは、それほど強くはなく、ただちに影響があるようなものではございませんでしたが、皆様のご要望により、お浄め差し上げました。おそらく本日以降、これまで起こっていたような現象は止むでしょう。人が人を恨んだり憎んだりする念こそが、最も怖ろしい障りの原因となります。皆様がご先祖様への感謝の気持ちを持ち、ご家族が助け合って日々平和に仲良く生活していくことが、何よりでございます。それを肝にご銘じくださいませ」
須磨はずっと正座していたにも関わらず、その場にさっと立ち上がると、ボストンバッグを手に持った。
「それでは、失礼させていただきます。ありがとうございました。また気になることがございましたら、ご連絡ください」
見送る間もないまま、部屋からさっと退出した。
須磨が居なくなってから、四人はしばらく顔を見合わせていたが、
「どうしよう。吉田さんのとこにでも行って、あっちではどんな様子だったか聞いてみようか」唯介が言った。
「まあ、そこまでしなくても……。でも、鷺宮さんと吉田さんに、『終わりました』とだけ報告はしとくべきよね」
「じゃ、行ってくるよ」唯介が立ち上がって、玄関のほうへ歩いていく。
「あ、そうだ」
美名は自分の部屋に入ると、莉乃から預かったレイガーカウンターを学校のバッグから取り出し、リビングに持ってきた。
「それがもしかして、霊の強さを測る機械ってやつ?」
真子と宏司が興味深げにレイガーカウンターを見た。
「うん。お祓いが終わったら測ってみてって、莉乃が貸してくれたの。ちょっと、動かしてみる」
計測をガンマ波に合わせて、電源を押した。液晶は「0.00」を示したまま、一切動く様子がない。
「え? ウソ」
少しくらいは数値が小さくなっているだろうか、などと思っていた美名にとって、あまりにもあっけなくゼロとなったため、むしろ拍子抜けしてしまった。
宏司も真子も怪訝な顔をする。
「それ、本当に効果あるの?」と宏司が言った。
「本当だよ。前は999.99だったんだよ」
「ってことは、あの須磨さんの力で祓われたってことかしらね。……実際はどうかわからないけど、そう信じることにしましょう」真子が言った。
その日を境に、マンション内でポルターガイスト現象はピタリと止んだ。
マンションの外見は当然なんら変わることはない。しかし一変して心穏やかに生活できるようになった。
「やっぱり、本物の霊能力者だったのね。こんなの今まで信じてなかったけど、こうまで見せられたら信じる以外ないわ」真子がそう感想を漏らした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます