三十四


 須磨は乾いた咳払いをすると、誰を見るともなく、

「特に、問題ございません」とあっさり言った。

 一同の顔が、拍子抜けしたような、そして呆れたような表情になる。「問題ない」という日本語の意味が、なかなか理解できなかった。

「え?」と美名も声に出した。

「どういうことですか?」知子が言う。

 須磨はもう一度咳ばらいをした。

「今のままで、お祓いやお浄めなど、する必要は特にございません。気のせいでございましょう」

 三階の住人は首を左右に振りながら、互いに顔を見合わす。

 須磨は続ける。

「たしかに、こちらのマンションのすべての部屋で、軽い障りを起こす原因となるものはございます。ただ、子供の軽い悪戯程度のもので、みなさまに大きな害を及ぼすほどのものではございません。せいぜい、少々びっくりするとか鬱陶しいとか、それくらいが関の山です。ようするに、、ということでございます」

「そんな、俺なんか本棚の下敷きになったんですよ。影響、大有りじゃないですか」宏司が軽く怒鳴るように言った。

「それで、お怪我はなさいましたか?」須磨は落ち着いて言った。

「あ、いや……、ぶつけてちょっと痛かったくらいですけど……」宏司が口ごもりながら言った。

「そうでございましょう。ほかにも皆様、いろんなことを見たり聞いたりしたようでございますが、実際にはお怪我や、大きな財産的な被害などは被ってないのではございませんか? おそらく、壊れたモノなどもほとんどないはずでございます」

 一同、ここ数日間の騒ぎをそれぞれ思い出した。たしかに、須磨の言う通り、物理的な損害はほぼゼロだった。モノが散らばったり怖い体験をしたことにとどまり、誰一人かすり傷ひとつ負っていない。唯一、目に見える被害らしい被害といえば、城岡家で古い蛍光灯が割れてすき焼きを食べられなかったことくらいだ。

「それじゃ、怪奇現象を起こしてる原因はなんなんですか、昔、この場所で亡くなった人の霊とかが悪さをしてるとかですか……?」美名が言った。

「いえ、そうではございません。たしかに、強い念が渦巻いており、それが先ほど申しました軽い悪戯程度の心霊現象を引き起こしてはおるのですが」

「それは、いったい……、その”強い念”って、いったい何ですか?」真子が尋ねる。

「ですから、気のせいでございます」

 それを聞いた理佐が、須磨に詰め寄るように一歩前に出た。そして、よく通る大きな声で、

「さっきからアンタ、『気のせい、気のせい』って、何言ってるの! ぶざけるんじゃないわ、そんなんで納得できるわけないでしょう!」と叫んだ。

 美名はそれを聞いて思わず肩を縮み上がらせた。

「ちょっと、落ち着いてください」と知子が理佐を止めようとした。

 かまわず理佐は叫ぶように言い続けた。

「わたしたち、ローン組んでここを買って、毎月働いたお給料の中から借金返してるのよ。単なる借住まいってわけじゃないの。大事な虎の子の資産なのよ。わけのわからないモノにさんざん怯えさせられて、その理由が”気のせい”で納得できるわけないじゃない。もし仮に、このマンションを売るようなことになれば、大した影響はないって言っても、資産価値がガタ落ちよ。どうすればいいのよ」

 しかし、須磨は微動だにしない。

「お鎮まりください。わたくしにも語弊がございました。たいへん失礼いたしました。きちんと説明して差し上げますので、どうぞ、お鎮まりください」

 須磨は軽く頭を下げた後、自分の頬をまるで髭の剃り残しを確認するかのように撫でた。

 理佐は罰が悪くなったのか、すみません、と言って一歩下がった。

「皆様、生霊というものをご存知でしょうか。『源氏物語』に出てくる六条御息所などが有名ですが」

 それぞれ、曖昧にうなずいた。美名も、学校の古文の授業で源氏物語は少しだけ習ったが、生霊が出てくるところは授業には出て来なかった。しかし、そういうのが出てくる箇所が源氏物語のなかにあるということだけは、知っている。

「何も障りを起こすのはお亡くなりになった悪霊とは限りません。生きた人間の強い念が、ときに実体を伴って、現世に作用を及ぼすことがあるのでございます」

「生きた人間って……、誰ですか?」知子が言った。

「さあ、それはわたくしの力では見抜くことはできませんが……。でも、このようなケースですと、ひょっとしたら、皆様ご自身かもしれません」

「え? どういうことですか?」

「あまり具体的にお聞きするわけには参りませんが、こちらにいらっしゃる皆様、心に何か、表には出せないような不安や不満、強い苦しみを日々感じてらっしゃるのではございませんでしょうか」

 美名は少し俯いた。学校に行くときに履いているいつもの革靴が、足元で鈍く光って朝の光を反射している。

「ということは、わたしたち自身の生霊が、わたしたちに悪さをしてるってことですか?」理佐が言った。

「はっきりとそう断言はできかねますが、わたくしの見立ては、おおむねその通りでございます」

 誰が発したものかわからないが、どこかからため息が聞こえた。

 須磨は続ける。

「ですので、先ほど『気のせい』と申し上げました。皆様がこれから、健全な気持ちで生活しておけば、いずれ障りは収まるものでございましょう」

「でも、おっしゃる通り肉体的に直接ダメージを負ってはませんが、精神的には限界です」と宏司が言った。

 続けて唯介が言う。

「僕も有り得ないようなものを、見てしまったんですから、もう耐えられそうにありません。どうにかならないんですか?」

「もちろん、祓えないことはないんですが、あまりお勧めできません。なにせ、ただちに影響はないんですから」

「なんとかなりませんか」真子が言った。

「うーん……」須磨は目を閉じて苦り切った顔をしている。

「お願いします」と知子が言った。

 須磨はしばらく無言で何かを考えるように俯いていたが、やがで顔を上げ、射抜くような鋭い視線で一人一人の目を見た。

「かしこまりました。しかし、3部屋をお祓いするとなると、丸一日を要する作業となりますし、今日すぐにというわけには参りません。また後日ということになります」

「ほかに頼れる人がいないんです。お願いします」先ほどの剣幕とは打って変わって、理佐が言った。

「一日でも早くお願いします」唯介が言った。

「皆様、そういうことでよろしいですか?」

 須磨が一同を見渡すと、全員ほぼ同時に首を縦に振った。

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