三十一
多田の死因がおそらく自殺ということで、3階の各住人はいろいろと複雑な思いを胸に抱いたが、同時にひとつの問題が解決した。
多田と連絡が取れないことが理由で3階の各部屋のお祓いを霊能者に依頼する件は先送りされていたのだが、亡くなった人から費用を徴収するわけにもいかないので、鷺宮家と吉田家と城岡家で負担することになる。
決めるべきは、どこの霊能力者に頼むか、というひとつに絞られた。
検索してホームページを見たり、美名が莉乃から借りてきた雑誌に載ってる情報を見たりして、この問題を解決してくれそうな霊能力者や拝み屋を何人かリストアップしたものの、いったい誰に頼むのがいいのか、見当も付けられなかった。高いお金を払うことになるであろうから、効果がなかったでは済まされない。
なかなか意見の一致を見なかったのだが、ある晩、とうとうためらう一同の背中を押すような出来事が発生した。
雨の降る夜の午前1時過ぎ、「キャア!」という大きな悲鳴が聞こえてきた。悲鳴の発生源は301号室で、305号室の室内まで聞こえてきたから、かなり大きな声だった。
何事があったのかと、唯介も真子も美名も、宏司までも寝巻のまま共有部分の廊下に出た。
そこには、裸の姿にタオル一枚だけを抱くようにして身体に押し付けている理佐の姿があった。
「どうしたんですか、何かあったんですか?」と唯介が訊いた。
吉田夫妻も廊下に出てくる。
理佐はが全身をガクガクと震わせ、部屋の中を指さして、
「あれ……」と言った。
唯介はゆっくりした足取りで、301号室のなかに入った。
玄関を通り過ぎ、右手にあるバスルームの扉を開けた。出しっぱなしになってるシャワーが落ちる音が、玄関の外まで聞こえてくる。
間もなく中から「うわっ!」という叫び声が聞こえて、唯介がまるで吹き飛ばされたかように廊下に出てきて、床に尻もちをついた。
いったい何があったというのか。美名はサンダルを脱いで唯介のもとに駆け寄った。
唯介はバスルームのほうを見たままアゴを震わせ、上下の歯がガチガチとぶつかる音を立てている。
美名はバスルームのほうを向いた。
バスルームの壁に掛けられたシャワーヘッドの穴から、人間のものらしい長い黒髪が、赤い粘液とともに、生き物のようにうねりながら出てきて、落ちている。バスルームの床は、シャワーヘッドから出てきた髪の毛と粘液で一面、赤黒い何かで埋まっていた。
意識を取り戻すと、自宅のリビングにいた。灯りはついていないが、先日唯介が取り替えたばかりの照明が天井にあるのが目に入ってきた。
夢を見ていたのだろうか。なぜ自分はリビングのソファで寝ているのだろう。
上半身を起こして、壁掛け時計を見ると、すでに午前八時を過ぎている。
「あ、起きた? まだ寝てなさいね」ダイニングテーブルに座っていた真子が、美名に近寄ってきてそう言った。
「何が、あったの?」
「いいから、寝てなさい。学校には休みの連絡入れといたから」
「うん」
ソファに横になっていると、真子から昨晩の出来事を大まかに聞かされた。
昨日、理佐の配偶者である鷺宮英一郎は、いつものようにどこかに酒を飲みに行ったらしく、あの時301号室は理佐ひとりだったこと。美名は301号室のバスルームを覗いた後、叫び声を上げて気絶したこと。その後、305号室に運ばれて、ソファに寝かされたこと。理佐はその後、怯えて301号室には戻れず、302号室の吉田家へ宿泊させてもらったこと、など。
しかしどうにも腑に落ちないことがあった。
「あなたあのとき、大きな悲鳴を上げて倒れたんだけど、いったい何を見たの? ふつうにお湯が流れていただけじゃない。何がそんなに怖かったの?」と真子は言った。
真子は卒倒した美名を助けに行き、301号室のバスルームのなかを覗いたが、そこはただ単に湯気を発しながらお湯が出ているだけだったという。
さらに不可解なのは、理佐と唯介の見たものが、美名の見たものと違っていたことだった。
理佐が言うには、シャワーを浴びようとバスルームに入り、蛇口をひねった瞬間、後ろから誰かに抱き疲れるように首を絞められた感じがした。振り向くと男の人のような形の黒い影が背後に立っていた、という。
唯介が見たものは、バスルームの中を覗くとシャワーヘッドを掛けるプラスチック製の留め具にロープを括り付けて、首つり自殺をしていた男がいた、という。
どちらとも美名が目撃したものとは異なっていた。
しかし、ふたりから詳しく事情を聴きたいとは全く思わない。とにかく、この環境から早く脱したい。
「お父さん、吉田さんのご主人と一緒に、となりの県の拝み屋さんのところに、依頼に行ったから。とにかく、一日でも早くこのマンションに憑いてる何かを払ってもらおうということで意見が一致して、いちばん近いところにいる人に頼もうってことになったのよ」
そのまだ見ぬ霊能力者というのを、信頼しているわけではない。
ただ、今はもう鷺宮英一郎を除く三階の住人すべて、藁にでもすがりたい気分だった。
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