二十

 305号室の自分の部屋に戻り、もう一度録音した音声を再生してみる。やはり、ふたつの謎の音声は消去されたままだった。

 自分の部屋に限らずこのマンションに居ることじたい、恐怖を感じる。

 すぐ隣にずっと引きこもっている兄は、似たような体験はしたことはないだろうか。

 廊下に出て、兄の部屋の扉の前で、

「お兄ちゃん、起きてる?」と声を掛けてみたものの、返事はなかった。

 眠っているのだろうか。

 しかし、このわけのわからない状態のなかで、ひとりでマンションの部屋のなかにいるよりは、ひきこもりとは言えすぐ隣の部屋に兄がいることが、いつもは疎ましく思っているはずなのに、少しだけマシに感じた。

 時刻はまもなく昼12時になる。美名は莉乃に、”今ひま?”とSNSのメッセージを送った。

 30秒ほどで既読になり、すぐに”お昼からお母さんと買い物行く予定だけど、なに?”と返信があった。

 ”ちょっと、聞きたいことがあるんだけど、電話しても大丈夫?”と送ると、既読が付いた後に、美名のスマホが莉乃からの着信を知らせるバイブレーションが始まった。

「どうしたの?」と電話の向こうで莉乃が言う。

「あ、いきなりごめんね。莉乃に教えてもらいたいことがあって……、ちょっと長くなりそうなんだけど、いい?」

「うん、いいけど、何かあった?」

 美名は、莉乃ならばこういう話を疑わずに信じてくれるという確信があった。

 電話を耳に当て、莉乃にこれまで部屋で発生した怪奇音のこと、昨日302号室で起こったこと、そして寝言アプリで奇怪な音声が入っていたが、それが消えてしまったことなどを説明した。

「うーん……、そこまではっきりとしたことが起こってるなら、ただ事じゃないわね。いちおう、そういうモノが勝手に動いたりする現象は、ポルターガイストって呼ばれてるんだけど」

「やっぱり、そうなの?」

 昨日、検索して出てきたワード。やはりこの現象はそれに該当するようだ。

「わりとスタンダードな心霊現象なんだから、まあどこで発生してもおかしくないと言えば、そうなんだけど。でも、最近いきなり始まったっていうのは、何かおかしいわね。これまでは、そんなことなかったんでしょ?」

「うん、全然なかった」

「最近、マンションの中で殺人事件があったり不審死があったりは、ないよね?」

 それを聞いて、美名は隣に住んでいる独身男性の多田のことを思い浮かべた。多田が303号室内で、人命に関わる事件を起こしていないとは言い切れない。だが、何の確証もないし、あんなガリガリに痩せた覇気のない中年に、そんなことが可能だろうか、とも思う。

「たぶん、ないと思うけど……」

「ほかの階はどうなの? 美名の家のマンション、たしか5階建てか6階建てでしょ?」

「5階建てだけど、ほかの階の人とはほとんど顔を合わせることがないから、聞いたことはないけど、とりあえず3階以外でそんな話はないと思う」

「そう……。今日はお母さんとこれからモールに行って、晩御飯もそこで食べて帰る予定だから、明日の朝、美名の家に行ってもいい?」

「うちに来るの?」

「うん、ちょっと試してみたいことがあるから」

 怪奇現象が起こると聞いて、莉乃はまったく怯んだ様子はない。むしろ強く興味を持ったようだった。いつもはちょっと首をかしげざるを得ないオカルト趣味も、この場合はとてもたくましく感じる。

「わかった。うちの場所、わかるよね?」

「だいたいはね。まあ、迷子になったら電話するから、迎えに来て。それじゃ、明日の朝10時くらいに家出るから、10時半にはそっちに着けると思う」

 莉乃がいったい電話から耳を離したらしく、誰かに向かって「はーい」と返事をする声が聞こえてきた。

「ごめん、お母さん呼んでるから」

「あ、こっちこそごめんね。急に」

「気を付けることとして、今日は家のなかになるべく一人にはならないこと。ポルターガイストやラップ音がしても、気づかないふりをすること。まだ心霊現象って確定したわけじゃないけど、下手に霊を刺激したら、一気に取り憑かれかねないからね」

「うん、わかった」

「それじゃ」と言って電話は切れた。

 美名は耳からスマホを離して、ディスプレイを見た。画面上部の小さい時間表示は12時23分になっていた。明日の朝、莉乃が来たとして一気に解決するなどという期待は持ってはいないが、マンションの住人以外で相談できる相手ができたことで、少し安堵を覚えた。

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