十九
いやな予感を感じながらも、次に午前4時47分のものを再生する。ピーポーピーポーというサイレンと同時に「救急車が通ります」というアナウンスが聞こえてきて、すぐに再生は止まった。昨晩は少し暑く、窓を開けて寝ていたので、表を通った救急車の音を拾ったのだろう。
最後のひとつ、5時15分のファイル。もう朝で、朝5時を過ぎれば6月の空はだいぶ明るくなっているはずだ。これもきっと、救急車か消防車、あるいは窓の外から部屋まで入ってくるような大きな音を拾って録音しただけに違いない。そう思いながら再生ボタンを押した。
再生は始まっているはずなのに、何も聞こえない。おかしい。そもそもこのアプリは音がしなければ録音を開始しないのだから、何も聞こえないはずはない。
やはり誤作動を起こす不完全なアプリなのだろう。もう再生を止めようとしたとき、スマホのスピーカーから小さな音、というよりも声が聞こえてきた。
「アー、アー……」というような、締められた首から息が漏れるような声だった。
美名は気味が悪くなり、スマホの画面を押して再生を止めようとした。しかし、いくら画面の停止ボタンを押しても、音が止むことはなかった。
「アーアーアー……アー」
続けて停止ボタンを連打したが、どのように操作しても、スマホは再生を止めない。画面を壊れてしまうのではないかというくらい強く叩いても、その声が止むことはなかった。あまりの気味の悪さに思わず充電ケーブルを引きちぎるように抜いて、ベッドに向かってスマホを放り出した。
布団の上のスマホからはうめき声が鳴り続け、やがて掠れた声で、次のように発せられた。
「殺してくれ……」
美名は全身鳥肌が立ち、涙が出そうになりながら、気づけば靴を履いて表に出て、301号室のインターホンを押していた。
髪の毛を無造作にポニーテールにした理佐がすぐに出て来た。
「あら、美名ちゃん。どうしたの? 何か用?」
「あの……、すみません。ごめんなさい」何と言っていいかわからない。
何か尋常でないことがあったと察した理佐は、
「まあ、落ち着いて。今日うちの旦那、出張行ってていないから、とりあえず入って」と美名を301号室のなかに導いた。
理佐の部屋のリビングに入り、革製の大きなソファに座った。
「いったい、何があったの?」
とにかく呼吸を落ち着かせてから、美名はさきほど自室で聞いた録音のこと、そして理佐が前に言っていたとおり夜中に天井から不気味な音が聞こえること、そして昨日302号室でティーカップが不自然に揺れたことなどを、時系列がバラバラになりながらも説明した。
理佐は真剣な表情をして、美名の言うことを聞いていた。美名の話を聞いた後、理佐が納得したような表情で、
「そう……、吉田さんのとこも、なのね」と言った。
「はい。昨日の夕方、地震なんてなかったですよね? ほかのものはぜんぜん動かなかったのに、ティーカップだけが動いてたんです」
理佐は立ち上がって、
「とりあえず、何か飲もうか。冷たい緑茶しかないけど、いい?」
「あ、はい。ありがとうございます」
喉が渇いていたため、美名は出されたコップを一口で半分まで飲んだ。そして大きなため息を吐いた。
「とにかく、怪奇現象と呼ぶしかない何かが、このマンションの三階で発生してるらしいわね。美名ちゃん、その録音したの、わたしにも聞かせてくれる?」
「え……?」
できれば、もうあんな不気味な音など聞きたくない。思い出しただけでも、鳥肌が立ってくる。
「もしスマホ持ってくるのが怖かったら、わたしが305号室まで取りに行ってもいいけど」
いくら怖いと言っても、あそこは自分の家で自分の部屋であり、そしてこれからも使用していかなければならない自分のスマホなのだ。ここから別のとこに逃げて新たな生活を始めるなど、望むべくもない。
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと、持ってきます」
「一緒に行こうか?」
その理佐の提案を、美名は小さく手を振りながら遮り、ソファから立ち上がった。
部屋に戻ると、スマホは変わらずベッドの上にあった。手に取ると、逃げ出すように自分の部屋を出て、301号室に走って戻った。
そして、画面を理佐に見せながら、「寝言アプリ」を起動させる。
「え……? どういうこと?」
さっきはたしかに7件の録音があったはずなのだが、改めて見てみると5件の録音になっている。
4時17分の何かを叩くような音と、5時15分の唸り声の録音が、なぜか消えている。
「そんな……、嘘じゃないんです。本当です」と美名は理佐に訴えた。
「うん。美名ちゃんはこんな嘘つくような子じゃないことは、わたしも知ってる。それに、わたしも実際に夜中に変な音を聞いてるわけだから……」
美名が寝言アプリの設定をいじりながら、なんとか消えた音声ファイルがどこかに残っていないか試してみたが、どう操作してももとに戻ることはなかった。
「理屈に合わないことばかり起こってるわね……。ねえ美名ちゃん、その寝言アプリっていうの、どうやって使うか、わたしにも教えて。わたしもダウンロードして、今晩うちでも同じことやってみる。そして、何かへんなのが録れたら、美名ちゃんにも知らせるから。だから、美名ちゃんの使ってるSNSのアカウントかメールアドレス、教えてもらえるかしら」
「あ、はい」
美名はSNSの画面を表示して理佐に示した。
「さすがにこうも変なことが続いたら、気のせいではすませられないわ。わたしも旦那が帰ってきたら、相談してみる。美名ちゃんも、お父さんかお母さんに話してみたほうがいいかもしれない。信じてもらえないかもしれないけど、わたしが一緒に言ってあげるから」
唯介や真子が、このマンションで怪奇現象が起こってると聞いたら、いったいどんな反応をするだろうか。両親とそういう心霊的な話はほとんどしたことはないが、真子はそういう話を嫌いそうだ、と美名は思った。
しかし、自分だけで、あるいは自分と理佐とのふたりだけで解決できるような問題ではないことは確かだった。
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