十五
共有部分の廊下に出て短い距離を歩き、302号室の玄関ドアの前に行きってインターホンのボタンを押した。
「はーい」と言いながら知子がドアを開けた。
知子は美名の姿を見ると、
「ありがとう。さあ入って」と促した。
「おじゃまします」美名はそう言って玄関に入り、靴を脱いだ。
吉田家の仏壇は、美名の住む305号室で言うところの「兄の部屋」に置いている。
知子が仏壇に向かって、
「聖羅ちゃん、お友達の美名ちゃんが来てくれたよ」と発した声が、静かな部屋に虚しく響いた。
美名は小さな仏壇の前に正座をして、線香を二本手に取り、ロウソクで火を点けた。線香を立てると、まるで白蛇のような煙が舞い上がって宙に消えていく。
美名は「浄心聖光童女」と刻んである位牌に向かって手を合わせ、目を閉じた。
仏壇にはチョコレートやクッキーなどの甘い菓子がたくさん供えられていて、位牌の少し手前に聖羅の写真が飾ってある。小学四年から姿を変えることのない聖羅を見ると、自分は少しずつだが変わっているという実感があった。
「もう10年になるのね。早いわ」と知子が懐かしむように言った。
同じつくりのはずの部屋は、自分の家とはだいぶ印象が異なる。聖羅が死んだとき、吉田夫婦はまだ20代の後半だったはずだが、以降引っ越しするわけでもなく、そして、再び子宝に恵まれることもなく、ずっとふたりで住むには持て余すようなこのマンションに住み続けている。
おそらく、引っ越しやマンションの売却をする気力も失ったまま、今日まで過ごしてきたのだろう。
「お茶持ってくるから、少し待っててね」知子はそう言って部屋を出た。
部屋の片隅には、聖羅がいつも持って遊んでいたぬいぐるみが、壁を背もたれにして座っていた。
302号室は、あのころのまま時が止まっている。
高校二年生の美名には、子供を失う親の気持ちがいかほどのものか、知る術もない。ただそれが正気を失うほどのものであろうことは、美名も学校の制服を着て出席した聖羅の告別式で実感した。
あのとき、聖羅の母親である知子は、葬儀場で子供用の小さな棺桶にしがみつき、半狂乱の姿で泣き叫んでいた。
部屋の扉が開き、知子がお盆の上にチーズケーキと紅茶を乗せて持ってきた。
「どうぞ、召し上がってね」とケーキの皿を美名の前に置いた。
「ありがとうございます。いただきます」
小型のフォークでチーズケーキの表面を軽く押すと、溶けるように切り取ることができた。
知子は仏壇の前の座布団に座り、飾ってある聖羅の写真に向かって再び、「聖羅ちゃん、美名ちゃんが来てくれたのよ。覚えてるでしょ。仲良しだったふたつ隣の美名ちゃん」と言った。
もちろん、返事はない。
知子は仏壇の前の座布団の上で180度回って座り直し、美名のほうを向いた。
「美名ちゃん、最近学校はどう?」
「ええ……、まあ、がんばってます」美名があいまいに答える。
「今は、どんなお勉強してるの?」
「えっと、最近は数学で微分を習ってるとこです」
「微分って、よく聞く微分積分っていうの?」
「ええ、そうです。積分はまだですけど……」
「そう。美名ちゃんも、もうそんな難しいことを習う歳になったのね。早いわね。部活動はしてないのよね?」
「いちおう茶道部ってことにはなってるんですけど、基本的に自由参加だから、ほぼ帰宅部です」
「あら、そうだったの。せっかく入ってるんだったら、活動すればいいのに。でも、美名ちゃんもお勉強が忙しいし、そういうわけにもいかないわね。学生は学業が本分だわ」
知子は、まるで聖羅が存命していればどんな学生生活を送っていたのだろうか、ということを美名を通して探っているようだった。
それが特にイヤなわけではない。美名も聖羅が生きていなら、どんなふうになっていただろうと想像することがある。きっと今ごろは、莉乃と同じような、もしくは莉乃以上の親友になっていただろう。
しかし、吉田夫婦はまだ30代半ばだし、もう死んだ子の歳を数えるようなことは止めて、前に進むべきではないか、とも思う。
「美名ちゃんは、恋人はいるの? そろそろ好きな人できた?」
「あ、いえ……」
サッカー部の園田からは、あれ以降メッセージの受信はないし、美名から送ることもしていない。でき得るならば、このままほったらかしにして、忘れてくれないだろうか、とも思っている。
「わたし、高校生のころに主人に初めて会って、高校三年の春から付き合い始めてね。そのころから二人でぜったい一緒になるんだ、なんて言ってて、高校卒業すると同時に一緒に住むようになって、気づいたら妊娠してて……。将来のお婿さんに出会うには、早すぎるなんてことはないのよ」
「はい……」
「大学には、進学するのよね。どこの大学に行くの?」
「えっと、まだはっきりとは決めてないんですけど、できれば県外の大学に行きたいなって思ってます」
「そう。寂しくなるわね。帰ってきたら、ウチにも寄ってね」
「おばさん、まだ気が早いですよ。まだ1年以上ありますから」
「ああ、それもそうよね」
出されたケーキを食べながら、そんな話に付き合っているうちに1時間ほどが経過していた。紅茶のカップの中身も、もう残すところ四分の一ほどになった。
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