十六

 そろそろお暇しようか、と思ったが、美名にはこの際302号室に住む知子に訊いてみたいことがあった。

「あの、おばさん。ちょっと、いいですか?」

「うん。なに?」

「301号室の鷺宮さぎみやさんから聞いて、わたしの部屋でちょっとだけ似たようなことがあったんですけど……、最近このマンション、夜中に天井から変な音が聞こえることが、ないですか?」

「あ……」と、知子は目と口を開けたまま少し固まった表情をした。

 何か心当たりがあるのだろうか。

「美名ちゃんも、聞こえるの?」

「昨日、一回だけですけど……、おばさんも聞こえるんですか?」

「うん、3か月ほど前からかな。夜中の1時から2時くらいの間に、天井から何か、ドンとかバンとか、たまにはパーンていう何かが弾けるような音がして……。天井からだけじゃなくて、たまに壁の向こうからも。最初は、303号室の多田さんが、何かドンドンしてるのかなって思って、一回だけ控えめに苦情を入れたことがあるんだけど」

 303号室の多田は、こう言っては失礼だが得体のしれない人物だった。近所付き合いは全くないと言っていい。病的なほどガリガリに痩せていて、髪の毛は黒いマッシュルームカット、40代の独身男性だということ以外、ほとんど何も知らない。毎日、夜9時くらいに出掛けて朝方夜が明ける前くらいに帰ってきているようだが、出掛けるか出掛けないかはかなり不定期で、いったい何の仕事をやってるのかもわからない。

 頻繁に通販会社の箱を持った宅配便が来ているようだが、それ以外に人が訪れる様子もない。

 マンションという建物は、玄関の向こうはプライベートなので、多田がいつ何をやってようが干渉する権利は誰にもないのだが、正直あまり関わりたくないというのが、3階の住人の共通した意識だった。

「そしたら、多田さんがおっしゃるには、『うちは一人で住んでるから、リビングルームともう一部屋しか使っていなくて、302号室に面した部屋は物置代わりに使ってるから、そこから音が隣に漏れるなんてことは有り得ない。何なら部屋のなかを確認しますか?』なんて言ってくるのよ。そこまで強気に出られたら、何も言い返せなくてね」

「え、あ……。そうですか」

「天井のほうも、上の階の人が夜中にドンドンしてるのかなって思って、管理会社のほうに何度か電話したことがあるんだけど、今うちの真上の階の402号室は空き室になってるから、そんなことは絶対にないって言うのよ。ウチの主人も週に何回かは遅勤で夜中に帰って来るんだけど、たまにおんなじような変な音を聞くことがあるみたいで……」

 やはり、理佐が言ったとおり、天井や壁を伝うように何かが音を立てているらしい。

 しかし、美名には管理会社や隣の多田に苦情を言いに行くほど知子に行動力があったことが、美名には少し意外だった。

「ほかにもね、たまにおかしなことが最近起こるようになってきたのよ」

「え……? どんなこと、ですか?」

「えーっと、台所で洗い物してると、食器棚だけがカタカタ動いたり、家の固定電話が鳴って、取ろうとすると切れて、着信履歴が残ってなかったり、あとテレビの電源が勝手に入ったり、リモコン触ってないのにチャンネルが変わったり……。そんなことが、1か月前くらいからときどきだけど起こるようになってね」

 美名はさっき自室で起こったカレンダーの落下を思い出した。やはり、気のせいではないのだろうか。少なくとも、理佐の301号室、知子の302号室、そして美名の305号室で、得体のしれない怪奇現象が発生しているらしい。

 そのとき、美名の目の前にあるティーカップが、白いソーサーの上でまるで痙攣するかのようにカタカタと揺れ始めた。

 地震だ、と最初は思ったが、すぐに明らかにふつうの地震とは異なると理解した。部屋のなかで、ティーカップ以外のものは何ひとつ揺れていない。仏壇にかざってある聖羅のフォトフレームは、しっかりと安定して立ったままだ。

「キャッ!」と叫び声を上げて、美名は弾かれたように後ろにのけぞった。座ったまま腰が抜けたみたいになり、手で床を抑えていないと上半身の姿勢を保つことができない。

 ティーカップはさらに揺れが大きくなり、わずかに残っていた琥珀色の紅茶はカップのなかを左右にかき回されて、撥ねるようにテーブルの上に飛び出してきた。

 いきなり、知子がその場に立ち上がり、虚空を鬼のような形相で睨み、

「いいかげんにしなさい! こそこそしてないで出てらっしゃい!」と叫んだ。

 すると、ティーカップはまるで死んだかのように動きを止めた。

 いったい、目の前で何が起こったのか、理解できない。美名はしばらく床に手をついたまま動けないでいた。

「こんな感じで、一喝すると止むのよ」知子はまた、疲れた中年女性のような表情に戻ってそう言った。

 美名はようやく思考を取り戻し、自分の心臓が激しく脈打ってるのを自覚した。

「こんな……、こんなことが、よくあるんですか……?」

「毎日というわけじゃないけど、たまにね。やっぱり幽霊の仕業なのかしらね」

 あまりに平然と知子がそう言うので、美名はさらに怖くなってきた。

「お茶、入れ直しましょうか」

 知子がティーカップのソーサーを持ち上げようとしたので、

「いえ、いいです。もう帰りますから。ごちそうさまでした。ありがとうございました」

 美名は立ち上がって一礼し、逃げるように302号室を辞した。

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