十四

 夕方、学校を終えてから、莉乃と本屋に行き、1時間ほど店内を見て回った後、自転車に乗って帰宅した。

 マンション一階の自転車置き場に片足スタンドを立てて、マンションのエントランスのほうに向かうと、表の道路からこっちに向かって歩いてくる、白いシャツの上に薄手の水色のカーディガンを羽織った女性がいた。

「美名ちゃん、今お帰り?」

 302号室の吉田知子よしだともこ――幼いころの美名の友人で、事故で亡くなった聖羅の母――は美名の姿を見つけると、そう言った。

「あ、こんにちは。はい、今帰ってきたところです」

 知子は今年36歳で、配偶者の吉田裕次郎も同い年だ。美名の母である真子とは10歳以上離れている。つまり知子は、二十歳のころに聖羅を産んだことになる。

 しかし、見た目はずいぶんと老け込んでいて、40代後半あるいは50代にも見える。一人娘の聖羅が交通事故で亡くなった後、ひどく痩せて顔に深いしわが入るようになり、髪の毛にはところどころ白いものが混ざっている。

 さすがに娘を亡くして10年以上経過しているため、会えば笑顔になって挨拶もするし互いに快活に受け答えもできるが、やはりどこか影を背負っているようなところがあった。

「美名ちゃんも、もう二年生よね。本当、早いわねえ」

 知子は緩慢に口を動かしてそう言った。言外に「うちの子供も生きていたら、同じ高校二年生になってたのよね」と言っているようだった。

「さっきね、聖羅のお墓参りに行ってたのよ。今日、月命日だったから」問われもしないのに知子は言った。

 知子は亡くした自分の子供に対する意識を埋めるように、美名に接してくる。美名は自分には聖羅の代わりはできないし、するべきでもないと思っているが、無下に拒否するわけにもいかない。

「もし時間あるなら、あとでウチに来てお線香でも上げてくれないかしら。美名ちゃんが来てくれたら、きっと聖羅よろこぶから」

「あ、はい」

 ふたりでエレベーターに乗り込んで、3階のボタンを押す。

 すぐに3階に到着して、ドアが開いた。

「それじゃ、一度着替えてから、お邪魔します」302号室のドアの前で、知子にそう告げた。

「うん、じゃあお茶用意して待ってるね」

 美名が305号室に入ると、玄関の靴脱ぎ場の向こうに狭く伸びる廊下には、宏司の部屋の扉の前に、食後の食器がお盆に乗ったまま置いてあった。丼鉢のふちに醤油色に染まった米粒が張り付いている。

 兄は、今日も生きているらしい。そして、今日もまた部屋から一歩も出なかったようだ。

 靴を脱ぎ、そのお盆を手に持ってリビングに行くと、唯介が台所で夕食の支度をしていた。

 ダイニングテーブルの上にお盆を置いて、

「ただいま」と声を掛けた。

「あ、おかえり」と唯介は短く言った。

 自室に入り、制服のブラウスを脱いだ。そして、短い黒の短いショートパンツと青いTシャツに着替えた。

 今日一日、湿度が高く暑かったせいか、皮膚に汗の脂が貼り付いているようで、少しベタベタする。ウェットティッシュで、軽く腕や首回りを拭いた。

 外はまだ明るいが、時間はすでに午後5時半を過ぎている。

 姿見の鏡の前に立ち、襟元の髪の毛を手で触っていると、鏡に映った壁に画鋲で留めてあったカレンダーが、自然落下とは思えない勢いでいきなり床の上に落ちた。

 カレンダーは、バン、というまるで叩きつけられたような大きな音を立てた。

 ビクッと身体を痙攣させて、後ろを振り返る。

「え?」そう声に出した後、美名は全身が固まった。

 床には何も落ちていない。壁にはちゃんとカレンダーが掛かっている。

 どういうことだろう。

 見間違えたのだろうか。確かにさっき、鏡に映ったカレンダーが床に落ちたはずだ。なのに、また壁に戻っている。

 もう一度振り返って鏡を見ると、左右対称になっている以外は何も違わないカレンダーが、やはり壁に掛かったままだ。

 幻覚を見たのだろうか。幻聴を聞いたのだろうか。それとも、自分は頭がおかしくなったのだろうか。

 壁に近寄って、カレンダーを見る。何もおかしいところはない。「6月」の紙を一枚めくってみる。そこには、青い海と帆を張ったヨットの写真の7月のカレンダーがある。壁に停めてある画鋲は、しっかりと壁に刺さっている。

 理佐に聞いた話や、昨日の夜に聞いた謎の異音のことが、いやでも頭に浮かんでくる。やはり幽霊か何か、目に見えない存在がこのマンションをうろついているのだろうか。

 きっと、何かの間違いだ。気のせいだ。

 気味が悪いが、そう思うしかない。

 美名は逃げ出すようにリビングに出ると、唯介がまな板の上のロース豚肉を、包丁の背で叩いていた。ドンドンドン、という低くて鈍い音が台所のシンクを伝って、かすかに床にまで響いてくる。

 唯介は調理器具にはこだわりを持っていて、使っている包丁は刃渡り30センチを超える牛刀を使っている。

「あのね、お父さん。さっきそこで、吉田さんに会って、たまにはうちに来てお線香上げてって言われたから、ちょっと行ってくるね」

 美名がそう言うと、唯介は手を止めて少し振り向いた。

「お線香……? ああ、そうか。なるほど。行ってらっしゃい。晩御飯は美名ちゃんが好きなトンカツだから、楽しみにしててね」

 唯介の後ろ姿は、ここ数か月でずいぶん痩せてきたように見えた。

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