第51話 だから、安心して

 会社に戻ると、私の職場がある本社二階フロアにはあかあかと電気が灯り、既に定時後だというのに真昼間のごとく仕事戦士の熱気でむせ返っている。


「のりちゃん先輩! 記者会見の準備をしながらセールスマニュアルは必要部数を出力しておきました!」


 森さんが駆け寄ってくる。最近可愛らしい子犬に見えてきた。よしよし。それぐらいの機転を利かせてくれないと、この先ここで生き残っていけないよ? セールスマニュアルは明後日の説明会で身内の関係者全員に配布することになっている。


 私は森さんから準備の進捗の報告を受けた。急な発表にも関わらず、日頃からお付き合いのある業界新聞、雑誌社や大手の一般紙からも記者会見出席の返事が続々とFAXで届き続けているらしい。確かに、今のところは『事業譲受のお知らせ』としか告示されていないので興味を引くことはできているだろう。


 私はスタッフ向けの小物の最終準備に取り掛かることにした。公共交通機関でいらっしゃるお客様を誘導するために駅前にもスタッフを配置するのだが、スタッフと分かるための腕章やイベントロゴが入った看板が必要なのだ。会場内に配置する喫煙場所やお手洗い誘導の看板もまだ完成していない。当日、総務部の方に記録用の撮影もお願いする予定なので、必ず撮ってほしい場所のリストも用意せねば。営業マンのために製品カタログのセットも準備がしておきたい。他にもいろいろあるが、間に合わなかった時のことを考えて優先順位をつける。


 結局パーティーの席次について高山課長の相談にのっていたこともあり、気づけば夜中一時になっていた。


「紀川、今日はもう帰ろう」


 竹村係長は帰ろうと言うが、その帰る場所というのは私の古アパートではない。竹村係長の自宅だ。私はもはや疲れているのか疲れていないのかも判断することができない。妙に澄んだ気持ちで仕事をしていたので、思わずむっとした顔をしてしまう。


「小百合も心配してる」


 でも、こんなことを小声で言われたら従わざるを得ない。どうせ終電は逃したから、泊めてもらうほかないのだ。








 翌日は、本社で浜寺主任とイベントのビデオ撮影にして打ち合わせをした。イベントはやって終わりというものではない。企業として大金を投資してやる以上、最大限の効果を得るためにも事後のプロモーションについても考えておかねばならないのだ。私は白岡さんと相談して、イベント後に会社のホームページへイベント報告のページを追加することに決めていた。そこには、会場全体の風景やショー、式典の映像も掲載することになっている。招待できなかった人のことを考慮すると二の足を踏んでしまうような話なのだが、梅蜜機械の技術と会社としての勢いをアピール良い機会ということで、副社長にも承認いただいている。


 他にも、他部署からの問い合わせやホテルの宿泊者リストの最終版の作成対応、最低限の日常業務をこなしていると、また真夜中になってしまった。私はまだ働く竹村係長を置いて彼の自宅に向かい、大きなベッドを占拠してぐっすり眠った。





 そして翌朝。イベント前日。小百合が用意した炊き込みご飯、味噌汁、ほうれん草のおひたし、豚の角煮、デザートのみかんジュレを口の中に掻き込むと、いつもよりも早くマンションを出た。最近では、竹村係長の家に私の着替えなど必要最低限の品々を備え付けているので、準備に手間取ることもなく、スムーズに出発することができる。あれ。これ同棲じゃないよね? ちがうちがう、いたって違う。と、信じてる。


 今日は会場で朝から本格的なリハーサルがあり、私はそれらの音を耳で拾いつつ、社員スタッフ相手に最終の説明会を行わねばならない。その時が近づくにつれ、胃はキリキリと痛み始めた。せっかく冊子が完成しても、きちんと配布することができなかったらどうしよう。どこまでも不安が付きまとう。冊子を取りに行く人は竹村係長が手配してくれたそうだ。


 午前十時。会場にはぞくぞくと社員スタッフが入ってくる。オジサン年齢の役職者が中心なため、受付担当の女性達の存在は姦(かしま)しさも相まって大変目立つ。私は覚悟を決めて彼女達に近づいていった。


「おはようございます。実は受付業務に変更が出ました。これから説明しますので、すみませんがご協力ください」


 さぁ、来い。今日の私は腹を括っている。どんなことを言われようと、全てを受け流してこの仕事を全うしてみせる。私は頭を下げたまましばらくじっとしていたが、どこか様子がおかしい気がして顔を上げた。


「見たわよ」


 岸部さんは、受付勢から一歩前へ歩み出た。見たって、何を見たのだろう? 私が竹村係長の自宅を出入りしていることだろうか。それはもはや社内中に周知された事実であり、新鮮味の無い公然の秘密だ。今ここでわざわざ指摘してくるとは、さすが岸部さん。


「あの……」


 何も言い訳することもないのだが、とりあえず声を出してみる。すると。


「白岡さんに見せてもらったの。あなたの作品をね」


 岸部さんは持っていた赤いバッグの中へおもむろに手を差し入れ、紙束を取り出した。それは、あの冊子『最先端への道のり』の校正中原稿で。


「こんなの見ちゃったら何も言えなくなるじゃない」

「岸部さん、そうじゃないでしょ? ほら、ちゃんと言わなきゃ」


 突然岸部さんの取り巻き女性の一人が岸部さんに声をかける。私は何が起こっているのか分からない。どうやらとことん貶されるというルートは外れることができたようだけれど。岸部さんはくやしそうに唇を噛みながらも、こちらに向き直った。


「ありがとう」

「え?」

「この冊子、素人目に見たところ、素晴らしいと思うわ。それに何より、父のことが書かれてある」

「岸部さんのお父様?」


 驚きのあまり、声がひっくり返りそうになった。岸部さん達は非難するような目でこちらを睨んでいる。先ほどの女性が慌てて教えてくれた。


「岸部専務! 自分で作った冊子でしょ? 覚えてないの?!」


 岸部専務とは、私が入社する少し前までこの会社に在籍していた方。梅蜜機械が商社経由で裁断機を販売することを止めた矢先、販売ノウハウの無い当社は早速壁にぶち当たっていた。そんな時、社長がガソリンスタンドで見つけた青年に『何か』を見出してスカウト。以来梅蜜機械で社長の右腕として働き続け、会社を大きくしていった。


「はい。でも、まさかお父様だったなんて……」


 あの岸部さんがふっと視線を床に落とし、今にも泣きそうになる。岸部専務は、もういない。ある日、社用で出かけていた際、車に轢かれて亡くなったのだ。


「あなた、本当に何も知らないのね」


 岸部さんの声は掠れている。


「なのに、こんなにも、こんなにも、父のことを……」


 小刻みに肩を揺らす岸部さんに、周囲の女性はハンカチやティッシュを差し出した。


「このことは、ずっとタブーだった。梅蜜機械から突然消えた父は無責任だとさえ言われてた。私は、働きづめで碌に家庭も顧みない父が大嫌いだったけれど、いざ失くしてみるとその大きさに気づいてしまったし、こんなの会社に殺されたようなものでしょ? きっと、過労でフラフラしてたのよ。皆、落ち込む私に父の話は絶対にしなくなった。それは会社全体に広がってね。父はあんなにこの会社のために働いてきたのよ。なのにその存在感が消えていくことがまた悔しくて」


 岸部さんは声を詰まらせて、両手で顔を覆ってしまう。彼女の悲しみがじわじわと身体にしみ込んでいく。私はもらい泣きしそうになって鼻水を啜った。


「私、明日は父に対して胸を張れる仕事をするわ。だから、安心して。あなたの作品は、父の記憶が刻まれたこの冊子は、必ず全てのお客様にお渡しするから」


 決意の炎を瞳に映す岸部さん。頬に流れた涙の跡はあれど、もういつものキリリとした表情に戻っている。私は「ありがとうございます」と深く頭を下げた。


 その後、他の社員スタッフの皆さまにも直前の説明を行って、共同出展する会社様にもご挨拶。当日の流れを改めてシミュレーションして、足りない人や物はないか改めてチェックしていく。すると、ここに来て足りない備品や資料も続出し、私は一度本社に戻って作業することにした。


 気づいたら真夜中三時。後四時間後には再び出社し、記者会見の部屋を整えつつ、海外からいらっしゃるお客様の工場見学に付き添う営業マンと最終の打ち合わせをせねばならない。もう徹夜してしまおうかとも思ったが、竹村係長を始め高山課長、白岡さんに「一秒でも多く寝ておいた方が良い」と言われてしまう。私は渋々すっかり通いなれたマンションへの道を歩いて帰った。手は、竹村係長に繋がれていた。


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