第50話 これも仕事のうち

 外はまだ肌寒い。いつの間にか新年度に切り替わり、咲いた桜も散り始めたこの季節。ダウンのコートはクローゼットに閉まってスプリングコートをチョイスしたのだが、失敗したかもしれない。上着を着たにも関わらずくしゃみをする私に谷上さんが近づいてきた。さりげなく大量の書類を仕舞ってあるキャビネットに体重を乗せ、何か言いたげな様子。もちろん無視することなんてできなくて、私は谷上さんと視線を合わせた。案の定、目が笑っていない。


「結局、あの人を選んだのね」


 谷上さんは、私が竹村係長を選ぶことに反対していた。おそらく、竹村係長には私の知らない過去や背景がある。でも、私が知っている竹村係長はアレだ、アレ。やれば出来るのに、イマイチぱっとしないオジサン。でも優しくて、たまにカッコ良い。その匙加減が私のツボに入っているのかもしれない。

私は、小さく頷いて頭を下げた。先程の騒動のお詫びも兼ねている。


「ま、いいと思うわ。容易い道が最短とは限らないものね」






 走って駐車場に向かうと、竹村係長が車のエンジンをかけた状態で待っていた。


「遅いぞ」


 なぜか「襲うぞ」と聞き間違えそうになって、一人焦ってしまう。


「お待たせしました」


 私が助手席に滑りこもうとすると、珍しい人が声をかけてきた。


「どこへ行くのかね」


 飯塚部長だ。さらに詳しく言うと、私と竹村係長とあまりそりが合わない総務部のボスである。


「れいの冊子の印刷で不手際がありまして、今から挽回しに行ってきます」

「……まったく。突飛なことをするならば、もっと用意周到に行いなさい。これだから経営企画部は」


 しまった。今はお小言を素直に聞いている暇は無い。


「あの、大変申し訳ないのですが、今とても急いでまして……」

「どこまで行くんだ?」


 すると、竹村係長が簡単に目的地の場所を説明してくれた。


「よし。乗っていこう。この駅まで乗せてくれ。途中、通るだろう?」


 飯塚部長が自身のスマホの画面を竹村係長に見せる。


「そうですね。高速降りてすぐの場所なので、遠回りにはならないと思います」


 こうして、思わぬ同乗者が増えてしまい、私は緊張を解けないまま車に長時間揺られることになった。本来ならば運転手をせねばならない私が助手席に乗り、梅蜜機械の役員でもある飯塚部長がふと漏らす独り言のようなおしゃべりに付き合わねばならないということ。これ、なんの修行ですか? 肩こりが悪化します。


 飯塚部長は総務部の取り組みについて長々と話していたが、話題がふと変わった。


「それにしても紀川さん、経営企画部は楽しいかい?」


 この方の質問はきっと真に受けてはいけない。きっと裏に何らかの別の意図があるはず。だけど、疲労困憊でいつも以上に頭の回転が悪くなっている私には解けるはずもない難問だ。


「はい」


 こういう時は嘘をつかずに答えておく。百戦錬磨の狸親父を相手に腹の探り合いなど自殺行為。


「経営企画部の仕事はとても楽しいです。入社一年目は事務だけでしたが、二年目からはずっと今の仕事をさせていただいていますが、とても充実しています」


 車が道の凹凸に乗り上げてガタンと大きく縦に揺れた。私の身体も一瞬浮き上がる。車内の微妙な空気に引っかき傷みたいな狭い隙間ができたかのように感じた。


「そうか」


 飯塚部長の言葉は簡潔だ。


「残りも、がんばってください」

「はい」


 返事したものの、分からないことが一つ。残りって、何のことだろう。周年行事という大イベントの終了まで残り後少しということだろうか。


 その後は誰も声を発さないまま、飯塚部長指定の駅前に車は到着した。「お疲れ様」の一言だけを残し、振り返りもせずに早足で遠ざかっていく部長の背中。


「行こう」


 竹村係長が、気遣うように私の肩に手を置いた。










 春独特の桜色がかった鈍色の空は手が届きそうな程に低い。そこを一羽の鳶(とんび)が悠々と弧を描いて風に身を任せている。印刷屋さんは、地図にあった通り駅からは遠く、バスもほとんど通らないような街の郊外にあった。うちの工場程の規模はないが大きな建物が三棟並んでいて、そのうちの一つにある応接間に私はいる。


 新田くんの叔父さんはここの社長さんだった。ちなみに、新田くんとは似ていないし、声もしゃがれてはいなかった。


「ご希望の無線綴じだと、あさっての五時仕上がりは厳しいね」


 社長さんは、申し訳なさそうに眉を下げる。なんと、突然の発注にも関わらず、嫌味一つ言わずに快く引き受けてくれたのだ。こちらこそご無理を申し上げてすまない気持ちでいっぱいになる。


 私は無線綴じの印刷物サンプルを手に取った。無線綴じとは、冊子を製本する方法のタイプのひとつ。中面のページの背中に糊をつけて表紙をくっつけるので、針金などといった金属類を含まない。文庫本などもこのタイプだ。社長さんの言うように少し手間がかかる方法ということもあり、出来上がりには高級感がある。


「では、中綴じでしたらどうですか? 納期に間に合わせることの方が優先度高いんです」


 私は隣にあった中綴じのサンプルを手にした。こちらは、冊子のページを開いた状態のものを重ねて、針金(ステッチ)で綴じ、半分に折って使うもの。本来、もっとページ数が少ないものに採用する方法だ。私からすると無線綴じよりもややカジュアルで簡易的な印象があるが、ページの見開きの中央部分が見やすいというメリットもある。(もちろん世の中には無線綴じでも中央部分までしっかり広げられるものがあります!が、今はそれを採用すると時間が足りない)


「そうだね。こちらだったら余裕で間に合うよ」


 おそらく、紙のランクを当初予定していたものよりも上げることで、出来上がりの印象に高級感を付加することはできるだろう。私は隣に座る竹村係長に承諾を得ながら社長さんとの打ち合わせを進めた。あらかじめ準備してくれていた色校もチェックして、私は「全体的に濃すぎるのでもう少し薄めに」とお願いをした。私は職場の複合機でプリントした見本を持ち込んだので、それを参考に調整してくれるそうだ。ありがたい。







 後は無事に印刷の完了が間に合いますように。私は祈るようにして帰りの車内を過ごした。途中のサービスエリアでは、谷上さんに持たせてもらった弁当でかなり遅めのランチ。いろんなことがありすぎて、空腹なんて吹き飛んでいたのだ。こんな非常時にも関わらず、お弁当に入っているお料理の品々はとても美味しく感じる。美味しいものは、いつだって美味しいものなのだろう。


 濃厚かつフルーティなソースがかかったハンバーグを頬張っていると、いつの間にか涙が流れていた。


「そういえば、飯塚部長は何しにこんなところへ来たんだろうな?」


 唐突に竹村係長が私に尋ねる。私は首を傾げるだけでそれを聞き流した。頭の中は今後の段取りで一杯になりつつある。明後日は、スタッフ説明会の最終回。実際の会場で、前回よりもさらに詳しく具体的なことを伝えるのだ。受付に関しては、あの冊子のことがあるので帰り際にお客様へ配布するのを手伝ってもらえるようお願いをしなくてはならない。要するに、彼女達の仕事が増えることになる。きっと岸部さん達は良い顔をしないだろうな。


 ため息が出る。でもこれも、仕事のうちだ。


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