第52話 円陣

 今日がイベント当日だなんて信じられない。異様に身体中がエネルギーで満ちていて、ベッドから降りるとフローリングの冷たさも心地良いぐらいだ。ここは職場でも会場である市民ホールでもないのに、どこか凛とした空気が広がっている。思いっきり伸びをすると、隣で寝ていた竹村係長が寝返りをうってこちらに近づいてきた。


「結恵、今日はがんばろうな」

「はい!」


 元気に返事して見せると、キスされた。朝から何なの、この人は。油断するとすぐこれだ。これにすっかり慣れてしまった私自身にも大変問題がある。いつかとてつもない仕返しをしてやるんだと拳を握って決意したちょうどその時、小百合が寝室にやってきた。


「おはよう、結恵。あら、お取り込み中だったかい?」

「断じて違います!」


 小百合も分かっていながら言っているようだ。何せ、私の身体はまだ綺麗なままなのだから。たぶん。


 今日、イベント当日は、いつも制服の私も別の格好をする。スタッフ全員で揃えた紅色のカーディガン、その下には白のシャツと黒のスカート。カーディガン以外は私物だけれど、色だけでも揃えると統一感が出るというもの。こういった形だけでなく、今日は社員一丸となってお客様をおもてなししなければならない。


 用意されていた朝食を食べていると、小百合はダイニングテーブルの向かい側に腰掛けた。肘をついて、こちらをニコニコと眺めている。


「いよいよだねぇ、結恵」

「そうだねぇ」


 私はお漬物のキュウリをバリバリ噛み締めながら返事した。


「結恵はここまでよーーーーくがんばった。それは私が保証してあげるよ。だからね、最後の最後まで気を抜くんじゃないよ? 結恵はちょっと危なっかしいところがあるからね。ついていけるものならば、ついていきたいぐらいだ」

「大丈夫だよ。でも、連れていけるものなら連れていきたいなぁ」


 小百合は、目の前にある私のマグカップからお茶を飲む。この世の終わりを迎えたかのような不安げなをしているので、私は人のものを飲むなと咎めることを止めた。


「もう少し妖としての格が上がれば、なんとかなるんだけどねぇ」


 私は、イベントに向けて準備し忘れたものがないか頭の中でチェックをしていたので、そんな小百合の呟きは全く聞こえていなかった。







 小朝七時。小百合に見送られた私と竹村係長は、またしてもいつもより早めに職場に到着。私は前日にメモしておいた「やることリスト」に目を通す。カタンと音がしたのでそちらを向くと、見慣れぬ人が立っていた。いや、違う。見慣れた人が見慣れぬ格好していたのだ。


「白岡さん……」


 毎日全身真っ白のコーディネートしか着ない白岡さんが、なんと全身真っ黒! これじゃ、黒岡さんになってしまう。性格までいつもの優しさやレディーファーストが消えて、真っ黒になっていたらどうしよう。などと、当日にも関わらず呑気なことを考えていると、経営企画部の面々は続々と出社してきた。男性はいつもとは違う良い背広を身につけている。女性は私も含めて化粧がいつもよりもやや濃いめだ。


「朝礼を始めよう」


 始業開始までにはまだ時間があるが、高山課長の点呼に皆が応える。


「いよいよ、当日。君達は十分に準備し、心を砕き、身をすり減らしてこの日を迎えた。だが! 当日は何が起こるか分からない」


 高山課長が皆の顔を一人一人見渡していく。その通りだ。いくらがんばって準備し、もう完璧だと考えていたとしても、こういったことは水物。どんな化け物が現れてどんな嵐が巻き起こるか分かったものではない。皆一様に頷いて、改めて気を引き締める。


「一方で、今日は僕達の晴れ舞台でもある。これまでの努力の結果が花火の如く打ち上がって、お客様を魅了する。お客様はもちろんだが、この日を、このイベントを、まずは僕達が楽しもう。そして、できることを最後までやり切ろう!」

「はい!」


 全員の返事が揃った。


「よし、円陣を組むぞ!」


 高山課長が隣の福井係長、白岡さんと肩を組み始める。なるほど、そういうものか。大昔、スポーツ系の部活をしている人達がやっているのを遠目に見たことがある。あの『リア充の極み』に人生で初めて参加できるのか。そう思うとテンションが上がらずにはいられない。私は隣の森さん、竹村係長と肩を組んだ。


 高山課長は叫ぶ。


「梅蜜機械の技術力を見せつけるぞ!」

「おー!」

「その前に、記者会見をなんとか乗り越えるぞ!」

「……おー!」

「ただの祭りにするな!しっかり売りまくるぞ!!」

「おー!」

「イベント……成功させるぞ!!」

「おー!!!」


 経営企画部七名の声が、人気が無い本社二階の広いフロアにこだました。全員の瞳が、完全に仕事モードに切り替わる。気合いは、入った。







 記者会見はお昼からだ。森さんと福井係長が担当してくれる。森さんは昨日夕方に資料を作り終え、無事に社長承認も得ている。会見開始の一時間前からは、谷上さんも応援に駆けつけてくれることになっているし、会見には高山課長も社長の補佐役として控えていることになっているので、おそらくなんとかなるだろう。


 そんなわけで、午前十一時。私は竹村係長、白岡さん、浜寺主任と一緒に会場へ向かった。さすがに社員スタッフだけではまかない切れなかったパーティーの給仕スタッフさんや、いつ見ても煌びやかな羽衣雅の皆さん、設営業者が手配してくれた式典の司会の方、音響、ライト、企画会社の技術者さん達と、多くの方に挨拶してまわる。泣いても笑ってもついに本番。改めてお客様目線で会場全体を見てまわり、最終チェックを行っていく。


 小百合と出会った頃は、まさかこんな仕事を私がすることになるなんて夢にも思わなかった。私はサラリーマンだ。だから、指示された仕事はするし、それが評価されてもされなくても、淡々と毎日を過ごす。仕事をする理由。それはお金のためだ。お金がなければ生きていけないのだから。私は綺麗事などを言うつもりはない。とりあえず、社会の一員であるという実感欲しさと、生活のために働いてきた。だけど。


 このイベントの仕事で、私の考えは変わった。社内デザイナーであることに幾分誇りを持てるようになったし、この会社で働く自分のことが少しだけ好きになれるようになった。


 どれもこれも、小百合と出会ってからの変化だ。小百合。私はあんたが全力で吹かせている『良い風』を胸いっぱいに感じて、今日を乗り切るよ。だから見ていてね。あの高層マンションからならば、私が今いる市民ホールは臨めるだろうから。


 私、やってみせる。「何を?」なんて野暮なことは聞かないでよ、小百合。もちろん不安はある。だって、私だ。私は小百合を除くとボッチであり、彼氏もいない。デザインの腕も飛び抜けて秀でているわけでもなく、仕事の時以外は引きこもりという生態。外見も、最近はお世辞で「可愛い」と言われることこそあれ、実際は十人並みかそれ以下である自覚がある。でもそんなロースペックの私がここまで来れた。だから後はやるだけ。とにかく、やってみせるんだ。


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