妻の意志
「すぐに終わる、そう脅えるな」
宝珠を取り戻した黒龍様と入れ変わるように、朝陽が意識のない
「
「
助けになれないなんて、そんなこと、ない。私のところに兵士が来ないように、ここで止めおいてくれていた。結界が崩れた瞬間、風鬼さんが来てくれたのは、龍がここで守ってくれていたから。
「痛むか」
朝陽が腕に触れた瞬間、痛みが和らぐ。ああ、そんなことに神力を使わないで。私を治す位なら、自分を。朝陽、血だらけじゃない。
神力を使わせないようにと腕を引いたが、困ったように頬に触れる手には抗えなかった。言いたいことは涙となって頬を伝う。
「
頬を撫でる大きな手からも、鉄の匂いがする。それでも柔らかく笑い私を気遣う朝陽が、悲しかった。
「弱った龍の神力なんて、要らぬとさ」
朝陽の後ろから、楽しそうな声。これ、黒龍様?
「弱ったのは、誰のせいだと思っている?」
舌打ちをしながら朝陽が応戦するが、その声は何故だか少し楽しそうだった。
兵士は、どうしたのだろう。朝陽の肩から顔を出して覗き込めば、そこには数十人の兵がうめき声一つ上げずに倒れている。なに、これ。これ全部、黒龍様が?
「当たり前だ、龍の神力を取り戻せば、徒人などどれだけいようと何の役にも立たぬ」
舌打ち交じりに金の瞳が私を見つめる。これだけのことが、龍には出来るのだ。
「生きて、いるのですよね」
これだけの兵士が、誰一人声すらもらさず、身動き一つしていない。不安と恐怖が胸を締め付ける。
「龍は、徒人を傷つけぬ」
吐き捨てる様な言葉。河北に捕らわれていた理由も知っていたのに、馬鹿なことを聞いてしまった。兵士たちは、意識はなくとも無事なのだろう。
いつの間にか、月はすっかり沈んでいた。
河北の結界は崩れ、黒龍様は自由を取り戻し、宝珠も黒龍様の元へ戻った。
「紫陽さん、は?」
「まだ、生きている」
まだ?まだって、どういうこと?黒龍様の言葉が私の頭をグルグルと回り、紫陽さんの気配を必死で探るが、生きているのかすらもわからない。情けない弟子で、本当にごめんなさい。私では、助けられない。
「黒龍様」
うるさい、と言うように視線だけで返事をされた。集中しているから静かにしていろってことですよね。わかっているのですが、これだけ聞いてください。
「月が沈み、宝珠は黒龍様の元に戻りました。黒龍様が私と交わされた約束、私が黒龍様と交わした約束は違えることなく果たされました。ですが、約束を交わすこともなかったのに、ただ一人で紅河を止めた紫陽さんを、どうか助けてください」
「……」
「お願い、します」
「……今この地で、誰一人死なせるつもりはない」
まっすぐに前を向く金の瞳が、揺れていた。
「黒龍様なら、すぐに取り戻す。弟子の其方がそんな顔をしていては、師匠である紫陽の立場が無かろう」
いつの間に来たのか、風鬼さんがすぐ後ろに立っていた。そうだよね。大丈夫。黒龍様はまだ生きていると言った。どれだけ紅河の神力が強大でも、龍神にかなうわけがない。大丈夫。
無言で歩き出した黒龍様の後を追い、今朝来た道を逆に進む。河北を囲む水路を越えれば、そこにあった色とりどりの野菜を育んでいた畑は、とうてい畑と呼べるものではなくなっていた。兵士が攻め込むときに踏み散らしたのだろう。
その畑を慈しむよう眺めてる人影。顔など見えなくともわかる。紅河だ。
「紫陽を、返せ」
黒龍様の澄んだ声が闇を裂き、瞬きの間に龍の姿に変わった。金色の瞳をした龍は、流星よりも早く紅河に向かうが、紅河にその爪が届く手前で、龍の動きがぴたりと止まる。まるで、何かに縛られているかのように動きを止め、低い唸り声を漏らしながら、苦しそうに身体を震わしている。
龍よりも強い、神官?これが、紅河の力?
するどい風が張り詰めた空気を裂いて、龍の元へ向かうが、風は龍にも紅河にも届かない。
刃のような神力が、向きを変えられた風に乗って向かってくる。どうしよう。どうしたら。
「雪花、案ずるな」
朝陽の穏やかな声が闇に響き、大きな背は、紅河から私を隠してくれた。視界から消えただけ、すぐ側にいる。わかっているけど、朝陽の背に隠れることで息ができる。
『案ずるな』その一言で、私の壊れかけた胸は穏やかになった。
「雪花。怖ければ、目を閉じていなさい」
言葉が終わる前に、朝陽の形が崩れていく。広い背も長い腕も緑の鱗に覆われ、黒龍様よりもずっと大きなその身体は、月の光をまとい、闇を滑る。これが、朝陽。龍庭を守る、龍神様。
怖くなどない。姿が変わっても、朝陽だ。目を閉じるなど、するものか。
大きな咆哮が闇に響き、はじかれたように黒龍様が地に落ちた。悔しそうに地面をたたく龍の尾は、地割れを誘い、風が地面から強く吹きすさぶ。
「風鬼、黒龍。人を守れ。雪花、其方はこの場を去れ」
その声を聴いた瞬間、身体が浮いた。風鬼さんの、風。意識のない珠樹も、一緒に空を飛ぶ。
「退くぞ」
黒龍様の悔しそうな声が闇に響き、細い腕が私を抱く。それを見届けた緑の龍が、真直ぐに紅河に向かう。紅河は、ひるむことなく印を結び、雷を呼ぶ。雷と、雨と、風。これは、人の戦いではない。
「ごめんなさい。私、ここに残ります!降ろして!」
震える声で、精一杯叫ぶ。私の耳に聞こえる風の音は、ふざけるな、とでも言うように唸っている。そうだよね。黒龍様も、風鬼さんも、残りたいのに、私たちを助けるために退かなくちゃならない。それなのに、守られるしかできない私が残るなんて、許せないよね。
でも……。
「私は、緑龍の妻です。ここで、一緒に」
だって朝陽は、紅河よりもずっと強い。黒龍様を苦しめて、龍庭から春を奪った紅河をすごく、憎んでいる。このままでは、紅河を殺してしまう。人を、殺してしまう。朝陽は、人を殺したいなんて思っていない!
自惚れかもしれないけれど、私の前なら朝陽は人を殺したりしない。
「何を言っているか、わかっているのか?」
黒龍様の静かな声。わかっています。それでも、譲れない。
「私は緑龍の妻、緑龍は、私の夫です」
私が残る事で、朝陽は自分の気持ちを殺す。黒龍様を捕らえ、傷つけ、龍庭から春を奪った紅河を、殺したいほど、憎んでいる。
でも、駄目。朝陽は人を殺したら、駄目。
たとえ、雷と風と雨が戦っていても、人がいる場所ではなくても、朝陽がここに居るのなら、妻である私が、いてはいけない理由などない。
「私は、緑龍の妻です!」
「……わかった」
風鬼さん大好き。そう思った瞬間、私の身体は地に落ちた。痛……。もう少し優しく降ろしてくれても、なんて恨み言は言っていられない。
すでに紅河は、朝陽の目の前だ。紅河の顔が苦しそうに歪んでいる。雷が、朝陽の背中を打つが、全くかまう様子がない。このままだと、朝陽の手で殺してしまう。
「朝陽! 朝陽!」
声など届かない。私の叫びは、雨音に消されてしまう。
雷とともに空を舞う龍からは、地を走る私など映らない。
私の声を届けるには、朝陽の目に映るには、どうしたらいい?
「……ファ。雪花」
この、声。
「紫陽、さん?」
いつの間に来たのか、後ろから肩を掴まれた。その腕からは鉄の匂いが立ち上り、息遣いも荒く、普段の余裕のある表情は見る影もない。それでも、生きている。
「緑龍が、逃がしてくれた。すまぬ、紅河を止めることができなかった」
黒龍様でも、風鬼さんでも触れることすらできなかった紅河。人である紫陽さんに止められるわけがない。
「朝陽が、紅河を殺してしまう」
「……龍の誇りを傷つけた事は、許されることではない」
誇りは、傷ついただろう。神力を奪い、守ってきた民の心を惑わせ、龍の身体を捕らえた。許されることではないのかもしれない。それは、わかる。それでも、駄目なんだ。
「朝陽に、私の声を届けたい。どうしたら、届くのでしょう」
「今の緑龍に言葉を届けることは難しい。雪花、其方はこのまま退け」
退けって。退いたらどうなるか、紫陽さんにはわかるはずなのに。
「退けません」
「緑龍の望みをかなえることも、妻の、其方の役目ではないのか」
「紅河を殺すことが、朝陽の望みではないはずです」
朝陽は人を傷つけることを望んだりしない。後で必ず悲しむことになる。
「紅河は、龍の力で民を殺めようとした。報いは、受けなくてはならない」
「そんなの、朝陽には関係ない!報いなんて、龍は望まない!私は、朝陽の妻は、朝陽が紅河を殺す事を望まない!」
幼子が駄々をこねる様な私の叫びに、紫陽さんは呆気にとられたように黙り込んだ。
いくらでも、呆れてください。
全部終わったときに、朝陽が笑ってくれるなら、私はそれでいいのです。
「今の緑龍が加減をするには難しい相手だ。其方が声を届けることで、緑龍が倒れても、良いと?」
それは、嫌です。
確かに、今の朝陽は弱っていると思う。でも、それでも。
「朝陽は、私を守ると言いました。ならば妻の私は、朝陽の心を守ります。だから、どうか、私の声を朝陽に」
「そうか」
溜息を洩らした紫陽さんが、両手で印を組み、何やらぶつぶつと唱え始める。その声は、どことなく私を捕らえたときの紅河の声に似ている。
「叫べ、其方の声を風に乗せよう」
風に乗せる。それなら、届くのだろうか。
「ちゃぁおぉやぁん!」
届け! 届け! 届け!
「朝陽! 朝陽! 帰ろう! もう、帰ろう!」
貴方も一緒に、帰ろう。
美羽の桜の元に、帰ろう。
お願い、届いて。
一瞬、風が止んだ。
龍の透き通るような緑の瞳が、私を射抜く。私を、見た。瞳に、朝陽の意志を感じる。
「かえ、ろう?」
その瞬間、朝陽の身体にひときわ大きな雷が走った。朝陽の身体が、地につき、苦しそうな声が闇に響く。
私には当たっていないのに、衝撃が身体を貫き、全身が痛い。紫陽さんが私を腕に抱き、印を結び、守ってくれる。ああ、私、何もできない。
紅河は、地に落ちた朝陽には目もくれず、真直ぐに紫陽さんを見つめている。その瞳は、怒りでも憎しみでもなく、悲しみをたたえているように見えた。
「紅河は、紫陽さんを知っている?」
私の声は、きっと誰にも届かないくらい小さかっただろう。それでも、紅河には届いた。
「其方より、ずっと、知っている」
呟くような小さな声。その響きは、何故か私の胸を裂いていく。
この人、悲しい。
なぜそう思ったのか、わからない。でも、涙が止まらない。
「怖いか? ならば、退け。後は追わぬ」
静かに響く紅河の声に恐怖は感じなかった。私を傷つけるつもりはない。それはきっと、本当の事。
「雪花、緑龍の側へ」
紫陽さんに背中を押され、私の意志とは関係なく足は朝陽の元へと動き出した。
私よりもずっと大きな体の龍は地に横たわっている。時折、ビクリと身体を動かすだけで、瞳は開くことは無い。
「朝陽、ごめんね。何もできないのに、余計な事ばかりして、ごめんね」
熱を持った固い身体をさすりながら、涙が止まらない。ここで泣いたらずるいと思うのに、止まらない。
どれくらいそうしていたのだろう。一瞬だったのか、長かったのか。
柔らかく揺れる緑の瞳が、私を見つめていた。
「泣かずともよい。其方は正しい。紅河を殺めたら、永く後悔するであろう。わかっていたのに、己では止められなかった。助かった」
紡がれるのは、私への労り。朝陽の心が、痛い。
「間男は、どうした?」
「風鬼さんの風で、ここを離れました。きっと、黒龍様も一緒に」
「其方は、なぜ残った?」
鋭く放たれた言葉。朝陽、怒っている?
「私は、妻なのでしょう?」
何もできないけど、迷惑かもしれないけど、側に居させて。願いを込めて、言葉を返す。
「……そう、だな」
いつもの柔らかい口調で、龍の大きな顎が私の肩に乗る。甘えるようにすり寄ってくるのが、嬉しい。こんな時なのに、嬉しい。
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