龍の加護
急がなくてはいけないのに、痛みを訴える身体は思うように動いてくれない。もどかしさをこらえながら龍の気配をたどり、一歩ずつ確実に闇の中で歩みを進める。
「ここ……?」
土間の隅に植えられた小さな紅葉の木。その根元からは龍の気配が立ち上っている。昼間、この土間のすぐ外で紫陽さんが薬草を広げていた。側まで来ていたのに全く気付かなかった。
力足らずの自分が情けない。でも、そんな反省は後でいくらでも出来る。今は、とにかく宝珠を。
「どうして、あなたはこの村から夏を奪うの?」
悲しそうに震える声が闇に響く。いつからいたのか、村長の娘が紅葉の前に立ちふさがっていた。
『夏を奪う』幼子の口から出たその言葉は、とてつもなく重い。春の訪れを心待ちにしていたからこそ、私にもわかる。揺れる瞳に、思わず謝ってしまいそうになるけど、駄目だ。
私は、河北から黒龍様の宝珠を取り戻し、龍庭に穏やかな春を呼ぶ。
絶対、迷わない。迷うものか。
「これは黒龍様の宝珠。黒龍様が生きていくために必要な物なの。だから、黒龍様に返そう?」
それが彼女の心に届かないことはわかっているのに、他に言葉が見つからない私は本当に情けない。紫陽さんなら、朝陽なら、もっと違う言葉をかけて彼女を鎮めることもできるのだろうか。
「それを返したら、この河北はまた春も夏もない、冬だけの地になってしまう。姉様たちは皆売られてしまう。死んでしまう。黒龍様が死にたくないように、私達だって死にたくなどない。どうして、いけないの?」
幼い子供のものとは思えない、重く切ない叫び。きっと、河北の民全てが、同じ思いなのだろう。私だって、母に捨てられたのがこの河北なら同じことを思うかもしれない。それでも。
「それでも、宝珠は黒龍様の物なの」
私の言葉が終わるよりも前に、風鬼さんと同じ顔の少女が右手を振るい炎を放った。こんなことが、出来るの?
穏やかに説得できなかった自分を、全力で後悔した。相手が幼い少女だとわかっていたのに、河北の厳しい暮らしを知っていたのに、どうして話し合う材料を持ってこなかったのか。龍を退ける結界を張る事ができ、ただ一人で宝珠を守る任についている少女とまともに戦っても叶うわけなどない。
全力で後悔したところで炎は消えてはくれない。熱い。苦しい。でも、逃げ出せば二度と宝珠に近付くことはできないだろう。
珠樹と約束したんだから。二人で帰るって。邪魔、しないでよ。
「宝珠を返さなくたって、河北は夏の来ない地に戻るわ」
今の私に出せる精一杯の声で叫んだ。一瞬、本当に一瞬だけど、炎の勢いが弱まった気がする。行ける、かも。
「宝珠があれば、河北はずっと穏やかな気候が続くの。誰も飢える事の無い地になる」
何を言っているのかと赤い唇で弧を描くが、瞳は笑っていない。これほどの神力を使えるのだ。どれだけ幼くても気が付かないはずがない。
「どうしてそう思う?あの宝珠は、黒龍様の命。このままここに置けば黒龍様の命はつき、宝珠も力を失うでしょう。そうしたら河北は元の寒村に戻り、主を奪われた風鬼が、友を奪われた緑龍が、この地に災いをもたらすでしょう」
ごめん、朝陽、風鬼さん。悪者になってもらった。でも、全部嘘なわけじゃない。風鬼さんは、黒龍様が止めなければ村を滅ぼしていたかもしれないんだし。
彼女の瞳が泳ぎ、脅えが伝わってくる。そんな彼女を守るように、炎は勢いを増して私に向かってきた。
「黒龍の命が尽きる前に、私の神力を高めて夏を呼ぶ。この村は、豊かな村になるのよ。誰も飢えることの無い村に」
強く放った言葉は、心からの願い。でもね、龍ですら命をかけなければ季節を変えることなどできない。たとえどれだけの神力があったとしても、人ができるはずがない。わかっているのでしょう?と諭せば炎はまますます私の肌を焼こうとする。
熱い、熱い。それでも、逃げ出すわけにはいかない。
朝陽、助けて、力を貸して。胸の中で繰り返し朝陽に助けを求める。
ごめん、情けない妻でごめん。でも、助けて。
熱くて、苦しくて、珠樹から受け取った紙が手から滑り落ち、炎に触れた。その紙は燃えることなく灰色の霧を作り、私達の周りを包んでいく。肺を焼くような熱気は下がり、霧に触れた炎が急激に勢いを弱めていく。これ、朝陽の神力?朝陽の加護?
少女は、突然現れた霧にまかれ動けない。炎を操っていた右手は、今はだらりと下を向いてる。
「これが、龍の力。離れていても、結界に入れなくとも、貴方の炎など龍には無意味。黒龍の加護がなくなれば、怒れる緑龍に貴女が勝てる道理はない」
思いつく限り、言葉を紡ぐ。たぶんこの霧は『龍の力』であっていると思う。
龍が姿を見せずとも、その力は炎から私を守り、少女の動きを止めてくれた。
少女が動けないうちにと、宝珠が埋まっている紅葉の根元に手を入れた、瞬間。
「熱い!」
炎はない。朝陽の加護である霧も、私を守っている。それでも、土に触れた手が焼かれるように熱い。少女が、ホッとしたように笑う。
「私だけが、宝珠の守りと思ったか?宝珠には、紅河様が結界を施してある。たとえ私が龍に勝てずとも、紅河様の結界がこの村を守ってくださる。河北に穏やかな春と、夏の恵みを下さる」
その言葉に、何か違和感を覚えた。少女は、この地が飢えに苦しまずに済むことを切望している。何かが、違う。
そう、紅河はこの村を捨てるつもりだ。『作物の実る地に強き民を移す』と言っていた。
「紅河は、河北を捨てるつもりよ。豊な隣国が手に入れば、もっと暖かいところで作物を実らせる。貴方の望む未来を紅河は、見ていない」
そう、彼の見ている未来は、ただただ『強い国』。少女が見ている未来は、この地が豊かになること。産まれたこの地で、飢えることのない暮らしを願っている。
「……この河北の地を捨てる?紅河様が?」
嘘だ、と言いながらも顔が歪み、霧の向こうでわずかに揺れていた炎が沈んでいく。思うところは、あったのだろう。少女の胸の痛みが、伝わってくる。
少女に心の迷いがあっても、私の神力ではそれを具現化することはできない。できることと言えば、朝陽の加護を使う事だけ。
「緑龍の命を受ける霧よ、緑龍の妻たる我の命に従え」
私の言葉に従うように霧は少女を包み、少女は両手で顔を覆って泣き出した。彼女は今、紅河に捨てられた春の来ない河北を見ているのだろう。何度か頭を振って、そのままその場に倒れ込んだ。
ごめんなさい。酷い事して、ごめんなさい。それでも、少しの間眠っていて。
土間には炎はないはずなのに、勢いのある炎に手を入れているように熱い。土を掘る指は、もう落ちてしまったのではないかと思うぐらいに痛み、自分の意志では指だけを動かすことができなくなっている。
まだ? どこまで深く埋めたっていうの?
「雪花、この中、か?」
いつの間に来たのか、珠樹が横にいる。穏やかな声。
「珠樹。大丈夫だった?」
「ああ、札を、張り付けてやった」
笑って見せるが、それは簡単ではなかったのだろう。息は乱れ、着物は裂け、身体からは鉄の匂いが立ち上る。それでも、焼けただれ赤くなった私の腕をとり、代わりに自分の手で土間を掘り始める。
駄目、だよ。珠樹。駄目だ。
「少し代わるだけだ、少しだけ。だから、大丈夫」
痛みで声も出せない私を見ることなく、そのまま掘り続ける。
大丈夫なわけない。手を入れた瞬間、顔が歪んだのは気のせいなんかじゃない。
それなのに、痛みを訴える私の腕は、珠樹が変わってくれたことを素直に喜んでいる。
ごめん、珠樹。
珠樹の大きな手は、どんどん深く掘っていく。深くなればなるほど、結界の守りは強固に変わり、受ける痛みも強くなっていくはず。なのに、珠樹はうめき声一つ上げずに掘り進める。
あ、もうすぐ。
龍の気配を珠樹の手に感じた瞬間、珠樹の肩が大きく揺れ、身体は弾かれるようにのけぞった。
「珠樹、大丈夫?」
龍が、珠樹を拒絶したんだ。
「ああ、ちょっと痛かった。驚いた」
笑っているけど、ちょっとじゃないでしょう?
ここまで掘るのに、どれだけ痛かっただろう。
「代わる」
再度土の中に手を入れようとした珠樹を制して前にでる。
腕を差し入れた瞬間、叫びそうになるぐらいの痛みが走った。掘っていないのに、そこに手を入れるだけで腕が雷に打たれたように痛い。これ、珠樹はずっと我慢していたの?
でも、心配そうに見つめられている視線を背中に感じる今、痛いなんて言えない。
神力があるから大丈夫って、思ってほしい。
ゆっくりと、龍の気配へと掘り進める。珠樹を拒絶した龍は、私のことは受け入れてくれるらしく、近づくほどに、指先に血が戻っていく感触がある。
指先にあたった滑らかな感触に、涙が出るほど嬉しくなった。あった。黒龍様の、宝珠。
宝珠を取り出した瞬間、周りの空気が変わった。
淀んだ熱気は急速に冷え、炎から私を守っていた霧を強い風が薙ぎ払う。強い神力にあたったせいか、珠樹の身体がゆっくりと崩れていくのが見える。
「雪花、よくやった」
耳に届いた声は、風鬼さん。小さな手で、私ごと宝珠を抱きしめる。結界の中に入って大丈夫なの?不安が顔に出たのか、柔らかく笑ってくれる。
「河北の結界は黒龍様が解放されたと同時に崩れ、この家を守る結界は、今崩れた。早く、其方の手で黒龍様の元へ」
言葉が耳に届くかどうかで、私の身体は強い風にあおられ、空を舞う。
待って、これ、宝珠が落ちる。痛みでうまく動かせない腕はあきらめ、宝珠をお腹に抱えて身体を丸める。早く、早くついて。
ドサリ、と重い音がしたが私の身体はいたって柔らかく落ち着いた。不自然に丸まった身体を細い腕が支えてくれている。
「待ったぞ」
ああ、はい。お待たせしました。遅くなってごめんなさい。
だって、結構大変だったのよ?もう少し労わってくれても、ねぇ。
思わず胸の中で悪態をついたが、目の前の黒龍様とて大変だったのだろう。髪は乱れ、ところどころ着物は裂け、むせかえるような鉄の匂いがする。宝珠の側では少女の声以外の音がなかったというのに、ここは怒号が飛び交い、人の悪意が空を覆っている。
ごめんなさい。遅く、なりました。
ゆっくりと降ろしてくれた黒龍様に、お腹に抱えていた宝珠を差し出す。口の端だけで笑い、宝珠に手を伸ばす黒龍様には、少年のあどけなさなんて欠片もなかった。
宝珠は、音もなく黒龍様の胸に沈む。
「緑龍、残しておけ」
笑いながら視線を送った先には、朝陽がいた。黒龍様ほどではないが、髪を乱し、息を上げ、足元に倒れている珠樹をかばうようにしながら、剣を振りかざす兵を相手に立ちまわっている。兵士が、黒龍様の側に来ないようにしてくれていたんだ。
その姿は、いつもの穏やかな朝陽からは想像もつかない。
地面には何人もの兵士が倒れているというのに、戦意を失うことを知らない者達が次々に朝陽に向かっていく。その顔には、恐怖も意志も何も感じられない。
生きている人間なのに、生を感じない。生きようと言う意志を、感じない。
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