残響


 無数に点ったキャンドルの灯は、揺らめく陰影を幾つも作り出している。それらは店内を縦横に飾り付けたサテンの光沢と、開帳された天鵞絨のカーテンの上で踊っていた。

 舞台上では、木床に踵を打ち付ける足音が忙しなく行き交っている。時折、シンバルの微かに鳴る音、或いは重い楽器を静かに置く音が加わった。

 場所が場所なので、と事前に紫乃から言われていた通りに、三人は襟付きの服を着ていた。昴は所在無さげに、羽織っていたジャケットの襟を引っ張る。メンソールの入った煙草の煙たく苦々しい臭気、揚げたばかりのポテトチップスの匂い、アルコールの鼻腔を刺す香り等々が押し寄せてくるせいで、何となく落ち着かないというのもあった。

 「俺、場違いじゃないかなぁ。」

 席に戻ってきた紫乃に声を掛ける。彼女は、ミネラルウォーターのペットボトルをポシェットに仕舞いながら言った。

 「大丈夫だよ。むしろ、もっとカジュアルな格好で良かったかもね。だってほら、あの席の人だって。」

 細い指の指す先にいた若い男性は、和やかに談笑をしながらジーンズからハンカチを取り出して眼鏡を拭った。

 「ほんとだ。」

 「それより、鼻は大丈夫なの?」

 机の上にのっていた、微笑んでサックスを抱えている小さな牛のオーナメントを玩びながら、綾太は昴を振り仰いだ。

 「今のところは何とかね。綾太こそ、結構うるさいんじゃない?ここ。」

 「僕も今のところは平気。」

 牛を“Happy New Year !!”と、ステージ上の垂れ幕と同じ字体で書かれたプレートの横にそっと戻してやりながら綾太が答えた。

 「二人とも問題無くて何より。」

 空のグラスを弾いて紫乃が言う。周囲は同じように高く澄んだ硝子や食器の触れ合う音と、談笑のざわめきが満たしている。

 不意に店内の照明が落ちる。壇上だけが明々とスポットライトに照されたそこに、細身のドレスを纏った女性が現れると席からは大きな拍手と口笛が高らかに鳴った。グランドピアノが、ドラムが、アルトサックスが、一斉に演奏を始めるその間際。

 ───何かあったら、直ぐに教えて。

 沈んだように暗いフロアの中で紫乃の瞳が妖しく瞬いた、ような気がした。

 ◆◆◆

 恐らくはジャズ、と呼ばれる曲なのだろう音楽が軽快に流れている中で、綾太は頬杖を突きながら耳を澄ませていた。斜向かいの男女が不機嫌そうに会話しているのは女性の遅刻が原因だということ、後ろの席の老女達は高校の部活動が同じだったこと、カウンターの中で、新人らしき店員が手を滑らせてスプーンか何かを落としたこと。

 一曲目が終わり、拍手が歌手に降り注ぐ。にこやかに諸手を挙げると、すぐに二曲目の演奏が始まった。ここまで何もない。恙無く音楽は奏でられ、人々はそれを楽しんでいる。何もない、今のところは。

 周囲を見渡しながら、昴はゆっくりと匂いを吸い込んでみた。やはり、辺りに充満するアルコールや煙草の臭いは強く、容易に鼻腔に張り付いて邪魔になる。一度、それを振り払うように首を振り、今度は瞼を閉じて嗅ぐことに集中した。

 ホールを動き回るウェイターの体臭が、軌跡のように流れてくる。厨房の扉が開閉すると、調理された食材と洗剤の匂いが同時に広がって昴まで届いた。遅れてきた香水まみれの客を通すために、ホールへの扉が開くと冷たい空気と凍った水の匂いとが滑り込んでくる。どうと言うことはない、浮かれた賑わいと新年を迎える喜びとが充ち溢れた至極平穏な一時。

 そこで、綾太と昴は同時に紫乃の腕に触れた。

 「ビニールと紙の燃える臭いがする。」

 「焚き火みたいな音がする。」

 ◆◆◆

 四曲目の最中に急いで席を立ち、ドアの側に控えた店員の前を駆け抜ける。後ろからは声一つ追いかけて来なかった。ホールの扉を思い切り開け、音と臭いを追って三人は駆けていく。

 曲がり角を左に折れると、地階は既に炎に呑まれていた。蠢く蛇か、舌か、あるいは未知の生き物のように灼熱は天井を舐めて床を這っている。炎に囲われた階段の前で、三人は思わず立ち尽くす。

 ───助けて!!

 激しく鉄扉を叩く音と若い女性の悲鳴で、真っ先に動いたのは昴だった。ほぼ飛び降りるようにして、無造作に段ボールやプラスチックケースの置かれている階段を降りてドアの前に立つ。

 昴は躊躇わずに鉄のドアノブに手を掛けた。焼けた金属に触れた掌から、煙と人の脂が焼ける悪臭が立ち上る。痛みは皆無に等しいものの、焼け付く手には次第に力が入り難くなっていく。

 「昴さん!!」

 紫乃は叫ぶなり、ハンカチを結びつけたミネラルウォーターのペットボトルを昴に投げて寄越した。濡らしたハンカチを巻き付けて再度ドアノブを握ってドアを開こうと試みる。

 ───助けてくれ!!!

 今度の悲鳴は男だった。他にも、扉の向こうで何人かの咳き込む声がする。ごうごうと燃え盛る炎の音、ぱちぱちと火の粉がはぜる音に掻き消されそうな程に弱かったけれど。

 「今行くから!」

 叫び返して、今度はドアノブを捻ったまま肩から扉にぶつかった。そうやって僅かに、扉と枠の間に隙間が出来る。それでもまだ、開かない。

 「どいて!!」

 声を張り上げながら、いつの間にか唐織で身体を包んだ綾太が昴の横に滑り込んできた。余った袖の部分を右手に巻いてドアノブを握り込むと、殴り付けるように扉を向こう側へ押した。

 凄まじい金属音が重く鳴り響いて、鉄扉が枠から外れた。そのまま、二人は扉の向こう側へと雪崩れ込んだ。 ここには従業員用の通路や休憩室がある。火の手はそこから上がっている、間違いなくその筈だ。

 ◆◆◆

 飛び込んだ勢いのまま、昴は強かにブロック塀に額を打った。塀に弾かれて振り仰ぐ格好になった視界に、雑居ビル同士の隙間から冬空が見え、小さな星々がささやかに瞬いている。

 「…えっ?」

 綾太の、衣を被るまで熱風に曝されていた白い額に、汗で濡れた髪が一房張り付いていた。困惑と共に吐き出された息が凍りついて白く染まった。

 後ろを振り返る。後ろには開け放たれたアルミ枠の薄いドアがあって、その奥には殺風景な細い階段が上へと続いている。暗い壁面に貼られた紙には『通用口につき物を置かないで下さい。』と文言が記されている。

 「どういう事…?」

 戸惑ったままの綾太に返答する余裕も無く、昴は震える声で呟いた。

 「っ、紫乃。」

 視線をさ迷わせ、もう一度階段へと足を踏み入れる。慌てたように綾太もそれに続いた。塀に背を向けた瞬間、噴き上げるような熱風が二人を呑み込んだ。綾太は唐織で昴ごとくるむようにして、昴は綾太を抱えて階段を駆け上がった。

 入れ替わりに、防火服を纏った消防隊が狭い階段を駆け下りてくる。人一人がやっと通れる程に幅の狭い階段を、お互い───すり抜けて、行き交う。

 口元を覆った手を離し、紫乃が目を見開いて何かを叫ぼうとした。昴は更に加速して、殆ど飛び込むようにして紫乃と綾太を抱え込んだ。唐織が三人をすっぽりと覆う。消防士の怒号と、鉄扉の叩き壊される音が背後でした。

 膨れ上がった炎が、全てを飲み込む。

 ◆◆◆

 鉄柵に腰掛けて、紫乃は暖かい紅茶を啜った。皆一様に黙ったまま、コンビニの寒空に白熱する明かりを眺めていた。

 「…二人には嫌な思いをさせちゃっただけだったね。」

 呟く紫乃に、昴が振り向かずに言った。

 「気にしないで。しっかり下調べもして、話も事前にしてくれてたじゃないか。」

 綾太も、ビニールの包みからウエハースの欠片を払いながら静かに言った。

 「誰も悪くないでしょ、今回に関しては。…やっぱり、昔あったことはどうしようもないんだね。」

 徐に紫乃はポシェットから、カードを取り出す。招待状の体を保っているものの、地図と何かのクーポン券が付いているので、ビラとほぼ変わらない。元は鮮やかな白と赤だった用紙は一日ですっかり色褪せている。

 貰ったのはつい昨日だ。通りかかった雑居ビルの前でアルバイトと思しき青年に渡された。『Count Down Jazz LIVE』、開催の日付は───1996年12月31日。

 「呼ばれても、私達にはどうしようもなかったのね。」

 当時、出火元となった地階へ紫乃は事前に足を運んでいた。死者、怪我人共に甚大だった大晦日の火災は、容易に詳細な記事を見付けられた。三人はそれを共有していた。

 ホールを出、角を左に折れてすぐに階段がある。店員に見咎められる事も厭わないつもりだったのに、扉の先にあったのはコンクリート塀と冬空だけだった。

 1997年を祝う垂れ幕、微笑む丑、真横を駆け抜けても気付かない店員。消防隊員の、細部が滲んだように朧気な面差し。

 「結局、擦り切れつつある記憶でしかないんでしょうね。あれは。」

 静かに言って、紫乃はスマートフォンに視線を落とす。何かの役に立つかと、予め起動させていたボイスレコーダー機能で録っていた音源を再生させていた。どれだけ音量を上げても、全くの無音だった。だが、音源を再生している事を示す波形は画面に波を描いていた。

 激しく揺れる波形を、三人は黙って見つめていた。そうして聴こえない音を想う。あの場にいた人々のざわめき、食器の触れ合う音色、奏でられる旋律、吹き上がる炎の轟音、咳、怒号、そして悲鳴。

 ───過去に留められたままの残響を。

 

 

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忌わく憑き @sumi_uran0

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