紫陽花
絹糸のような雨が、静かに降っている。小さな音楽プレイヤーに繋いだ片耳だけのイヤホンからは天気予報のラジオが流れていて、この屋根を叩く雫と、せせらぎのように細やかな雨音が明日まで続くことを報せていた。
イヤホンを外して、膝を抱え込む。冷たく湿った空気に散々さらした脚は、すっかり体温を無くして強張っていた。脛の辺りをまだ温もっている手でさすりながら、綾太は水に煙る庭を見た。
青みがかった灰色に霞む中庭に、赤紫が滲んでいる。仄暗い景色のなかに幾つも咲く紫陽花は布に滲む染みのようで、花にしては些か陰鬱に綾太の目に映った。
「お天気、悪いわねぇ。」
ぱちん、ぱちんといやに淡白な音を立てながら尼僧は羊歯の茎を切り、鉄仙の隣に生けた。黒檀の、重苦しい威圧感を放つ仏壇が鎮座する部屋の中に、生けた花の白さがぼんやりと浮いている。
「夜酷くなって、また明日も降るって。」
イヤホンを外してプレイヤーへ巻き付けながら綾太は言った。えぇ、という尼僧の面倒臭そうな声、そして、古い無垢材の軋む音を聞く。
「遠くからお越しになって、丁度お帰りになる時に憂鬱ですね。」
木戸を開け、和装の女性が室内に入ってくる。綾太はまじまじとその姿を見る。きっちりと締めた帯の鶴が見事なこと、端正な面差しと頬の白さ。品の良い微笑みと化粧で隠そうとしている、どこか疲れたような表情。
「毎年、ご足労をお掛けしてしまい申し訳ありません。檀家でもないのに、こんなに良くして頂いて。」
「あら、そんなことないわよ暁美ちゃん。この辺りは自然も豊かで長閑だし、ちょっとした旅行だと思ってるから。友達が民宿をやっていてね、顔を見がてらそこに泊まっていく時もあるの。だから、いつも楽しいくらいよ。」
ね、とにこやかに綾太を振り返る。綾太は側に置いた旅行鞄に手を載せて、黙って頷いた。暁美はその様を見、少しだけ泣きそうな、酷く申し訳ないといった様子で和紙の封筒を惠嘉に手渡した。
惠嘉は封筒をそっと受け取った。度々、寺の玄関口で檀家が御布施を持ってくる所を綾太は見ていたが、今まで見た封筒よりも厚いような気がする。惠嘉もそれを知ってか、心なしか後ろめたいような顔をしてそれを仕舞った。
「では、そろそろお暇します。」
言って惠嘉は立ち上がる。会釈をし、綾太もそれに倣った。そのまま、暗い廊下を連れ立って歩き、玄関から外に出る。綾太はふと家の方を振り返った。
見送りについてきた暁美が、暗い家の中に独り佇んでいる。美しい鶴の刺繍と白い顔に闇が被さって、それはひどく朧気だった。
暁美と目が合う。あの悲しげな瞳はなんだろう、と綾太は思う。何なのだろう。あの、思い詰めたような眼差しは───。
◆◆◆
ごうごうと遠くの方で唸るような雨音が、横たわる綾太を包み込んでいる。色褪せた天井画と、視線を動かせばあの仏壇が、そして床の間には羊歯と鉄仙が見て取れる。夜半の古い和室は時折家鳴りがして、しかしその音は精彩を欠いて響かない。
水越邸を後にして向かった民宿は騒然としていた。突然、民宿の主人が倒れたという。二人が辿り着いた時、惠嘉の友人は既に病院へ向かうタクシーへ飛び乗ったと近くの菓子店の店主は教えてくれた。
帰ろうと駅に向かえば、今度は激しくなった雨の影響で電車は終日運休になったそうである。代わりの宿泊先は、生憎と足止めを食らった人々に先を越され、ビジネスホテルは軒並み満員になってしまった。
そうして、二人はまたこの水越邸に戻ってきた。無理を承知で頼み込めば、暁美は逡巡した後に首を縦に振った。
「ひとつだけ、お願いがあります。」
暁美はしゃがんで綾太に視線を合わせた。
「昼間の部屋、夜は決して君一人で行かないで。寝間も惠嘉さんと同じ所にして頂戴ね。」
約束よ、と暁美はすがるように綾太の両肩に触れた。綾太は黙って頷いた。
綾太と惠嘉はその約束を違えなかった。和室に入るどころか、近寄らないように念を入れて、借りた離れを一歩も出ていない。だが、綾太の視線の先には昼間に惠嘉が生けた花がある。敷いた布団はなく、背中には畳があたって凹凸を感じる。この部屋の何処にも惠嘉の姿はおろか、気配もない。
視線を足元へ向ける。上向きの、ズボンから伸びた自分の細い足が暗闇に染まって青白かった。そこから更に視線を先へ向ける。何もかも夜の濃紺に染まった部屋の、その最も闇の濃い場所。唐突にそこが動いた。
両手をゆっくりと畳について、闇が半身をもたげる。そのまま、ふらふらと揺れながら膝を立てて立ち上がる。覚束無い足取りで、人影は綾太に近付いてきた。
踵が畳を擦る音が徐々に大きく近くなる。ざっ、ざっ、という粗い雑音を引き摺るように人影は一歩、また一歩と近づいてくる。畳の縁を踏み、隙間無く編まれた藺草を踏み、そしてとうとう、綾太の投げ出した腕に真っ黒い爪先があたった。つるりとした熱の無い肉と、硬く冷えて食い込むような爪の感触がした。
どっ、と容赦なく人影は折った膝を綾太の薄い腹にめり込ませた。正座のように座り込んだ姿勢のまま、影は綾太の顔を首を異様な角度で傾げて覗き込む。光もないのに蛋白めいた白い眼球が、表情のない黒目が粘りけのある反射光を帯びて生々しい。
綾太はその眼を、鉛でも詰まっているように重い頭を緩慢に動かして見据えた。全身が驚くほどに重く、指先一つ動かすのも酷く億劫だった。人影の冷たい息がかかる。お化けでも呼吸をするのかと、醒めた思考の片隅で思う。黒い顔が近くなり、水の、生き物や藻が攪拌されて腐ったような泥の臭いを微かに嗅いだ。怠い指先が、精緻な織物の糸筋に触れる。
そこで綾太は、自分が歯を剥いて笑った顔をしている事に気が付いた。
───視界を、闇より尚濃い青藍が覆った。
◆◆◆
暁美は弾かれたように文机から顔を上げた。弱くなっていた雨音を、僅かに開いた障子戸の隙間から聞く。夜が明けたのだ、と凝り固まった腰を擦りながら気付く。不寝番をするつもりが、いつの間にか寝入ってしまったようだ。
何か、おぞましい夢を見ていたような気がする。やはり子どもをここへ招き入れるのではなかった、と暁美は唇を噛んだ。すっかり油断していた。ここ数年、親戚付き合いも途絶えて久しい。まだ従姉妹なり遠縁の幼い子どもなりが来ていた時分にも、大人と一緒に過ごし、夜あの部屋に近寄らなければそれで事は起こらなかった。
部屋で一夜を過ごした子どもは、決まって口が利けなくなっている。手足に押さえ付けられたようにうっ血した痕があり、震えて青い顔をして、中には病みついたまま幼くして死んだ者もいたそうだ。
大人達ですら、冗談でも「悪いことをすると、あの部屋へ入れてしまうよ。」などとは言えなかった。暁美も、童子や童女と金文字で戒名を記した古い位牌を何本も見ている。それほどに、忌まわしい部屋であったものを。
あの子は無事だろうか。祈るように、不安に脈打つ胸を押さえながら暁美は廊下へ出た。そして、そこで思わず息を呑む。
───仏間への木戸が、開いていた。
堪らず小走りになり、半開きの扉を開け放つ。足元で昨晩掛けた錠前と、鎖を踏んだ硬い感触があった。縁側に通じる障子窓は大きく開かれ、紫陽花の咲く中庭が視界に広がった。その視界の端、見事な秋草と鳥虫模様が青く輝く。庭を眺めるように縁側の柱に凭れた綾太がいた。その隣に、寄り添うように腰掛けた剃髪の、少し丸まった背中がある。
「綾太くん、惠嘉さん。」
掛けた声は掠れていた。二人が暁美を振り返った。惠嘉は口元に穏和そうな微笑みを浮かべ、綾太は黒目勝ちの綺麗な瞳でじっと暁美を見返した。
「大丈夫、なの?」
しゃがみこみ、綾太の肩にそっと手を乗せる。それを一瞥してから、綾太は紫陽花を指差した。
「大丈夫。」
暁美はその、まだ節のない少年の指先を見た。赤紫の、滲む血痕じみた色はもう無い。紫陽花は露に濡れて瑞々しく、薄い青に染まっていた。
「もう、さいたから、大丈夫。」
二度と無いよ、と綾太は続けて言った。手足に残る鬱血の跡を少しだけ擦って、綾太は暁美に向かって僅かに口元を緩めた。
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