光の窓辺


 ───誰かが、わたしを、揺り起こす。

 断続的な衣擦れの音と、小さな揺れに身体を強張らせながら、抑えたように息を吸い込む。羽毛布団に包まれた温みと冷え切った部屋の空気が入り混じり、肺が僅かに満たされる。

 新しい家に越して来てから、毎朝何者かがあこやを揺り起こそうとする。

 それは初め、家族の内の誰かだとあこやは思っていた。起こす時間を寝惚けて間違えたのだろうと、そう考えながらやり過ごしていた。

 だが、そう思えたのも始めの数回までだ。それは、両親が遠方に住む親戚の葬式に泊まり込みで参列した時も、全く同じように起きた。

 それ以来、何か得体の知れないものと同じ空間にいる、という意識が脳裡に貼り付いて離れなくなった。早朝だけではない。夕方も、夜も、家にいる間は何時も、何者かの存在を意識してしまう。

 否応なしに目覚めた五感に、まだ残る冷えた夜の空気が凍みる。研ぎ澄まされた聴覚が、しんとした静けさを拾って耳鳴りがした。

 薬も飲んだのに、とあこやは暗澹たる気持ちでひっそりと思う。市販の睡眠薬では効果が薄いのだろうか、きちんと医者に掛かった方が良いのだろうか。どの医者に相談すればいいのだろう、精神科か、脳神経科か。おばけが鬱陶しいので睡眠薬を処方して下さい、と堂々と言えるほど、あこやは主張が得意ではなかった。

 ───はぁ。

 漏れ聞こえる溜息は己のものではない。何者かは、毎朝あこやを目覚めさせんと揺さぶった後、思うような成果が得られないと分かるとこうして無念そうに息を吐く。幾度かそれを繰り返すのだ。そして恐らくは、その軽い息の吐き方からして少女だとあこやは想像している。

 ───女の子の幽霊が、わたしを起こして、そして再び眠らせる。

 悍しい空想が止めどなく溢れ出てくる。あこやが瞼を開けると、そこには表情の無い瞳がある。濡れそぼった細い髪が幾筋もまだ稚い白い顔に張り付き、呆けた様に開いた口から水草の切端と汚水が零れ出て、そして───。

 目覚ましのアラームが場違いなほど賑やかな音を立て、あこやは重たい身体を起こした。

   ◆◆◆

 「峯園さん、顔色が悪いよ。」

 司書教諭があこやを覗き込みながら、労るような口調で言った。そう言えば、この大らかで親切な女性教諭は、自分と同じくらいの娘がいると前に言っていたような気がする。あこやはぼんやりとした頭で思い返した。

 「別に平気です。ちょっと夜更かししちゃって…。」

 無理に動かした口角が、上手く上がっていない事に自分でも気が付く。居た堪れなくなって、本を抱えて立とうとすると、華奢な身体がふらついた。

 「やだちょっと平気、じゃないでしょう。清遠さん、悪いけど保健室まで付き添ってあげて。」

 はい、という涼やかな声がして、あこやの肩を白い手が支えた。

 「先輩、すみません。」

 「いいの。それより、歩けそう?」

 紫乃はあこやを支えながら顔を覗き込む。色の白い顔に青黒い隈が見て取れた。寝不足と貧血もあるのか、と紫乃は思考を巡らせる。あこやは時々貧血を起こすことがあるのだと紫乃は知っている。

 保健室に着くと、養護教諭が迎えてくれた。彼女は理由も聞かずにあこやをベッドに寝かせると、紫乃をよく沈み込むソファへ座るように促した。

 「峯園さん、貧血かな?この前も辛そうにして、保健室に来たの。」

 養護教諭は利用者名簿を手ずから書き込みながら紫乃に言った。

 「図書室で委員会の仕事をしていた時に、急にふらついてしまって。…多分ですが、寝不足なのでは無いかと。」

 教諭は相槌を打ちながら名簿を書き終え、そしてカーテンを引いた一画を見やった。

 「ひとまず、落ち着くまで休ませてあげないと…峯園さん、最近眠れてないみたいだったから。」

 「寝不足だったんですか?」

 「そう。」

 薬が合ってないのかしら、と教諭は不安げに呟いた。

 「…薬?睡眠薬、ですか?」

 聞き返す紫乃に、困ったような色を湛えた瞳が向く。失敗を見咎められたような、そんな色だ。

 「峯園さんのプライバシーに関わる事だから、話せないの、話せないのだけど…」

 「他の子には絶対に言いません、約束します。」

 澄み切り、聡く輝く眼差しを教諭は見つめ返した。

 「…彼女、睡眠薬を使っているようなの。その、毎朝起こされる気持ちの悪い夢を見るとかで。」

   ◆◆◆

 「具合、どう?」

 カーテンからひらりと紫乃が現れる。こんな風に、綺麗で優しいお化けならいいのに、と、あこやは寝起きで朦朧とした意識のキャンバスに思い描いて、すぐに描き消す。

 「大分よくなりました。ありがとうございます、付き添ってもらって、すみません。」

 身体をゆっくりと起こしながらあこやは言った。紫乃は穏やかに微笑むと、近くの丸椅子に腰掛けた。

 「起き抜けに悪いのだけど…薬が要る位、眠れてないんだって?」

 「先生、喋っちゃったんですか。」

 あこやの表情が強張った。

 「ううん、私がちょっと強引に聞き出しちゃっただけ。あこやちゃんの様子が心配だったから。」

 「私は、大丈夫ですよ。」

 自分でも分かるほどに声が硬い。

 「人に言いづらいよね、おばけが見えるなんて。」

 「先輩、それは夢の話です。」

 「例え夢でも、気のせいでも、見えていることに違いはないよ。」

 紫乃の瞳が真っ直ぐにあこやを射る。そこに、浮わついた好奇や押し付けるような優しさの熱は無い。澄んだ水晶のように、冷えて清い輝き。

 ーーーこの人に、嘘や誤魔化しは必要ない。

 そこに、あこやの諦めや、恐れや、不快はなかった。ただ、清らかな流れに穢れを濯ぐような、静かな解放の安堵だけがそこにある。

 「毎朝、起こされるんです。早朝の…まだ陽が登りきらない時間に。」

 「声を掛けられたりするの?」

 「いえ、いいえ。何度も揺さぶられて起こされるんです。声は…無いんですけど、溜め息が聞こえて。何度も。多分、女の子かなって。なんだか息の吐き方が軽くって。」

 「そう…他には?それと、もし家具を動かしたとか、私が前に遊びに行ったときと変わっていたら、改めてお部屋とお家の間取りを教えて欲しいかな。」

 一息ついて、あこやはまた口を開く。

 「他に、他には、そう。クッキーが部屋に捨てられてた事があって。一階のキッチンで作ったものが、二階の私の部屋のカーペットの上に。後は、そうですね。勝手に兎が連れ出されてて、ベランダのウッドデッキの所にいたとか、でしょうか。プランターのあったあそこです。バニラがお母さんの育ててたものを食べちゃって、散々でした。それから、間取りは先輩が遊びに来た時とほとんど変わってませんよ。全く同じだと思ってもらって良いです。」

 捲し立てるように言ったあこやは深く息を吐いた。紫乃は、固く目を瞑りながら深く思案する素振りを見せた後、目を開けた。

 「あこやちゃん、クッキーっていうのは、前にくれたアイシングクッキー?」

 「はい、それです。」

 「捨てられてたクッキー、電車とか汽車の形をしてたでしょう。それから、プランターで育ててたのは小さい人参かな。きちんと小さい看板とかで分かりやすくしてあるやつ。」

 あの時、とあこやは記憶を巡らせる。クッキーは、母親の知り合いの子どものために機関車を象った物を用意していた。プランターにはミニキャロットが植えられていて、父親が作った人参の小さな看板が刺さっていたはずだ。あこやはぽかんと口を開けた。

 「どうして、解ったんですか?」

 紫乃はたおやかに微笑み、そして言った。

 「おばけがどんな子か解ったかもしれない。今度、泊まりに行ってみてもいいかな?」

 ◆◆◆

 紫乃はあこやをそっと揺する。柔い色調の壁紙、格子模様がぐるりと輪になった柄のあるカーペット、ミニチュアの茶器や菓子、コルクボードには手作りのアクセサリーが掛けられていて、それらは一様に夜の残滓によって仄青い空気に沈んでいた。

 「あこやちゃん、目を開けて。」 

 やさしい鈴の音のような声がそっと囁く。あこやは、ゆっくりと目を開けた。

 いつ以来だろう。早朝の、満ちるように辺りを染める透き通った藍色を見たのは。あこやは、この美しい時間の色が好きだった。それは好んで足を運ぶ海の青さに良く似ていた。

 レースのカーテンが捲られた窓が目前にある。その前に誰かが、いや、何かが居た。

 朝靄が、小さな人の形を成している。まるい頭部、掌でくるめそうな細い肩、膝立ちになった細い足、窓にぺたりとつけた椛の葉のような小さな手───。

 ───はぁ。

 ぽかり、と口のような穴が開いて、窓に吐息を吐きつける。そして、小さな指がつるつると線を引いていく。

 曇った窓に、幾つもの曲線が楽しげに滑ってゆく。それらの内、あるものは汽車に、またあるものはうさぎになっていった。

 線が絵になってゆく度、小さな頭がこちらを振り返った。どこか得意気に、楽しそうに、何度もあこやを振り返る。

 「上手だねぇ。」

 自然と、微笑むような声音になる。あこやは慈しむように瞬きをし、窓の外を見た。

 次第に外が白んでゆく。昇り始めた陽光が、ガラスに、色彩豊かなビーズにあたって煌めき、七色の光の粒が散らばって、朝日が三人を包んでゆく。

 先輩、とあこやは呟く。

 「…わたし、あの子にお皿を買ってあげようと思うんです。線路の絵が描いてあるお皿を。汽車のクッキー、今度はちゃんと、食べて欲しいから。」

 紫乃は穏やかに頷く。

 光の中で、朝靄が嬉しそうに、揺れた。

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