天気管


 欲しいものがあるからついてきてほしいと紫乃が言った。その日は秋晴れの、薄青い色が頭上高くに広がっていた。

 吹き抜けのホールを見上げれば、柔らかい日光が降り注ぐガラスのドームがあった。窓枠に仕切られて、空は切り分けたケーキのように等分されている。

 休日だというのに、人影は疎らだった。

 つるりとした床には洗浄剤で磨いたうっすらとした跡が残っている。どこからか甲高い子どもの声がした。駄々を捏ねているのだというのは容易に想像がついた。

「元気ですね。」

 声の方を眺めながら、のんびりと紫乃が言った。

「うるさくない、こういうの。」

「我儘を言えるのは、安心できる場所にいる証拠。」

 とも言えるでしょう。と、紫乃はそう言って綾太に向き直った。

「ふうん。」

 綾太は気のない返事をして、紫乃から視線をそらした。

 さして強くない陽光に照らされる紫乃が、少しだけ眩しく見えた。

「さ、買い物に行きますよ。」

 ほっそりとした足が、すべるようにスカートを纏わせながら綾太の視界の中で動いた。

  ◆

「ねぇ、欲しいものってこれ?」

 綾太は品物に触れないように、慎重に顔を近づけた。

 うっすらと透明な円柱に映る自分の顔が引き伸ばされている。

「うん。綺麗でしょ。」

「なんだか、雪みたいだね。」

 透明な液体で満たされた、様々な長さの円柱の底には、真綿のように白いものがふんわりと積もっている。

 中には色がついているものもあり、雫の形や地球儀を模した物もあった。

「天気管……………?」

 画用紙を雲形に切り抜いて作られたポップには、可愛らしい丸文字でそう書かれている。

「そう。昔、天気を予測するために発明された物なんですよ。」

 小説にも出てきますよ。と楽しげに話す紫乃について、綾太は店内の細い通路を進んだ

 自分より背の高い棚には、ガラス製品が所狭しと並んでいる。透明な食器、薄桃色の小鳥の置物、青みがかったライムグリーンの透き通った小箱…そのどれもが少しひっかけただけで壊れるのだと判って、綾太は体が強ばるのを感じた。

「こんなに並んでて、みんな歩きにくくないの?」

 棚の上に見える切り揃えた茶髪がかかるピンクのカーディガンや、黒い長髪を後ろに流した女性達の頭を見ながら、綾太は小声で紫乃に尋ねた。

「さぁ…気にならないんだろうね。」

 同じように小声で答えた紫乃が、棚の前で止まった。

  ◆

「あ、これこれ。」

 しゃがみこみ、下の段からそっと手に取ったのは天気管だった。紫乃の華奢な掌に収まるくらいのそれについた値札には、赤い線の入ったシールが上からぺたりと貼られており『不良品、インテリアとして使用可』とマジックで但し書きが添えてある。

「わざわざ不良品なんて買わなくて良いじゃん。」

「ううん、これがいいんですよ。」

 にこにこと、まるで欲しかった玩具をやっと手に入れた幼子のように無邪気に笑って見せた。

「買ってこようっと。」

 胸元に大切に抱えながら紫乃はレジカウンターへと進んだ。綾太もそれにならって立ち上がる。

 ふと、目が通路を捉えた。

 紫乃と通ってきたそれと棚を隔てた隣の通路。

 そこでは二人の女が間を空けて立ち、商品を眺めている---ように見えた。

 二人は裸足だった。

 手前の女の足の指にはマニキュアが塗られていた。

 それは水色と白が交互になって、そして乾いた土に汚れていた。

 綾太は紫乃に駆け寄って、店員に応じている彼女に半ば飛び付くようにしてニットの裾を掴んだ。

「どうしたの?」

 穏やかに聞く紫乃に、綾太は口を開きかけて、そして閉じた。店員の一人はその様子を微笑ましいと言いたげな表情で見ていた。

「なんでも、ない。」

 そのまま、緩衝材に包まれようとしている天気管を見る。店先にあったいくつかの商品とは違った様相をしていた。白い綿のようなものはシダの葉のような形を成して広がり、結晶になっている。

 それは針山のような、刺すように鋭い氷の結晶じみて、目に見える刺々しい警告のように綾太の目に映った。

 その様を凝視していた綾太に、店員が親しげに言った。

「こういうの、普通は台風とか嵐の時にできるのよ。お天気なのに、どうしたのかしらねぇ。」

 と、店員は朗らかに話しかけながら、包み終わった天気管を紙箱に納めた。

 綾太は固い表情でそれに応じることしかできなかった。

 紫乃が包みを受けとるのを、綾太は焦れるように待った。

 そして、花をあしらった腕時計が巻かれた白い手首を引っ張るようにして店を出た。

 一度だけ、店を振り返る。

 二人の店員はのんびりとお喋りをしている。

 レジカウンターの前には女が二人立っていた。

 足早に歩き去りながら後ろに耳を澄ましても、店員が客に応じる会話は聞こえてこなかった。

  ◆

「はいどうぞ。綾太君、これ好きだったよね。」

 アイスクリームが入ったカップを紫乃から受け取った。本や洋服の入ったビニール袋を持ち続けていた手に、冷たい感触が心地よい。

「荷物、持ってくれてありがとうございました。」

 ぺこ、と小さく紫乃は頭を下げた。

「いい。全然重くないし。アイスありがと。」

 そう返してサイダーの風味がするシャーベットを口にした。しゅわ、と甘みが口内に広がる。噛み砕いたラムネがしゃりしゃりと小さな音をたてた。

「さっきの雑貨屋さん、嫌でしたか。」

 綾太の手が止まった。

「お姉さんが…入ってたから大丈夫だと思った。」

 紫乃はさりさりとアイスをスプーンで掬っていく。

「少し前から気になっていたんですよね、あそこ。」

 紫乃は手を止めない。

 話す合間に、口許にスプーンを運ぶ。

「本に出てきた天気管が気になって…調べてみて、欲しくなってあそこに行ったんです。そしたら、ほら二人いたでしょう。」

 綾太は黙ったまま聞いていた。

 カップの中に、水色の甘い液が溜まり始めた。

「はじめは私もほんとうに、調子の悪い製品なんだと思っていました。でも、違ったんです。あの二人がいるときだけ、反応していたんです。」

 正確にはその数時間くらい前から、ですけど。そう言ってレーズンの粒を美味しそうに噛んだ。

「見張ってたの?」

 驚く綾太に紫乃は軽く頷く。

「確証が欲しくて。ほら、高校生だったら欲しい物を買おうか買うまいか、何度か行ったり来たりしていても怪しまれないでしょう。」

「お姉さん、そういうことするんだ…。」

「私もしますよ。15歳だもの。」

 ため息をつく綾太の横で、紫乃は天気管の箱を丁寧に開けた。取り出した管の中には、まだ刺々しい結晶が形を成している。

「ただ…こんな結晶になっていたのは今までなかったんですけどね。」

 見透かすように、ガラスの管を見つめる。

「お店の人、嵐の時はそうなるって言ってたね。」

 綾太の言葉に紫乃は頷く。

「二人がいないときは晴れの時と同じ反応を、これまでに二人がいたときは雨の時と同じ反応をしていたんですが…」

 何かを見据えるように、紫乃はガラスの向こう側をみやった。

「そういえば、綾太君。天気管は誰が作ったか知ってますか?」

 結晶を真っ直ぐ見つめたまま、紫乃は言った。

「…知らない。どっかのえらい人じゃないの?」

 すっかり溶けて柔らかくなったアイスは、混ざりあって奇妙な色彩になっていた。

「色んな説があるようですが、正確には誰が作ったのか解ってないそうですよ。」

 カップを持つ手に、自然と力がこもった。

きれいな円が歪にゆがんだ。

「それに、天気管はあまりきちんと予測できないこともあるみたいですし。」


本当は、何を知りたかったんでしょうね。

これを作った人は。


なんてね。紫乃はそう言って、掲げていた天気管をおろした。

ガラスの中で透明な液が揺れた。

しかし結晶は崩れずにいて、その様子は芽吹いた植物のように思えた。

それは綾太が覚えた不安のように、管の中に根付いていた。

 嵐の前の形、それは警告の形。

 綾太はその意味を考えようとして、そして止めた。

 せめて---せめて、隣の紫乃や、昴や、尼僧達にはそれが及ばぬように、心の端で小さく祈った。

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