水に棲む


 吸い込む空気は熱かった。それは粘り気を持っていた。

 綾太は、汗の雫が滴り落ちる自分の尖った髪の先を見ていた。

 はしゃぐ子ども達の声を、アスファルトから立ち上る蜃気楼の向こうから聞くように遠く感じる。

ゆるゆると視線を上げると、文字の所々が赤茶色に錆びた市営プールの看板が見えた。

 エアコンが壊れたのは太陽が真上を通りすぎた時刻だった。いかにも年季のはいった大型のエアコンで、動かす度にけたたましく音を立てる代物であった。

「あたしより耄碌しちゃって、まぁ。」

 たん、たん、と惠嘉は掌で側面を叩いた。夏の白い日差しに反射して、舞った埃が光っていた。

「もう使えないのそれ。」

 食卓に頬をつけてエアコンを睨みながら綾太は言った。

「しばらくは無理そうね。」

 手拭いで刈り上げた頭を撫で上げながら尼僧は溜め息をつく。

「無理、暑すぎて無理。」

 綾太は額をぶつけるように天板に置いた。箸箱や、びしょ濡れのグラスが一瞬だけ騒がしい音を立てた。

「プール行ってくればいいじゃない。友達でも誘って。」

「…ひとりでいいよ。」

「一人は駄目よ。プールでも溺れたりするんだから、ね。」

 言うなり、惠嘉は固定電話の受話器に手を伸ばすとどこかへ電話をかけ始めた。

 綾太はそれに耳を澄ませた。スピーカー越しの、どこかざらついた音声の主が誰だか判る。

「ちょっと、ねぇってば。何勝手にかけてるの。一緒に行くって言ってないじゃん。」

 電話越しにも聞こえるように大声を出すと、通話の相手は少しだけたじろいだようだった。

「そんなこと言わないの、ほら、行ってくれるって。」

 たしなめるような惠嘉を見やり、おもむろに席を立った。

「…ほんとに俺と来てよかったの。」

 手にぶら下げたヘルメットを気まずそうに揺らしながら、隣に立った昴が聞いた。

「お兄さんこそ、いいの。人混みって臭いんでしょ。」

 だからきっと、嫌がると思ったから。ごく小さな声でそう付け加えた。

「このくらいなら平気。」

 露骨に明るくなる声色に少しだけ呆れながら、二人は古びた門扉をくぐり抜けた。

 冷たいシャワーの水が、むき出しの肌を叩いていく。踏み出すプールサイドはじりじりと素足の裏を灼いた。湯気でも立ち上ってきそうな熱気と、蒸れた匂いがまとわりついてくる。それから逃げるように早歩きで流水プールの縁へと向かい、綾太は水に滑り込んだ。

 いきなり入るなよ。という昴の声を無視して視界に広がるさっぱりとした水色の風景を眺める。大小の泡がビー玉のようにきらめきながら立ち上ってゆく。

 それを追うように水面を仰げば、周りの色より僅かにくすんだ空の色が見える。斜めに降り注ぐ陽光が水中を照す中を、幾本もの人の足が行き交う様は、綾太に教科書で見たマングローブを思い出させた。

 ひらひらと水のなかを泳ぐ水着は、さながら熱帯魚のように楽しげだ。蛍光ピンク、オレンジ、ライムグリーン、綾太が名前を知らない色もそこにはあった。

 音の伝わりやすい水の中に響いてくる会話もまた面白い。

ー水着かえたの?

ーあたし頑張って痩せたのよ。

ーおいボール飛ばすなよ。

ーかりっ。

ーねぇこのあとどうする?

 ごく小さな音だった。誤って皮膚を引っ掻いててしまったような、何の変哲もない、そのはずの音だ。

 綾太は辺りを見回した。

 ふ、とあるものに目が止まった。人々の足元、プールの水底に何かがある。

 赤く、柔らかい生地であろうワンピース。何か細やかな飾りの付いた髪留めの下の、細い黒髪の筋がひらひらと水の中を揺蕩っている。肌は、周囲の水色が溶け混じるように青白い。

 女の子だった。

 膝を抱えた姿勢で、プールの水底に座っている。

 折り曲げた細い腕の先は、髪の毛に覆われて見えなかったが、あの幽かな音はそこからしていた。

 ーかりっ。

 ーこり。

 ーかりり。

 爪を噛んでいる音だ、と気がつく。

 同時に、それは綾太をどこか厭な気分にさせた。

 水の底から上を見上げて、爪を噛む。

 人を見ているのだと思った。

 まるで品定めでもしているような、物欲しそうな、そんな仕草でーーー。

 唐突にすべての音が止んだ。

 少女の黒い髪に覆われた部分が、かくん、と横に動く。振り返ろうとする動作は、人間にしてはぎこちなく不自然だった。

 まずい、と本能的に悟ると綾太は底を蹴って水面に顔を出そうとした。

 そこで視界が白くなった。

 無数の小さな泡だった。

 誰かが勢い良く腕を水中に突っ込んできたのだ、と判ったとき、綾太はすでに水面に引き上げられていた。

「大丈夫!?」

 応えられないまま、綾太は荒い呼吸を繰り返した。這うようにプールサイドに上がると、昴が背中を擦ってくれた。

「落ち着いた?」

「…ありがと。」

 昴の固い表情が和らいだ。しかしすぐに真剣な面持ちに戻る。

「何かいた?」

「女の子、いた。」

「どんなだった。」

「赤いワンピース着てた…人のことをずっと見てた、から。」

 誰か溺れるかも。そう続けた綾太の言葉を最後に、二人は押し黙った。

「プールの終了時間って何時だっけ。」

 ぽそりと昴が言った。

「五時。」

「あと二時間か。」

 スピーカーのついた、高い位置にある時計の文字盤を見る。

「見張るの。」

「うん、先帰ってても良いよ。」

「別に良い。どうせ帰っても暑いから、家。」

 すとん、と昴の横に腰をおろした。

 二人の間にはビニールのイルカが横たわっている。

「そっか…、そう。」

 昴の声は柔らかかった。綾太は輝く水面に視線を戻した。所々で上がる水飛沫が、キラキラと散っていた。

 エアコンは散々修理業者を唸らせたが、結局新しいものと交換した。惠嘉もまた財布と家計簿を見ながら唸っていた。

 やっとひと心地ついた頃には夏の夕日もすっかり沈み、夕飯はいつもより一時間ばかり遅くなった。

「あそこって死んじゃった人とか、いる?」

 ふと箸を止めて惠嘉に尋ねた。

 結局、プールの営業終了時刻までいたものの、溺れるどころか熱中症で運ばれる人もいなかった。

 テレビ画面から聞こえてくる笑い声につられて、ひとしきり笑った惠嘉がこたえた。

「市営プールのこと?ううん、あそこ昔からあるけれど、一度もそんな話なんて聞いたことないわ。」

 事故なんかあったらこの辺りじゃあ語り草になるわよ、と言って胡瓜を咀嚼した。

「ふうん、そう…。」

 綾太は麦茶を飲んだ。冷えた塊が体の中心を落ちていった。

 以来、どんなに暑い夏でも市営プールには行っていない。

 

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