玉眼


 黒々とした道路には蜃気楼が揺らめいていた。いきすぎた輝度の太陽が照りつけ、憎たらしいほど晴れた空を漂白したような白い雲が陣取っている。道を行く人々のざわめきが、蝉の鳴き声に重なって喧しい合奏になっていた。人の流れに逆らうようにして、木の根で波打つモザイクタイルの上を歩く。

 「眩しい…。」

 栗色の髪をショートカットに切り揃えた女が気怠そうに呟く。突き刺すような日光を払うかのように頭を振ると、耳元で小さなガラス玉が揺れた。汗で濡れたのか、薄い水色のブラウスがわずかに色濃くなっている。

 隣の女を一瞥する余裕すらなく歩を進める。返答のかわりに滴となって汗がこぼれ落ちた。

 ◆

 衰え、という言葉が脳裏に浮かぶ。小説家を生業としているので、家に籠りきりになる生活をしているためか、数年は殆ど体を動かしていない。趣味と仕事を兼ねて取材と称した旅行や、登山にも行っているもののここ数ヶ月はそれも無かった。

 「いざってときに動けなくなっちゃいますよ、先生。」という受話器越しの明るい女の声が頭を過った。

 彼女から新しいコラムを書かないかと誘われたのは数日前のことだ。丁度、新作が発売されて一段落したところでの連絡だった。

 「せっかくなので、現地で打ち合わせのお店探しながらにしますか?」

 運動も兼ねて、と言う担当の彼女との付き合いは今年で2年目になる。それなりに歳が離れているものの、元々馬が合ったのか、今ではかなり砕けた調子で話し合いもする仲だった。仕事における良き同僚になっている。

 「明日だいぶ暑くなりそうですけどいいんですか?俺、バテそうなんだけど…」

 「何言ってるんですか、大丈夫ですよ。あそこ喫茶店が多くてどこも評判ですから。空いてる時間帯で平日だし、入れないことは絶対に無いと思います。」

 以前はガイドブックの編集をしていたという彼女の言い分に異論は無かった。

 ―――だが、実際こうなるとは。手で申し訳程度のひさしを作って空を仰ぐ。白熱電球のように照りつける太陽は正午前から容赦が無い。

 「どこに行きましょうか?」

 隣で言う彼女がじっと自分を見上げる。決定権を譲ってもらえるようだった。

 あたりを見回す。大通りをそれて細い道に入っただけで随分と静かになる。店やマンション、アパートが混在していて日当たりも随分と落ち着いている。古いアパートの庭先には朝顔のカーテンが生い茂って濃い影を作っていた。建物の隙間に居を構えたアトリエの看板が、風に揺れている。

 ふと目に止まった喫茶店に足を向けた。何を言わなくとも彼女はついてくる。所々錆の浮いたドアノブを捻って、中へと入った。

 ◆

 「いらっしゃいませ。」

 にこやかに迎えたのは初老の男だった。カウンターの中では同じ歳くらいの女がコーヒーを淹れている。夫婦で切り盛りしているのだろうか。彼女もこちらを振りかえると、にこやかに会釈をした。

 「お好きな席へどうぞ。」

 自分達以外に客の姿はなく、いわば貸し切り状態だった。オレンジ色の灯りがほんのりと薄暗い店の中を照らしている。奥まった二人がけの席に腰を下ろした。古く、それでいてよく磨かれた窓から外が見える。青々とした蔦が抜けるような空を囲って額縁のようだ。

 「ご注文、決まったら声掛けてくださいね。」

 雫のしたたる水のグラスを置き、先ほどの男が去っていった。ちらりと見えたネームプレートには店長の文字が光っている。立ち去る後ろ姿が仕切りの向こうへと消えていくのを見届け、目の前の女に向き直った。

 その時、携帯が鳴った。許可を求めるように彼女を振り返るが、特に気にする様子はない。黙って机に視線を落としている。おもむろに通話ボタンを押し、電話に出る。

 「もしもし。」

 ◆

 「あ、先生ですか?今どちらにいらっしゃいます?」

 明るい声が電話越しに耳に飛び込んでくる。聞きなれた担当の声だ。

 「ちょっと、所用で。」

 目の前にいる女から目を離さずに答える。

 「あたし、駅にいるんですけど、お近くですか?」

 「いや、少し歩いたところだ。」

 女の顔を栗色の髪が覆い隠す。俯いた顔は暗い影に隠れて表情が見えない。

 「すぐ行くのでどこにいるか教えてください。」

 紙ナプキンに印字されている店名を告げた。グラスの結露した水滴が、机の上に小さな円を描く。置かれているのは目の前の一つだけだった。

 ふと気がつくと、女の前の机が濡れていた。

 ―――ぽた。

 顔から落ちた滴が机の上に小さな円を描く。

 「わかりました、すぐ行きますね。」

 電話が切れ、静寂が辺りを包む。驚くほど静かだ。居るはずの店主達の声や衣擦れすらも聞こえない。

 水滴は相変わらず女の顔からしたたり落ちている。女は全身が濡れていた。栗色の髪はべっとりと顔に張り付き、薄い水色のブラウスは色濃くなって、青白い肌にまとわりついていた。それでも尚俯いたまま、押し黙っている。

 「俺に何か用か。」

 沈黙を破った自分の声が妙に掠れている。喉がひどく乾いていたが、ここへ来るまで、まるで暑さを感じていなかった。この女の纏う異様な冷気が、自分に絡み付いている。

 「あそこで事故を起こしたのは、あなたか。」

 大通り付近の喧騒を思い出す。人や蝉の声に混ざるけたたましいサイレンの音。ざわつく人の声は他愛のない会話のそれではなかった。

 人ごみの間から、ひしゃげて横転した乗用車が見えた。ピンクと白の軽自動車だった。散乱したガラスや部品に混じって、女物のハンドバッグが転がっていた。

 ―――ぽと。

 粘性を帯びた液体が女の顔から落ちてきた。透明な水溜まりに赤い滲みができる。

 「…………………て。」

 不明瞭な呟きだった。すぐ目の前の人物から発せられているはずの言葉が聞き取れない。

 ―――ぽと、ぽと。

 赤い液体が、糸を引くように落ちる。液体の円は今や深紅に染まっていた。

 「つ……こう………………て。」

 ―――こん。

 場違いなほど軽い音だった。何か硬くて小さいものが机に落ちている。どろりとした赤い筋に包まれた白いものだ。

 ―――歯だ。

 根こそぎ抜け落ちた人の歯だった。

 「つれて、いこうと、おもって。」

 抑揚のない平坦な声だ。

 ゆっくりと、ゆっくりと女が顔を上げる。

 ―――顎が見えた。

 赤くぬめぬめと濡れている、破れた唇は異様な形に歪んでいた。その中に、出鱈目に押し込んだかのような歯が並んでいる。

 ―――鼻が見えた。

 だったもの、と言うべきか。赤黒い肉に埋もれて黄色がかった白いものが点在している。骨か、脂か、それすらも定かではない。

 ―――もうすぐで眼が。

 眼が合ってしまう。何故か瞼を閉じることができない。

 ―――見てはいけない。

 本能がそれを告げている。見たら、取り返しのつかない事になる。それなのに体が言うことを聞かない。冷たい空気にも関わらず、冷や汗が止まらない。

 ―――見てはいけないのに。

 指一本動かすことが出来ない。金縛りのように、ゆっくりと顔を上げていく女から目を放すことが出来ない。

 もう、肉の抉れた頬が見える。

 ―――駄目か。

 ◆

 そう思った瞬間だった。突然女が雷に打たれたかのように身震いした。

 その直後、硬直する。頭を下げ、肩を竦めたような不自然な姿勢のまま微動だにしない。

 「やめてください。」

 背後から声がした。

 澄んだ、若い娘の声だった。

 「お帰りください。」

 静かな、それでいて確かな拒絶の意志を孕んだ響きだ。

 「この人は違うでしょう、だから。」

 固まったままの女が、ぐじゅ、と濁った水音を立てる。それはどこか、人が息をのむ仕草を思い起こさせた。

 いつの間にか、自由になった瞼でまばたきをする。

 女は消えていた。ただ、テーブルに透明な水溜まりが小さく残っているだけだった。

 軽快なサックスの音が耳に飛び込んできた。年季の入ったレコードなのだろうか、ぷつぷつと途切れつつも楽しげな音楽、湯を沸かす音、コップ同士がぶつかり合う甲高い音、新しく入ってきた客の話し声がする。

 「大丈夫ですか?」

 声の主を振り返る。年はまだ十五、六だろうか。切り揃えた黒髪は絹糸のようになめらかにさらさらと揺れている。透き通るような肌やすっとした鼻筋が儚げだが、ぱっちりと見開かれたアーモンド形の双眸には知的な光が宿っている。人形かと見紛う程に顔立ちの整った、美しい少女だった。

 「君がやったのか?」

 曖昧に微笑む。柔らかに形を変えた薄い唇が、桜の花びらを思わせた。

 「助かったよ…ありがとう。」

 「えっ?」

 礼を言われたことが意外だったのか、わずかに驚く表情を見せた。柳眉が少しだけ上がった。

 「あそこまでのにはそう逢わないから、俺も油断してたな。」

 いざというときに動けなくなる。確かに、担当の言う通りだった。いつかのように、全速力で逃げ帰るのが最善だっただろうに。

 「あの、変とか思わないんですか…?」

 戸惑いを隠せないまま、少女が訊く。肩に掛けたポシェットのベルトを細い指が握りしめている。

 「色々あったからね。まぁ、半分は自業自得なんだけど。」

 苦笑して頭を掻き、ふと彼女が立ったままだったことに気がつく。品のよい薄紫のワンピースにサンダルでは立ち話は億劫だろう。

 「君さえ良ければ、もっと話を聞かせてほしいな。お礼もきちんとしたいし。」

 「はい。」

 「とりあえず、席をかえてもらおう。」

 「ここでいいです。」

 そういうと、ポシェットから小瓶を取りだして水溜まりに中身を撒いた。サーモンピンクのキラキラとした欠片ごと、ティッシュペーパーで綺麗に拭き取る。

 「すごいな。」

 素直に感嘆した。外見とは裏腹に、随分と肝の座った娘だと思う。

 「わたしも少しだけ慣れているので。ここまでしなくていいのかもしれませんが、一応燃やしておきますね。」

 「何から何まですまない。」

 「いえ、えっと…」

 困ったように首を傾げる。

 「すみません、お名前は…」

 恩人に名前を名乗っていなかったことに気が付いた。

 「あぁ、俺は刈安浩巳という。一応、作家だ。本名は別にあるが、後でいいかな。」

 娘が目を見開いた。

 「刈安先生、ですか?」

 「あぁ。」

 「怪談集と旅行記を出してる?あの?」

 女の人かと思ってた。と少女が呟く。間違われる事には慣れていた。怪談集の文体ではそれも仕方がないだろうと自覚していた。

 奇怪な出来事に慣れ始めたのもその辺りからだった。

 「そうだよ、旅行記まで知られてるのか。あれ、結構大人向けに書いたんだけど…」

 「全部読んでます。」

 大人しい表情のまま、目がキラキラと輝いているのが分かる。マニアックな登山の知識や、小難しい山岳の逸話をこれでもかと盛り込んだ巻もある旅行記を読破している少女は、余程の本好きと見えた。

 「嬉しいよ。若い人にも読んでもらえて。そうだ、君の名前は?」

 幾分か和らいだ表情で少女が名乗った。

 「宮上紫乃、といいます。よろしくお願いします先生。」

 言い終わったところで、扉にかかったベルが軽やかな音を立てた。眼鏡を掛けたポニーテールの女が一人、さも暑そうに店内に入ってくる。

 「朝丘さん。」

 刈安は手を上げて声を掛けた。女がこちらに視線を向ける。

 「あ、刈安先生!お待たせしました!!」

 もう暑くて暑くて、と露骨に顔をしかめながらこちらへすたすたと歩いてくる。動きやすいパンツ姿が様になっている。彼女のいつもの格好だ。

 「お仕事、ですか?わたしお邪魔ですよね。」

 紫乃が刈安を見上げて尋ねる。

 「担当の朝丘さんだ。これから打ち合わせなんだけど…少しくらいは多目に見てくれるよ、多分ね。」

 ほんの少し上体を捻って、紫乃に応じる。それなりに上背のある自分では、彼女と話すと自然にそうした姿勢になっていた。

 「あれ?先生どうしたんですか?親戚の子?」

 はたと紫乃に目を留めた朝丘が言う。いかにも興味津々といった雰囲気を隠そうともしなかった。紫乃は遠慮がちに頭を下げた。

 「いや、ちょっと色々あって。詳しく話しますよ。」

 朝丘に話すと、また話のネタが増えたと大喜びしそうだ。今度はホラーファンタジーとかも書けそうですね、などと鼻息も荒く言われるかもしれない。正直自分の作風には合いそうもないな、と内心照れ臭くなる。

 行儀よく席に腰かける紫乃を振り返る。その瞳が、店内の照明のなかで煌めいていて水晶のようにも見えた。

 玉眼という言葉を思い出す。

 水晶を御仏の眼として用いるもののことをさす。古い時代の、職人の技法であったという。

 そしてもうひとつ、美しい女性の瞳を、あるいは高貴な人の眼をさしてそう呼ぶという。

 ―――彼女のような眼こそ、玉眼というのだろうな。

 例え彼女が不可解な能力を持っていたとしても、思慮深さ、知恵を感じさせるその瞳の輝きこそ、紫乃の持つ本当の強さと美しさの源であるように感じる。

 紫乃が楽しそうに頷く。朝丘がこれまでの仕事の話を聞かせてやっているようだった。明るく弾むようなテンポで語る朝丘の声をに相槌を打ちながらちらりと窓の外へ視線を向ける。

 クーラーで冷やされた空気は心地よく肌をなで、店の中は客達の他愛のない会話で溢れている。パンを焼く匂いや、コーヒーの香りが漂っては過ぎていく。

 正午を過ぎた空の真上で太陽が輝く。

 その光を遮るものは何一つ、無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

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