鈴鳴


 幽かな音で目を覚ました。もうすぐ夜明けなのだろうか、まだ慣れない和室は水底のような暗い青色に染まっている。

 ―――どこからだろう。

 布団から身を起こし、音の出所を探して辺りを見回す。

 4畳半ほどの小さな部屋だ。障子窓の下の文机には、お下がりの読書灯と作りかけのつまみ細工がのっている。押し入れには服や、本や、ゲーム機をしまっていた。視線をずらした手元には、目覚まし時計と読みかけの漫画が置いてある。数少ない自分の財産だった。

 襖を開けて部屋を出る。古い木の床が月明かりを反射して僅に光っていた。

 ―――月?

 怪訝に思って窓から空を見上げる。ぼんやりと輝く三日月がやけに眩しい。朧月夜っていって、春の風物詩なんですよ。と、寝る前に聞いたラジオで言っていたことを思い出す。

 どうしてこんなに明るいのか、と何となく不安に駆られて、首から下げた細い鎖に触れる。鎖の先には、澄んだ湖水のような色の石が付いた指輪が繋がっている。その感触で少し安心した時、また幽かにあの音がした。寄せては返すように、ひそやかに鳴っているあの音。

 ―――鈴虫だ。

 りーん、という静かで柔らかな音色でわかる。だが、鈴虫は秋の虫ではなかったか。春とはいえまだ肌寒いこの季節に出てくるようなものもいるのだろうか。そう思ってまた首を傾げると、廊下へ一歩踏み出す。

 自分の部屋から隣の部屋を通りすぎた。ここでは尼僧が寝ている。友人の孫でしかない自分を手元に引き取り、嫌な顔一つせず、それどころか嬉しそうに世話を焼く老女。ここへ来て数日経ったが、新しい保護者というこの人にどう接していいのかわからなかった。戸惑う度に気まずい空気が流れると、いつもそこから逃げ出したくなる。そんな場所は何処にも無いというのに。

 部屋を過ぎて、その次はトイレがある。さらにその先には三階へと続く階段が伸びていた。音はその上から聞こえてくる。

 ◆

 様子を見ようと階段の上を覗き込んでみても、格子に組まれた梁の天井が見えるだけだった。ただ、今いるところと同じ青く深い色を湛えた空間が、そこにも満ちていることがわかって少し安心する。一段一段ゆっくりと足をかけ、音を立てないように上がっていく。

 階段を上った先は広い屋根裏部屋だった。採光の為の小さな窓から入る月明かりで、舞い上がった埃が光の粒のように見える。

 やけに広く感じるその部屋の、最奥部に置いてあるものに視線が吸い寄せられた。

 青白い月明かりに照らされていたそれは、一着の着物だった。

 りーん、という音色はその着物から聞こえている。

 ――――着物についているのかな。

 服は虫に食われるからね、と箪笥の整理をする祖母の言葉がふと頭を過る。それがどんな声だったかを思い出すことができなくて、ひどく寂しい。

 古い床板の上を歩いて着物の前に立ち、それを見上げた。子供の自分にも、それがとても貴重な物なのだろうと思えるほどに、それは美しかった。部屋の青さよりもより深い紺青の布地が月明かりを反射して柔らかな光を放っている。一面に生い茂る草花は色彩豊かな刺繍糸からできていて、それらも燐光を発するように淡く輝いていた。繊維で作られた自然の合間には、ふくふくとした丸い鳥やどっしりと貫禄のある鴨が遊んでいる。

 足元でりーん、という音がした。はっとして下を見る。足元まで垂れた青い野原に、金色に小さく光るものがある。細かく震える二枚の羽が紺青の地を透かし、体は精巧な針金細工のようだった。長い触覚が揺れている。

 ◆

 刺繍の鈴虫が鳴いていた。糸と布でできているはずの小さな虫は、確かに魂を宿しているように見えた。

 驚きよりも、穏やかで満ち足りた気持の方が大きい。まるで、長い間探していた物をやっと見つけたかのような、安心と静かな達成感があった。青い着物を抱きしめるようにして引き寄せる。滑るように細腕の中へとおさまったそれは、豪奢な見かけに反して羽のように軽かった。

 おもむろにそれを被ってみる。同年代の子供と比べると、幾らか小柄な自分はすっぽりと収まってしまう。香や柔軟剤とは違う、朝露に濡れる森林の如く澄みきった匂いが、吸い込んだ空気に混ざっていた。

 初めて触れた筈の、この得体の知れない着物が何故だかとても慕わしかった。冷たい空気にさらされていたであろう冷えた袖が、自分を包み込むように回された腕であるような錯覚すら覚える。

 鈴虫はまだ鳴いている。ゆっくりと目を閉じてそれを聞く。季節も常識も外れたその音色は、それでも優しく響いていた。

 ◆

 目覚ましのベルを聞いて瞼を開いた。体を起こすと、白米の炊ける柔らかい匂いが鼻孔をくすぐった。小鳥の弾むようなさえずりが聞こえる。部屋を眩しく照らしているのは暖かな春の陽光だ。いつの間に帰って来たのだろう、自分の部屋を半ば夢心地で見回した。

 ぼんやりとした頭でベルを止めて考えてみても、どうにも実感がわかない。あれは、夢だったのだろうか。

 ―――とにかく、顔を洗って着替えよう。

 いつまでもここで微睡んでいては埒が明かない。布団から立ち上がって押し入れの引き戸を開けた。

 目の前に青い景色が零れ出た。朝日を浴びて、朝露に濡れたかのように煌めく鮮やかな刺繍の草花が、溢れるように咲いている。

 思わず伸ばした指先が触れる。滑らかな糸で出来た凹凸が、確かに在ることを証明していた。呆気に取られている内に、ふとこれはあの保護者の物ではないかと気が付く。考えてみれば簡単な事だ。この家にあるものが彼女のものであるというのは当然のことだろう。

 ―――ちゃんと言おう。

 寝惚けて屋根裏から持ってきてしまったのだ。これを持って、彼女にきちんと詫びなければなるまい。引き取られて早々にしでかしてしまったな、という憂鬱な気持ちで着物を抱えると、階段をそろそろと降りていった。

 ◆

 「おはよう、ございます。」

 後ろめたい気持ちで、鍋をかき混ぜている背中へ声を掛ける。豊かな白髪をひとつに束ねた妙齢の女性が振り向いた。

 「おはよう。早起きじゃない。」

 機嫌よくにこにこと微笑む。目尻や口許の皺がさらに深くなったが、年齢を気にすることができないほど、朗らかで溌剌とした表情だった。その明るさにまた尻込みする。

 「あの。」

 「トイレ?洗面所?次の…」

 そう言った彼女の視線が青い着物で止まった。

 「すみません、あの、着物勝手に持ってきちちゃったんですけど。」

 なんと言われるのだろう、と恐る恐る上げた視界には、怪訝そうに首を傾ける彼女がいた。

 「これ本当にこの家で見つけたの?」

 「昨日の夜、屋根裏部屋にありました。」

 屋根裏、と鸚鵡返しに彼女が呟く。

 「あのね綾太君。」

 僅かに戸惑う素振りを見せた後、尼僧は言った。

 「この家に屋根裏部屋は無いのよ。」

 ◆

 尼僧に伴われて再び確認した二階には、一階からの登り降りができる階段しかなかった。トイレを過ぎた廊下の突き当たりになっている砂壁の、ざらついた感触に嫌でもこれが現実だと理解ができる。

 「ごめんなさい、変なこと言って。」

 俯きがちに謝罪を述べた。視線を落とした腕の中に、青い野原と糸の草花が艶々と光っている。

 「いいのよ、気にしないで。それより、ちょっとそれを見せてもらってもいいかしら?」

 顔を上げてのべられた手に着物を預ける。結構重いわね、と呟きながら丁寧な手つきで着物を見分していく。

 「綺麗な唐織ねぇ。」

 ひとしきり見終わった尼僧が感嘆の声を上げた。

 「唐織?」

 「そう。綺麗な糸で織って作る布や着物のことだよ。」

 祖母が作っていた花の刺繍の質感を思い出す。織ったものだとわからなかった。

 「お能ではお姫様やお母さんの役の人が来ていたりするわ。まぁ、わかんないか。」

 そういって少し微笑んで、葉の筋をなぞった。

 「模様は秋草で、裏地は麻葉模様というのよ。昔から、魔除けや子供の成長をお祈りする柄と言われていてたかしらね。」

 「詳しいんですね。えっと…」

 ふと、呼び方が定まってなかったことを思い出す。そういえば、何かしら会話に詰まっていたのはこれも原因だったのかもしれない。

 「惠嘉だよ。惠嘉尼。尼さんでも、おばあちゃんでも、なんでもいいよ。」

 あ、ババアとかいったらげんこつだからね。と、惠嘉尼は拳を作る真似をした。

 「どうしよう。」

 少しだけ笑いながら考える。自分のおばあちゃんは一人しかいないし、惠嘉尼も呼ぶには難しく感じる。そういえばこの人は、寺に来る人達に茶道や華道を教えていた。あの人達親しげに呼んでいる、この呼び名が相応しい。

 「じゃあ、先生って呼んでいいですか。」

 惠嘉尼は少し間を置いて破顔した。

 「朝から生徒さんが増えたわ。いいよ、いいよ。」

 何度も小さく頷くと、綾太に唐織を渡す。

 「この着物、綾太君にぴったりの色ね。あなたのおばあちゃんも、孫には深い青色が似合うってよく言ってたっけ。」

 温かい光を宿した惠嘉尼の瞳を綾太も見つめた。

 「そうかな…。僕男なんだけど、これ大きいし、着れないし、屋根裏部屋も無いし、かさばるじゃん。変なの。」

 言葉とは裏腹に、この美しい唐織を手放す気持ちは欠片も無かった。物言わぬ着物がさらさらと涼やかに衣擦れの音を立てた。

 「仏様が下さったってことにしたらどう?」

 冗談めかして尼僧が言った。

 「お坊さんが言うと本当みたいでちょっと怖い。」

 「やぁね、怖かないよ。不思議だけど、とても善いものよ。」

 ―――きっと綾太君のお守りなんだわ。

 穏やかに続けた惠嘉尼の言葉が、唐織の包み込むようなあの感覚と被る。綾太は自分の顔がほころんでいることに気がついた。

 朝日の光に照らされて、とても、とても久しぶりに、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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