忌わく憑き

孔雀


 雪が降っている。寒いとは感じなかった。雪深い故郷に慣れ親しんだからか、感覚が鈍くなったせいなのかは分からない。ただ、見知らぬ街のビル群が墓標のようでひどく冷たく、どことなく恐ろしかった。寒さからではない震えを抑えようと深く息を吸い込むと、幾つもの匂いが鼻孔を刺して過ぎていく。排気ガスの濁った匂い、強い香水の匂い、香ばしいコーヒーの匂い、スーツに染み付いたであろう煙草の匂い。その中に場違いな匂いを嗅いで思わず目線を上げた。

 『幽玄展』と古めかしい字体で書かれた大きな看板がエントランスのガラス越しに見える。絵画の展覧会だろうか。橙色のあたたかそうな光の中を、コートやマフラーに身を包んだ人々が出入りしている。その様子がゆったりしていて、居心地の良さそうな場所に見えた。気がつけば一歩踏み出し、その美術館を目指していた。

  ◆

 高尚な芸術というものはよく分からない。いつだったか、社会見学で行った美術展で教師が熱っぽく語っていたゴッホだのシャガールだのは、絵の具をめちゃくちゃに塗りたくったようにしか見えなかった。

 これならまだ美術部の作品の方がよくわかる。あのデッサンが上手かった女の子。彼女は美大に行ったのだろうか。上手いね、と声を掛けたときにはにかんでいた彼女は、自分のことは覚えていないだろう。

 受付と思われるカウンターには険しい顔の女がいた。髪の毛には既に白いものが混じりはじめている。こちらをふり仰いだ目付きもどことなく厳しい。

 「いらっしゃいませ。お一人でいらっしゃいますか。」

 見かけより幾分穏やかな口調に安堵する。鋭敏な嗅覚が医薬品と病人の匂いを感じ取った。今までに何度か嗅いだ市販の風邪薬の匂いだ。体調を崩しているのだろう。

 「そうです。」

 「では料金はこちらになります。全ての展示をご覧になりますか?」

 指し示された料金表と地図に目を通す。

 「いえ、ここだけ。」

 1ヶ所だけを指し示して精算する。アルバイトで自由に使える貯金はあるが、余裕があるわけでもなかった。

 「こちらがチケットになります。」

 どうも、と小さく言って金の箔押しで雲紋様が描かれているチケットを受けとる。もう一度受付の女を振り返った。

 「なにか?」

 怪訝そうに首を傾げている。

 「あの、お大事に。」

 呟くようにそれだけ言って、展示室へと向かった。

 「はぁ……」

 女は片手を頬に当てたまま、そんなに顔色が悪かったかしら、と暫く困惑していた。

  ◆

 展示室は薄暗く蒸し熱かった。天井から垂らされている薄い布が夜霧のように揺れている。

 部屋は広かったが、外で微かに嗅ぎ取った濃厚な森林の匂いが満ちていた。熱さも相まって

真冬の都会から密林に迷い混んでしまったかのように錯覚する。周りの客は気が付かないのだろうか。もしくは。

 ――――自分にしか分からないのだろうか。

 恨めしそうに睨む落武者を、今にも掻き消えそうな女を、襖を蹴破って現れた怪物を。中年の男や老齢の女の後ろからひとつひとつ見てまわる。衰えた内臓から漏れ出る香り、防虫剤の匂いや湿布のツンとする臭気。様々な匂いをかき分けていく。そして、あるものの前で足を留めた。

  ◆

 「今晩は。」

 一瞬、声を掛けられたのが自分だと気が付かなかった。そうしてくれる人達とはずいぶんと疎遠になってしまっていた。

 ややあって左隣を振り返る。若い女だった。黒曜石のように黒く艶やかな瞳と視線がぶつかる。結い上げた黒髪が室内の明かりを反射して仄かに光を発していた。白い肌は陶器のように滑らかで、深い緑色の着物が良く映えていた。

 「この絵、ずっと見てるのね。」

 好きなの?と薄紅色の唇が動いた。声色は静かで柔らかい。

 「ええ、まぁ」

 綿毛のような子犬がじゃれあっている絵だ。ふわふわと愛くるしいそれは、耐震ガラスの仕切りに守られている。

 「犬が好きなの?」

 長い睫毛で囲われた瞳が瞬く。

 「飼ってました。」

 もう死んじゃったけど、という一言を付け加えることができなかった。尻すぼみになる声とと共に目線が落ちていく。

 「そう…」

 女の方は目を逸らさなかった。

 「ねぇ君、半分は違うよね。」

 僅かに声が低くなる。

 「この絵を見てるのではなくて、後ろの絵に見られないようにしてるんでしょう。」

  ◆

 思わず顔を上げる。女が微笑んでいる。妖しく、やわらかく、底の見えない笑みだ。

 「どうして、ですか。」

 自分の声が微かに震えていた。

 「意外と分かりやすいタイプなのね。」

 女の微笑みは崩れない。

 「だって、一瞬見てすぐに目を逸らしたでしょ。それもすごい勢いで。」

 あの屏風。そう言って指差す先には、金地に肘をついて寝そべった娘が描かれていた。一糸纏わぬ娘の裸体を撫でるように、紅梅が鮮やかに垂れている。その花簾から孔雀の尾羽がのぞいていた。尾羽にある目玉のような模様や、光沢を放つ青緑の羽毛から雄の孔雀だと分かるが、頭だけが梅の花に隠されて見えない。

 「…女の人と目が合うんです。」

 「あの寝そべっている女の子?」

 「違います。」 

 ふっくらとした頬を染めた娘。あでやかに咲き誇る梅の花。流れるように描かれた孔雀の尾羽。天鵞絨のような羽毛。

 そして、茶褐色の目玉。梅の花の隙間から、青白い顔の女がこちらを覗いていた。見開かれた目は人でなく鳥類のそれを思い起こさせる。細い筋となって顔に張り付く黒髪を払おうともせず、微動だにしない。本来首筋や肩があるべき部分には、孔雀の胴体が繋がっている。

 「あの人です。絶対人じゃないけど。」

 噎せかえるような森の匂いを嗅ぐ。強すぎるその香りは、警告のようにも感じた。

 「すごいわ。」

 着物の女が無邪気に手を合わせた。

 「私の絵が視える人、久し振り。」

 帯の内側から薄い金属製のケースを取り、中から1枚の紙片を差し出した。

 「今日は私の作品を視て下さってありがとう。私の名前は深瀬氷奈美。あの屏風の作者よ。」

 受け取った翡翠色の紙片には連絡先と画家という肩書きが記されている。

 「君のお名前は?」

 なんというの。氷奈美が尋ねる。

 「昴、篠崎昴です。名字は今世話になってる親戚のもので、本当は匂坂昴っていいます。」

 受け取った名刺をそっと掌で包みながら、昴は答えた。

  ◆

 「じゃあ、昴君。と呼んでいいかな。」

 氷奈美の友達に呼び掛けるような口調がどこか懐かしい。

 「呼び捨てでも何でもいいですよ。」

 「なら私も何でもいいわ。」

 目上の、それも画家に言うには気が引ける。

 「さすがに何でもっていうのは…じゃあ、先生って呼んでいいですか。」

 「勿論よ。」

 にっこりと笑って氷奈美が頷いた。

 「それからね昴君。早速だけど君に紹介したいひとがいるの。」

 「知り合いの人ですか?」

 この会場に来ていてもおかしくない。いささか気が早いようにも思うが。

 「あの屏風のモデルになってくれたひと。」

 氷奈美の肩口からもうひとつ頭が見えた。唐突に、しかしずっとそこにあったかのように自然に、茶褐色の目を見開いた女の首がのっている。それが伸びあがって孔雀の胴体が姿を現す。鋭い鉤爪を持つ足を折り畳み、氷奈美の肩に体を預けた。

 「マユというの。」

 名前をつけたのは私ね、と氷奈美が笑った。

 孔雀女―――マユは首を傾けて昴を見る。一言も発することなく、その仕草は鳥そのものだった。

 「…………マユ」

 驚くあまり名前を反芻する事しかできない。緑の匂いが一層強くなる。深い森の香りは、マユから漂ってくる。

 「これからよろしくね、昴君。」

 氷奈美の声と共に、マユの瞳が細くなった。

 

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