高瀬雅也#1
俺が麻里絵と出会ったのは35歳の時、彼女はまだ15歳の半ばだった。
商社マンとして世界を飛び回る俺は、仕事以外のことに興味がなく恋人も10年近くいなかった。
もちろん自炊なんてするはずもなく、日本にいる間は近所の定食屋に毎日のように通っていた。格別味が良いというわけではなく夜遅くまで営業しているから、というのがその理由だったのだが、何故かその定食屋の経営者夫婦に気に入られてしまった。
両親と疎遠な俺に顔を合わせる度「野菜は食べているのか」や「痩せてきたんじゃないか」など口うるさく言うその夫婦に、少し煩わしさも感じつつ親しみを感じていた。
『あだち』というその定食屋はその安達夫妻が二人で切り盛りしていたが、ある時から一人の若い女の子が働き始めた。聞けば、遅くにできた夫妻の一人娘が手伝っているのだという。
それが安達麻里絵、俺の妻になる女だった。
病気で手首を悪くした女将の代わりに給仕をしていた麻里絵は、15歳に見えないほど大人びていた。あっという間に常連達のアイドルになったが、正直なところ俺は何の興味もなかった。
麻里絵が店に出だしてから数カ月後、閉店間際の人が少ない店で女将に相談を持ちかけられた。
聞けば麻里絵が店の手伝いのせいで勉強の時間が取れず、高校受験に差し障りがあるかも……ということだった。他に従業員を雇う金もなく、かといって麻里絵の手伝いなくしてはもう店は立ち行かない、廃業するかもしれないとまで言われた。
「俺にできることがあれば……」と申し出ると、店にいる間だけ少しでも良いから麻里絵の勉強を見てやってほしいと懇願された。お礼に食事を無料にするから、とも。
毎日でなくてもよいからと哀願され、俺は渋々麻里絵の家庭教師をやることになった。食事代無料に惹かれたわけではない。ただ、実の親より親しいこの夫妻に何か協力したかっただけなのだ。
そうしてなんとか高校受験を終えた冬のある日、いつものように『あだち』で食事をしている俺の横で女将が麻里絵に「卵を切らしたので買ってきて」と頼んでいた。閉店間近で外は雪がちらついているにも関わらず。
女将に指定されたスーパーは俺のマンションの近くだったので、食事を終えた俺が一緒に付いて行くことにした。
スーパーへの道すがら、マフラーを鼻まで上げ口元を覆い隠すようにした麻里絵はいつになく大人しく言葉数が少なかった。いよいよスーパーに到着した時、麻里絵は意を決したように口を開いた。
「あの、これ……」
そうして俺に小さな箱を差し出した。
茶色の包装紙にピンクのリボン。プレゼントのようだ。
「ん?」
「あの、今日バレンタインだから……その、お母さんに頼んで高瀬さんと外でお話できる時間を作ってもらったの」
不自然過ぎる買い出しは、麻里絵が女将に頼んだ芝居だったらしい。
「あ、返事はいいの!言いたかった、だけだから」
そうやって踵を返そうとする麻里絵の腕を掴んで制した。何故そんなことをしてしまったのか。
「気持ちは嬉しい。ありがとう」
泣き出しそうだった麻里絵が俺の言葉で笑顔になった。
妹、いや、下手したら娘のような年齢の少女からの告白はあっさりと受け入れることはできなかったが、麻里絵にはその返事で十分だったようだ。
スーパーの駐車場で自動販売機のホットコーヒーを飲みながら、麻里絵と少し話をした。
仕事の話、家族の話、『あだち』の話。
どれくらいそうしていたのだろうか、すっかり空になって冷たくなってしまったコーヒーの空き缶をゴミ箱に捨てると、一人で帰ると言い張る麻里絵を説得して店まで送ることにした。
歩き出してすぐ、異変に気付いた。
空が、赤い。サイレンが、うるさい。
『あだち』のある方角が赤く染まっていた。
「え?火事?」
店に向かう足取りが二人とも自然に早くなっていった。まさか、そんなはずはない。
俺たちが『あだち』に着いた頃には、店は見るも無残な姿になっていた。まだ懸命な消火活動が行われてはいるが、明らかに火元は『あだち』だった。
立ち尽くす麻里絵の姿を見た婦人が大声で叫びながら走り寄ってきた。
「あぁ!麻里絵ちゃん!無事だったんだね!!」
「おばちゃん!お父さんとお母さんは?」
「それが……まだお店の中にいるみたいなんだよ」
それから数時間後、安達夫妻は焼け跡から遺体となって発見された。
住居兼店は全焼だったが、不幸中の幸いで周りが空き地と駐車場だったため延焼は免れた。
麻里絵は両親がまだ炎の中にいると告げられてから、ずっと半狂乱で店に入ろうとしていた。俺に抱きかかえられながら声が枯れるまで両親を呼び続け、やがて完全に鎮火された店から出てくるブルーシートを見て倒れこんだ。
身寄りのない安達夫妻の葬儀は麻里絵と近所の人々、そして『あだち』の常連客だけで執り行われた。その間麻里絵は近所の人の家に泊まらせてもらっていたようだが、食事も取らず日に日に弱って行くのが見て取れた。
葬儀が終わり、いよいよ麻里絵の身の振り方を考えなければならない時が来た。近所の人々は施設に行くべきだと言い、麻里絵は住み込みの仕事を探すと言った。
ようやく16歳になったばかりの少女が、家と両親を失い、高校へ行くことも諦めてしまった。
やるせなくなった俺は、麻里絵につい言葉をかけてしまった。
「うち、来るか?」
ここから俺の人生は狂い始めたのだ。
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