二階堂翔太#2
未だ利き腕が不自由な僕に変わり、よっくんが書いたノートを後でコピーしてくれる約束になっていた。
なので、授業中は下を向くことなくずっと前を見ていた。
正確には右前方に座る彼女の後ろ姿を。
後ろからは、一つに束ねた長い黒髪と形のよい耳、そしてパステルイエローの薄いニットに包まれたほっそりとした二の腕しか見てとれなかった。
必死に教授の言うことに耳を傾け、要所要所でメモを取っているようだった。
その姿はとても純粋に学問の楽しみを享受しているように見えた。
僕はさっき垣間見た彼女の瞳を反芻するように思い出していた。
柔らかいカーブを描く眉に、少し垂れ気味の目尻。ぱっちりした目、とは言い難いけれどとても愛らしい黒い瞳だった。
高校時代の倍近くある長い授業が終わると、彼女はさっと身の回りのものをまとめ教室を出て行った。少なくとも今日は一緒に行動している友人はいないようだ。
立ち上がった僕はヤマケンの耳元で尋ねた。
「よっくんの前の方に座ってた、黄色い服の子名前わかる?」
「どの子ぉ?そんな子いたかなぁ」
大あくびをしたあとヤマケンは答えた。
ヤマケンは早くも堕落した学生生活を送ることにしたようだ。寝起きでスッキリしました、と顔に書いてある。
「高瀬さんじゃないか?」
意外にもよっくんが答えた。
高校時代から硬派なことで有名でひたすら剣道に明け暮れていた男が、出会って数週間の女の子の名前を覚えているなんて。
「あぁ、高瀬さんねぇ。まぁ、かわいいっちゃかわいいけど……翔太はああいう子が好み?」
「……聞いてみただけだろ」
右肩に背負ったリュックがずり下がらないように位置を調整しながらヤマケンに向かって吠えた。
廊下を歩く僕達三人の後ろから誰かがパタパタと駆け寄り、追い抜きざまにくるっと振り返った。
「二階堂くん、だよね?」
肩までの栗色の髪を内側に軽く巻いた、流行りのアイドルのような女の子が僕の方を見て尋ねる。
「あ、うん」
「明後日の金曜日、学科の新入生が集まる飲み会があるんだ。それで二階堂くんもどうかなって」
パッチリとした二重の瞳と薄く色付いた唇を輝かせて彼女は言った。
「えーっと……」
どうしようか。『高瀬さん』も来るのだろうか。
「実は今のところ全員出席予定なんだ。だから是非是非来て!」
全員出席……高瀬さんも来るのだ。結局のところそれが決め手となった。
「あ、じゃあ……行く」
「詳しい話はlineで送るからね!」
そう言って彼女は来た時と同じ足取りで去っていった。
「
ヤマケンはどうやら彼女に気があるらしい。
正直なところ確かに可愛かったが、それでも高瀬さんの持つ不思議な魅力、ある種の『陰』を感じさせる何かが、僕には忘れられなかった。
目と目があったあの一瞬で、僕はすっかり高瀬さんに囚われてしまった。
金曜日、飲み会は18時に始まった。
バイトがあるからと途中で抜けるものもいたが、学科新入生全員が一堂に会した。
とは言えあまり人気のない学科で、新入生だけだと50人にも満たない。
担任の先生は幹事の会田さんにそっと封筒を渡すと、一杯だけ飲んでいつの間にかいなくなっていた。「あとは若い者だけで……」ということらしい。
僕はさりげなく高瀬さんを探した。
彼女は入り口に背を向けるように座っており、時折隣の女子と笑顔で会話を交わしていた。僕が通されたのは高瀬さんとはかなり離れた席だったので喋るチャンスはなかなかなさそうだ。
僕の隣、隅っこの狭いスペースに、入り口で先生を見送っていた会田さんが座った。
「先生すごい太っ腹」
封筒をユラユラ揺らしながら会田さんがニヤっと笑う。
あ、こんな顔もするんだ。
『陽』そのものの印象だった会田さんが、少し蠱惑的に見えた。
「ラッキーだね」
そう返すも、他に何を話せばいいのだろう。僕は元々そんなにモテるタイプではない。平均身長、並の顔、どこにでもいそうなタイプ。『柴犬みたいな顔してるね』などと言われたこともある。
「二階堂くんはどこ出身?」
「岐阜だよ」
会田さんの顔がパァっと輝く。
「あ、私!名古屋〜」
それからしばらく地元の話で盛り上がった。ふと気づくと僕のスマホが鳴っている。
会田さんに断って発信者を確認すると、ヤマケンだった。三つ隣の席に座っているヤマケンを伺うと、顎を必死でしゃくっている。どうやら何か話したいようだ。
「何?」
やっとのことで席を立ち、入り口近くでヤマケンと向き合った。
「席替わってくれ!」
そうだった。ヤマケンは会田さんが気になっているのだ。
「いいよ。じゃあ僕はヤマケンの……」
言いかけたその時、高瀬さんの隣の席が空いていることに気付いた。きっとバイトで抜けた誰かが座っていたのだろう。
「僕はあっち座るから……」
僕の言葉を聞いているのか聞いていないのか、ヤマケンはさっさと会田さんの隣に滑り込んだ。
「ここ、空いてるかな。友達に席取られちゃって……。」
言い訳にもならないことを呟きながら高瀬さんに断りを入れた。
「あ、うん。友達がバイトがあるって帰っちゃって。だから、空いてるよ」
想像していたより低めの落ち着いた声。
後ろから話しかけたせいで、図らずも授業の時に垣間見たあの構図と同じ姿勢で見つめられる。
「えと……二階堂翔太です。初めまして、だよね」
「高瀬麻里絵です。初めまして」
ふわっと笑う高瀬さんは、何故だかとても大人っぽく見えた。
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