「いやあ、もったいないねえ。もったいないよ半田はんださん」

 無心で豚肉をスライサーにかけていたあおいのもとに店内巡回の店長が目の前まで近づいてきて、彼女のつま先から頭のてっぺんまでジェラートを舐めあげるようにして眺めたあと、粘っこい口調で言い放った。何のことか、聞かなくてもわかっている。

「お疲れさまです。スライスの仕方、よくないですか?」

 顔を覗きこんでくる権威ある中年男の吐息の噴出方向に注意を払いながら、真面目な顔してとぼけて尋ねる。違うよお、肉は肉でも、豚じゃないよお? 店長はそう言って葵の二の腕のあたりを握るようにして叩いた。来るぞ来るぞ。葵は心の中で身構える。

「半田さんせっかくスタイルいいのに、その恰好じゃなんにも見えないんだよなあ。とくに今日の作業衣さあ、サイズが大きいんじゃないかなあ。もったいないなあ。半田さんだけ別の作業衣にしちゃってもいいんだけどなあ。ほら、もっとこう、ボディコンのさあ。こういう、こういうの」

 もったいないオバケはそう言いながら、胸のふくらみや腰のくびれ、尻のでっぱりなどを体をくねらせながら両手を使って示す。ボディコンてなんの略だっけ、ボディー・コン、コン……、と考えながら、

「もー、またそんなこと言ってるんですかー。真面目な話かと思いましたよー」

 同じような口ぶりで返してやる。どんな対応が最も面倒くさくならないか、女なら誰でも少女のころから体得している。本来ならこういうときは人前に逃げ、他人にも話を振って軽く吊し上げてしまうのが一番なのだが、葵の持ち場である精肉コーナーには、葵のほかに食品部長の千田せんだという仏頂面の男と、頻繁にセクハラを受ける葵を妬む、頭がからっぽのオバサンしかいない。部長の千田は頼りになるどころか、二人きりでいるときは仏頂面のまま長いこと葵の尻を眺めまわしていることもあって、店長より恐ろしい。そういう事情で、葵はいつも一人で戦っていた。握りこぶしをつくって頭の上にかざし、鉄拳を振り下ろすジェスチャーを見せながら、それでも笑顔で速やかに作業を終えて立ち去る。そうして場所をかえて別の仕事に勤しむのだ。こんなのは大したことじゃない、と葵は思うようにしていた。作業場にいようが、冷凍室にいようが、売り場にいようが、店長やほかの男性社員、ヒマを持て余す常連客のちょっかいは繰り返される。既婚、子供なし、三十五歳、パートタイマーというのは、そういう相手としてちょうどいいのだろう。うまくあてがわれているのだ。わかっていながら、だからと言ってどうしようもないという諦めが、葵の心を占拠していた。

 スーパーマルヨシは葵の自宅から自転車で二十分ほどのところにある小型の地域密着店だ。自宅近くには他にスーパーが何店舗かあったが、近所の顔ぶれを避けてわざと遠いその店を選んだ。朝、夫を送り出したのち自転車で仕事場にむかい、八時半から十五時まで働き、その場で夕飯の食材と日用品を買って帰宅する。職場と自宅との短い往復。毎日牛や豚の肉をスライスにし、ミンチにし、分量を量ってパックに詰め、並べる。そうやって彼女は肉を一つひとつすり潰すように、一日いちにちをこなしていた。

 終業し、タイムカードを押したのち、店長の目につかぬように買い物をしていた。店内に、大学生くらいの、カップルと思しき若い男女がいた。二人とも、今どきと言うよりはかなり派手な格好をしていたので、遠目でもひときわ目についた。葵が日用品のコーナーを回っていた時、男がひとりで現れ、女性用のヘアカラーを二つ、カートに入れるのが見えた。葵はその動作が、どこか気になった。男はその後、少しうろうろしてから女と合流した。二人から遠ざかり、商品棚に隠れながら観察を始めた。二人はその後もいくつかの商品をカートに放り込んでいった。

 それから、二人はレジに向かった。会計をする様子を、葵はじっと見つめた。レジ係が最後の商品をスキャンし、女が財布から札を取り出し始める。二個のヘアカラーがカートから出てくることはついになかった。やった、と思った。男が肩から下げているトートバッグ。あれに入れたのだ。そう思うと、店長の部長もセクハラも、どこかに吹き飛んでいた。自分の働いている店が万引きの被害に遭ったことが我慢できなかった。自分のカートをレジの横に置いて、店の出入口から商品を袋詰めする二人をうかがった。

「ちょっと、あなた。お会計済んでないものあるんじゃない」

 店を出て歩く二人の、男に後ろから声を掛けた。振り返った若い男の顔は、明らかに恐怖を感じたようだったが、葵の顔を見るなり何かを思いついた素振りをして、

「あっ、そうだ、お姉さん。ちょっと」

 と言って葵の腕を取って店の方へ歩き出した。

「茜、先行ってて! すぐ行くから!」

 茜、と呼ばれた女のほうは、立ち止まって困惑している様子だった。知らないのだ、と思った。

「お姉さん、返すから。勘弁して」

 そう言いながら、女のほうを気にしている。やはり、単独でやったらしい。どうしてくれようか、ここへきて急に迷った。迷いながら、葵の頭一つ分高いところにあった男の顔をひたいが突き合うほど近づけられて、その顔立ちを凝視していた。その若い男の顔は、整っていた。切れ長の目が、刺すように葵に向けられ、葵は男のバッグへ視線を逸らした。

「じゃあ……、出して」

 それ以上の言葉が出てこなかった。マニュアルにある台詞を忘れ、叱責もできず、悪態すらつけなかった。ただヘアカラーを二つとも取り戻して、釈放した。黒染めのヘアダイだった。遠ざかる二人の、女の後ろ姿を追った。髪の色は金髪に近い。あの髪を染めるためのものだったのか。買えよ、二つも盗りやがって、と今さら悪態をつきながら店内に戻った。全くつまらなかった。

 つまらないと言えば、帰宅してからのちが葵にとって最もつまらない時間だった。まだ仕事場の方が話す相手があり、できごとが多い分、刺激があった。夫のいつきの帰宅はいつも0時を過ぎる。飲んでいようがシラフだろうが、必ずそうだった。ひどい時には二時や三時のときもあった。デパートの営業なんてみんなそうだよ、と樹は言うが、葵は半信半疑だった。スーパーマーケットから買い物袋を提げて帰宅してからおよそ八時間、彼女はひとりで黙りこくって夕飯をつくり、ひとりで食事をし、夫の帰宅を待たずに就寝する。一日はそれで終わる。結婚して八年。数年前までは、帰ってくるまで起きて待っていた。それで何があるわけではないが、義務感で待っていた。

「オマエ寝ててくれていいよ。待たれてたって早く帰れるわけじゃないんだし」

 言葉そのものよりも、なかば迷惑がっているような夫の表情を見た数年前の夜、二度と夫の出迎えはすまいと決めた。それでも、布団に入ったところですぐ眠りにつけるようなことはなかった。目を閉じていくら念じても、いっこうに眠気はやってこなかった。結局、夫の帰宅する音、風呂場のドアの開閉、長い長いシャワーの音、その後ひたすら続くテレビの声、それらを聞かされたのち、隣にのそりと入ってくるのに毎回ひやりとし、聞こえてくるいびきに耐えているうちに、朝が来た。

 一晩として快眠を経験することは、今も皆無だ。

          

 翌日、仕事の帰りに薬局へ寄るため、久し振りに駅へ行った。駅前の広場に近づくと、柔らかな音色が聞こえてきた。ストリートのライブをやっているらしい。広場にはまばらだが人が集まっている。葵は頭の奥に自然と流れ込んでくるような滑らかで温かみのある音につい足を止めた。聴衆の頭越しにのぞく。五人組の管弦ユニットだった。サックスのような形をしたデジタルの管楽器がメロディを滑らかに奏で、這うようなベースとリズミカルなキーボードの中低音が支えていて、自然と体がゆっくりと前後に揺れた。音楽にそれほど詳しくない葵だったが、自分の好みを再認識させられたように感じた。インストルメンタルの曲かと思うほどの長いイントロのあと、やがてヴォーカルが歌い始めたとき、葵は思わず飛び上がるくらいに背伸びをした。全身が歌声につつまれたような気がした。引き寄せられるように、少しづつ少しづつ、立つ人にぶつかり、押しのけながら、気付いたときには最前列に出ていた。ヴォーカリストは長身の若い青年だった。太いヘアバンドで額を隠していて、目元はよく見えないが、高い鼻筋とほっそりした顎が特徴的だった。なにより、彼の裏声がよかった。いつまでも聞いていたい歌声だった。葵はかじかむ両手を固く握りしめたまま、最後の曲まで聴いた。

 聴衆が次第にまばらになってゆくなか、葵はバンドのメンバーが機材を片づけるのを呆然として見ていた。足の指先の感覚がなかった。薬局はとうに閉店してしまった。グループの紅一点であるキーボードの女性がCDを宣伝するのをぼんやりと聞いていた。歌っていた青年が葵に気づき、走り寄って声をかけてきた。

「あれーっ」

 彼は白い息を吐きながら素っ頓狂にそう言って、ヘアバンドをはずして髪をかき上げた。それで葵はやっとわかった。

「お姉さん、こないだのスーパーの人でしょ」

 ヘアカラー万引き犯だった。あっ、と言ったつもりが、まるで声が出てこなかった。買物袋からネギが頭を出しているのが急に恥ずかしくなって、咳払いをして頭を下げ、そのまま立ち去ろうとしたら、腕をつかまれた。ぎょっとして立ち止まると、彼は一枚のCDを寄越した。ジャケットに『うたかた』と書かれてあるが、それが何の名前なのかはわからない。

「これ、持って帰って」

「え……、いいんですか」

「うん。聴いて?」

 きつつきのように何度も頭を下げて、どうも、と言うのが精一杯だった。こっちの方が大人なのに、なんでちゃんと喋んないのバカ、とひとりでこぼしながら家へ帰った。

 胸がわくわくしていた。途中から、どんどん足取りが早くなった。駆け込むようにして帰宅し、鞄と買い物袋を床に放り出し、手も洗わずにパソコンの前に座った。CDをパソコンに挿入し、音楽データをスマホに移した。3曲入っていた。ヘッドホンで聴くと、公園で聴いたときよりももっとクリアに、あの青年の歌う声が頭のなかを流れた。まるで彼に抱き締められ、耳元で囁かれているようだった。夕飯の調理中も、ひとりで食事するあいだも、ベッドに入ってからも、時計を気にしながら歌を聴き続けた。何度目かの最初の曲が流れだしたとき、演奏の波を乗り越えるようにして、ドン、という玄関ドアを閉める大きな音が聞こえて、しぶしぶ音楽をとめた。しばらくしてとなりに潜り込んできた夫を今日ほど疎んだ夜はなかった。あの、名前も知らぬヴォーカルの歌声がいつまでも耳の奥で聴こえていて、ずっと眠れなかった。

 次の日も葵は駅前の公園に行ってみた。けれど、演奏しているバンドは別のグループだった。彼らが演奏したのが過日限りだったのかも知れない、と落胆して、別のバンドの歌を聴くでもなく公園をのそのそ歩いていると、不意に背後から声を掛けられた。

「お姉さん」

 声の主の顔を一瞬見上げ、慌てて踵を返そうとしたが、腕をつかまれた。

「待って。逃げなくってもいいでしょ」

 そう言われて葵は、たしかに逃げようとした自分に苛立って立ち止まった。

「お礼したいんだよ、こないだの」

「お礼」

「見逃してくれたお礼。何か言って。ほら、えーと、なんか奢れとか。コーヒーでもゴハンでも。ほら、なんかあるでしょ」

 声を掛けておきながらなんのプランもなくあたふたとする青年に、葵は噴き出してしまった。

「ごめんね、何回も顔合わせちゃって。そういうつもりじゃないし、CDも頂いたし」

「うん、それはわかってるけど」

 葵はふと思いついたことをそのまま言った。

「歌ってくれる? 私に」

 それを聞いて彼は、切れ長の目を丸くして喜んだ。

「いいよ!」

 彼の名前ははるといった。本名は漢字一文字で晴、歌うときはhaluだという。葵は今日すぐにとは夢にも思っていなかったが、彼は今から行こうと言った。夫の顔が右に左にモグラたたきのように出現したが、全部たたき潰してやった。どうせヤツの帰宅は例外なく真夜中なのだ。歩いて近くのカラオケボックスへ向かった。

「今日も聴きに来てくれてたの?」

「うん。でも今日は別の人たちだったね」

 晴が言うには、公園に陣取って演奏するのを、何組かのグループ内で曜日と時間帯の割り当てを決めているらしい。晴のグループは水曜と土曜の十八時から二十時に演奏するという。でないとぶつかっちゃうからね、と言われて葵は納得した。

「今日歌ってたのは俺の先輩。ちょっと聴きに来てたの」

「大学?」

「ううん、定時制ンときの。今は整備士やってんの。でもプロになりたいってゆってる」

「晴くんもプロになりたい?」

「なりたいな」

 葵は、絶対なれるよ、晴くんなら、と言った。本心からそう思った。

 カップルルームという名前の二人部屋を勧められた。二名だからであって、他意はないのだろうが、店員の女性は上目遣いで晴の顔をチラチラと見ながら、時折、葵の顔や手に提げている買い物袋に目をやった。親子だと思われているのか、それとも、と葵は考えて、やめた。

 部屋は本当に小さく、二人掛けのソファとローテーブル、それにカラオケの機械とディスプレイがあるだけだった。灯りを点けるとぼんやりと暗く、明るさを調節するツマミは回し足りないあたりで止まった。手触りの固い皮張りのソファはじめっとしていて、スプリングが壊れているのか、二人で座ると重みで中心に滑り寄せられてしまうのだった。晴と太ももがぴったりくっついて、葵はそわそわしながら、この子は何歳なんだろう、と考えていた。晴はまるでなんともない、というふうに内線で飲み物を注文し、薄闇のなか選曲をし、最近のポピュラーソングを2曲歌った。なにか歌ってよ、と言われ、葵は独身時代によく聴いた女性ユニットの歌を歌った。自分でも驚くほど熱唱してしまった。男の前で歌を歌うのは数年振りだった。夫とは交際していた頃に何度か行ったが、それも結婚してからぴたりとなくなった。

『うたかた』というのは、アルバムCDの名前で、グループの名前は『ケンタウリ』というらしかった。勿論、カラオケにはないので、晴はア・カペラでCDの最初に収録されている歌を歌った。葵は歌う晴の顔を、じっと見ていた。晴は葵の肩を抱き寄せた。一曲目のいくつかのフレーズだけを歌ったあと、晴がマイクのスイッチを切り、口唇を葵の口もとに軽く押し当てて、離した。途端、葵は晴の首に腕を回し、晴の口唇に吸いついた。自分のなかの魔物のような衝動を抑えられなかった。この瞬間を、最初から待っていたのかも知れなかった。何度も吸いついて、舌を強引に男の口の中に入れ、その中にある弾力のある粘っこい舌に絡めた。葵が晴を引き倒したのか、晴が押し倒したのか、二人はソファに転がった。晴の体の重みに、葵の、女の体が目を覚ましていくようだった。

 予定時間終了のコールを鳴らした内線に晴がばねのように手を伸ばしたとき、二人の体はソファの上でまだつながっていた。

「はい……あ……、ええと」

 晴の目配せに、葵は頷いて答える。急に寂しくなった。

「はい、もう出ます。はい……、わかりました」

 受話器を置き、十分後だって、と言った晴の顔を引き寄せ、葵はキスをせがんだ。

 ずっと手をつないでいた。

 カラオケボックスを出てから、葵は幹線道路で空車のタクシーを停めた。

「荷物が重くてさ、それになんか、へとへと。もうオバチャンだからさ。晴くん先に送ってあげるよ」

 急にオバチャンという言葉を臆面もなく使い始めた自分が、いやらしかった。恋人というよりは、パトロンだと思った。そのほうが自分を許せた。晴は、じゃあ隣の駅まで、と言った。ずっと手をつないだまま、二人別々に窓の外を見た。

「あの子って、こないだ一緒に来てた子?」

「あの子?」

「ほら、鍵盤の楽器弾いてる子」

「ああ。キーボードでしょ、茜っていうの。そう、スーパーに行ったとき一緒だった。あの日はスタジオで練習の日でさ。飲み物とおやつと買い出しに行ったの。でも、今までもよく行ってたよ」

「そうなの? 知らなかった。じゃあ万引きもよくしてたんだ」

「しないしない! あれは、たまたまだよ。母さんがさ、ヘアカラー欲しいって言ってて。見てみたらすっげえ高いんだもん」

 母さん、という言葉に胸をえぐられた気がした。

「そっか。ママのだったのか。ママ想いなのはいいけど盗っちゃだめよ。てっきりあの子のために盗ったのかなあ、とか考えちゃった。ほら、彼女、頭マッキンキンじゃない」

 葵は頭を指差すジェスチャーをして、やんわりと若い女子をディスってみる。晴はそれを一瞥して視線を逸らし、前はピンク色だったよ、でも今年就活だから黒に戻すって言ってたけど、とこともなげに言った。瞬間、晴が遠いところに行った気がして、葵は晴の腕を引き寄せた。晴が呼応して、葵はまた我を忘れた。晴の香水の香りにどっぷりと浸かり、駅に着いて、車が停まってから、しぶしぶと晴から離れた。LINEを交換して、晴は改札のほうへ歩いていった。振り返るのを期待して待ってみたが、彼は振り返らなかった。

「すみません、乗った場所へ戻ってください」

 午後九時を回っていた。こんな時間にひとりで出歩いているのは何年振りだろう。夫の帰宅まではじゅうぶん時間はあるが、気持ちが急いた。速足で家に着き、すぐに米を洗って炊飯器を早炊きに設定する。肉と野菜をカットし、煮込んでルーを入れる。カレーライスなら部屋に匂いが充満するからいい。三十分あれば、いつもの我が家を作れる。葵は風呂場へ行き、服を脱いで匂いを嗅いだ。カレーの匂いに混じって、晴の香水の香りがする。あの夫が気づくはずもないだろうが、念を入れて新しくシャツを出してきて洗濯カゴに放り込み、着ていた服はクローゼットの奥にしまった。それから、シャワーを浴びた。

 晴の匂いを落としながら、若い男との行為を反芻した。彼は痩せていたが、シャツを脱いだときの、胸筋のかたちは目に焼き付いていた。肩幅は広く、二の腕や太ももは筋肉質できれいだった。次は自分も裸で抱かれたいと思った。セックスをすること自体、五年以上遠ざかっていた。夫が求めてくることは結婚後一年足らずで途絶えていた。毎日忙しい。今日は疲れた。夫はそればかり口にしていた。その頃はまだ葵も純粋に夫の体調や仕事を心配していた。それが狂言だとわかり、自分がよほどぼんやりしていたのがわかったのは、葵の元同僚との浮気が発覚してからだった。それから、夫を信じるのはやめた。今でも続いているのかも知れないし、別の相手がいるのかも知れないが、考えないことにしていた。

 湯張りをし、自分はシャワーを浴びただけで風呂場を出た。ご飯をしゃもじで返し、カレー用の皿を一枚濡らして食器洗い器に入れ、ベッドに潜り込んだ。

 晴からの連絡はない。そう約束したからだが、もう寂しくなって眠れなかった。

「半田さん、今日は一段と美人だねえ。やっぱりボディコン着てほしいねえ」

「そうですかねー。もっと色気出していきましょうかー。あはは」

 土曜。心なしか、店長が可愛く見えた。子供の戯言には、相応の返事でいい。久し振りに、化粧に力を入れた。どうせ作業衣に着替えるのに、服装にも気をつかった。初めて太陽に真正面から照らされた気分だった。今までの、仕事場と自宅との往復の鬱屈としていた人生が、まったく変わった気がした。

 帰りがけ、葵はまた駅前に出向いた。店を出てから公園に着くまで聴き続けた歌を、また生で聴く。晴の姿を見たかったが、少し後ろの方で隠れていた。キーボードを弾く茜という女の子が、チラチラとこちらの様子を伺っているのがわかったからだった。晴を見ると、彼もこちらに気づいているらしく、目配せをくれた。演奏が終わったあと、すぐに駆け寄ってきた晴に、葵は買い物袋を渡した。

「あ、ヘアカラーだ」

「ママにあげて。晴くんが自分で買ったって言うのよ」

「ありがとう。ねえ、待っててよ。ちょっとだけどっか行こう」

「わかった」

 晴が子供のように喜ぶのを見て、葵は満足だった。

 晴という若い男がどうして自分などに興味を持ったのか、その疑問は芽生えたその先から欲望によって掻き消されるのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る