恋人は明け方にバラードを歌う
射矢らた
序
(ぼくの声が届いているかい――)
(君だけにうたっているから――)
(世界がいま終わりを告げても――)
(LaLa 君とぼくはつながっている――)
絶え間なく続いていた怒号と叫喚とが、不意に止んだ。
耳を塞ぎたくなるほど騒がしかった部屋に、やっと、静寂が訪れた。自分の心臓の、やたらに速い拍動だけがうるさく、まるでそれを掻き消そうとするかのように、頭のなかで耳慣れたあの歌をひたすら再生していた。ぼんやりと、眼下の惨憺たる景色を眺めながら、彼女はしばらく動けなかった。それは決して長い時間ではなかったが、大昔からずっとそうしているような感覚に陥って、ようやく鼓動が収まりだした頃に、その歌を無理に口に出してボソボソと歌い始めた。口ずさみ始めるとすぐ、目がしらから自然に涙が零れ出し、慌てて天井を仰いでも今度は目じりから流れる始末で、いっこうに止まらなかった。眼を固く閉じ、上を向いたまま歌い、涙を流した。それは、刹那の心地よい時間だった。そうして、気持ちを落ち着かせた彼女が、もう一度ゆっくりと足もとを見下ろしたとき、現実のありさまに、もう歌が口をついて出ることはなかった。
やってしまった――。
横たわる女の体に、馬乗りに跨っていた。女の両腕を押さえつけるようにして膝をつき、両手で鋏を逆さに握りしめていた。洋裁で使うその重い鉄の裁ち鋏は、もとは先端が鋭く尖っていたはずだが、片方の刃の先が折れてしまっているのが刃を覆う赤黒い血糊の上からでもわかる。数など数えていないが、よほど力を込めて何度も突き立てたはずだ。
女がどんな顔をしていたか覚えていたはずなのに、見れば見るほど思い出せなかった。確かめようにも、もう散々に潰してしまったのだ。首から上は、小さめのあごと下口唇、それに下の歯がきれいに並んだ口の一部が残っているが、そこからさらに上は、ぐしゃぐしゃと絡まる長い髪の毛に包まれた頭の皮や骨と、細かい毛の生えた頬の肉片、それらに包まれていた、どろりとした脳みそと、眼球だったはずの濁った球体、たくさんの歯と切れた舌、形の残る耳や鼻。それらがバラバラに、脂っぽい血にまみれて散乱しているだけだった。
流れ出た血が、少しずつラグマットを浸蝕していた。それを見て、彼女は不意に飛び退き、自らの腰から下のあたりを検めた。股のあいだから膝にかけて、ジーンズが血で真っ赤に染まっていた。さらにはニットの袖口も真っ赤だった。血に染まった手の甲には、何条もの引っ掻き傷があり、咄嗟に、相手の女の指を燃やさなければいけない、と思った。鋏を女の腹の上に今さらのように静かに置き、キッチンに足を運んで水で手を洗った。蛇口をひねるとき、血でぬるぬると滑った。今からは、汚れた手ではどうにもならない。蛇口についた血をきれいに洗い流したのち部屋に戻り、着ていた服を上下とも慎重に脱ぎ始めた。服を脱いで初めて、腕や胸のあたりにも引っ掻かれた痕が無数にあることに気づいた。もう二度と着ることがない服は、血の付いた部分を内にしてくるんでしまった。下着姿になって、ようやく彼女は壁際のソファに腰を落ち着けた。
ソファに置いていたバッグを引き寄せ、電話を取り出す。ボタンを押すと、スマホは何ごともなかったようにいつもと変わらぬ待ち受け画面を表示した。彼女はスマホの画面と足もとに転がる死体とを交互に観察したあと、ためらいつつも短い電話を一件かけた。相手の声を聞いた途端、手が震えだし、声はうわずった。ようやく、二言三言、会話にならぬ会話をし、電話を切ると、疲れがどっと押し寄せてきて、彼女は目を閉じ、膝を抱え、口元でぶつぶつと念じた。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ、大丈夫……。
もう後戻りはできない。やったのだ。不思議と後悔はしていなかった。彼女の心に、ほの暗い明かりがともっていた。それは小さく弱々しかったが、頼りがいのある確かな明かりだった。これから、作業をするのだ。冷静に、できるだけ速やかに、手際よく、仕事を終えるのだ。あと少しだ、きっとできる、やりきれる。彼女は部屋を見渡して、木製の椅子の背もたれにブランケットが掛けてあるのを見つけた。手に取って広げてみると、じゅうぶんに大きい。すぐに死体のとなりに敷き、肩と腰をつかんで反転させると、死体はぐにゃりと体勢を変えただけで、きれいにひっくり返ってはくれなかった。腰から下が丸太のように重く、腕の一本すら重く感じた。首から上の部分はとうに引きちぎれたものだとばかり思っていたが、床にへばりついた後頭部と皮膚や髪の毛で全部つながっていて、さっき脱ぎ捨てた服を使い、くるみ取って剥がさなければならなかった。それは、赤ワイン混じりの吐瀉物を雑巾で拭うのに似ていた。作業のあいだ、血と肉の生臭いすえた匂いが喉の奥にこもり、彼女は何度もえづいた。
死体をくるんだブランケットを風呂場まで引きずった。狭い洗い場に死体を転がし、ブランケットは空の浴槽に入れておいた。引き返し、キッチンを物色して万能包丁とパン切りナイフを持ってきた。道具はそれと、れいの裁ち鋏しかなかった。鋏を洗い、死体の着衣を切った。裁断用の鋏は、先が欠けていても残った噛みあう部分で確実に布を切ってくれた。じょき、じょき、という音とともに衣服がまっすぐ切れるのは気持ちがよかった。シャツを切って開くと、ブラジャーはすでに真ん中から断ち切れていて、自分のよりもふくよかな乳房がのぞいた。その乳房にも、あるいは腹にも、おびただしい刺し傷があった。顔を潰す前、いくら突き刺しても起き上がってくる女が怖くて、動かなくなるまでなんどもなんども刺したのだった。動かなくなってからも、女はこちらを睨んだままだった。それで両目を潰した。それから、止まらなくなった。
手の平や腕にもたくさんのかばい傷があった。右手の親指はちぎれてぶら下がっていた。それを見た途端、振り下ろす鋏を素手で受け止めた女の顔を鮮明に思い出し、鋏を持つ手が今さらになってぶるぶると震えだした。震えながら、それでも布を切り続けた。
時間をかけて、裁断は済んだ。首のない死体は、はだかになった。
分解を始めるにあたり、まず死体の血を洗い流そうとシャワーを手にしたとき、壁のタイルに張り付けてあった鏡を見てぎょっとした。まるで顔面に大ケガを負ったような、真っ赤な顔をした自分が目を見開いてこちらを睨んでいた。煉獄の悪魔が憑りついたような、おそろしく、ひどい形相だった。まさか、これが自分か、と疑った。こんな顔を今まで見たことがなかった。強張った表情は、どんなに口元を緩めようとしても、目を細めようとしても、変わらなかった。このまま、自分は本当に悪魔になってしまうのではないか。そう思って慌てて頬や鼻を触ってみると、生乾きで固まる血がまた手を汚した。鏡から目を逸らし、下着をはずして風呂場の外に投げ、蛇口をいっぱいにひねって水が湯に変わるのを待った。そして、死体とともに熱いシャワーを浴びた。それは禊の儀式だった。
――きれいにするのだ。美しくするのだ。
――なにもかも、なにもかも、なにもかも。
――あと一仕事、これで終わりだ。あと少しで、彼も私も自由になれる。
熱いシャワーを頭から浴びながら、彼女はくつくつと笑いだした。全身にとりついた穢れが熱い湯とともに流れ落ちていくような気がした。顔のない死体にも湯をかけた。いつの間にか、浴槽を洗っているような気分になった。
(ぼくの声が届いているかい――)
(君だけにうたっているから――)
(世界がいま終わりを告げても――)
(LaLa 君とぼくはつながっている――)
彼女はまた歌い出した。大好きな、彼のオリジナルバラードだ。歌いながら、彼女は彼のことを、彼と会ってからこれまでのことを、回想し始めていた。
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